妖魔との死闘
俺達はゼフィロスの森を進んでいた。妖魔が発生したせいか、見かける魔物達はどうやらいつもより少ないらしい。
昼だというのに、いやに静まり返っていた。
ノエルさんの話によると、妖魔は森の中心部よりやや南寄りの位置で発見されたという。
発見したのは、中級クラスの冒険者三人組。ちょうど最終形の依頼を請け負い、森のやや奥地まで入った時に遭遇したらしい。
その報告をまとめると、妖魔はゆっくりとではあるが木々をすり抜け移動しているとのこと。
そして進行方向は南――そのまま進めば、もろにゼト市にぶち当たる。
「妖魔ってやつぁ、妖気で体ができてやがる。その妖気に中てられると、人間なんぜ一瞬で精神がとち狂って泡吹いて死んじまうんだ。オレも半年前に、そうやって死んだ奴らを見た」
道中ガントが説明する。彼は背中に担いでいた盾を今は眼前に掲げ、油断ない目つきで周囲を警戒しながら足を進めていた。
「おまけに少しぐらいダメージを与えても妖魔はすぐに自己修復するからな。物理攻撃も通用しないし、純粋な魔力による攻撃しか受け付けないときてやがる。随分と面倒くせえ相手だぜ」
そう語るガントの言葉は、悔しいが正確な情報なのだろう。
この男は人間としては腐っているかもしれないが、冒険者としては一流だ。耳を傾けておいて損はない。
「いいか、チビども。死にたくなけりゃオレの作戦通りに動け。オレが前衛で妖魔を押しとどめている間に、ガキンチョは後ろで魔術の攻撃を食らわせろ。子犬ちゃんはオレの後ろに隠れて、チャンスを伺いつつ一撃離脱でぶん殴れ。魔拳の真似事ぐらいはできんだろ?」
「ああ。分かった。……腹立たしいけど、その作戦が一番合理的のようだしな」
「……」
ガントの言葉に俺は渋々ながら頷くが、メイファンは頑として首を縦に振らない。
素直に従う気になれないのは、彼女の境遇を思えば分かる話だ。
しかし意地やプライドよりも命のほうが重い。俺はメイファンの耳元に口を寄せると、彼女にそっと囁きかけた。
「今はとりあえず従っておこう。ここを生き延びなければ、果たせるものも果たせないしな」
不服そうな顔をしながら、メイファンがようやく頷く。
「……分かりました。その作戦で行きましょう」
「フンッ。命が惜しければ、雑魚はおとなしくオレの指示に従っていることだ」
「っ、この」
「こらえろメイファン。こればかりはガントの言う通りだよ」
「ハハッ。ガキンチョのほうは随分と物分りがいいじゃねえか。つまんねー男だぜ」
険悪な空気ながらも俺達は確実に森を進む。
そして――。
「こいつが、妖魔……?」
それは現れた。
腐ったような悪臭がしたかと思ったら、いつの間にか妖魔はすぐそこにいた。林立する木々を意に介す様子もなく突き進むそれは、汚水のような茶色く濁った体でのそりのそりと這うようにして街の方角へと向かっている。
妖魔の姿は、もはやまともな生き物の姿を取っていなかった。そもそも体らしい体があるのかどうかも分からない。
例えるならば、子どもが気まぐれにこねくり回しただけの粘土によく似ている。見た目もまるで安定しておらず、細く伸びたかと思えば今度は小山のように丸くなる。
見上げるほどにでかい。
「ハッ……相変わらず胸糞の悪くなる姿をしていやがるぜ」
ガントが不機嫌そうに鼻を鳴らして盾を構えた。剣を抜くような素振りは見せない。
「おいガキども。今ばかりは足引っ張んじゃねえぞ!? 街にこいつを放っちまったら、アーニャもソニアも抱けるような体じゃなくなっちまうからな!」
「……誰ですかそれは」
「あん? オレの囲ってる女に決まってんじゃねえか」
「不潔」
「ハハッ、ガキにゃあまだ早い話だったか、箱入り娘のわんこちゃんよお?」
そんな言葉を交わしている間にも、妖魔は着実にこちらに迫ってくる。腐臭にも似た臭いはますます強くなってきて鼻が曲がってしまいそうだ。
「『悪臭を駆逐せよ』」
接敵の前に俺は呪文を唱える。すると、悪臭はすぐになくなった。
「いい援護だ小僧。これで少しは快適に戦えらあ」
「ありがとうございます、ジェラルドさん」
「これぐらい、なんてことないさ。それよりも気をつけろ、妖魔はもうすぐそこだ!」
「言うまでもねえぜクソガキがぁ!」
叫びながらガントが盾を構えたまま妖魔に突撃する。
「ぅぉおおおらああ!」
ガントは妖魔と激しくぶつかる。その勢いのままに盾を跳ね上げると、妖魔は怯んだのかわずかにたじろいだように見えた。
「今だ犬っころ! キツい一発、奥の奥まで挿入してやれや!」
「ッ、あなたなんかに言われなくても!」
「ハッハー、ノリがいいじゃねえか犬ビッチ!」
次に前に出たのはメイファンだ。
っていうかガントはこんな時まで下ネタなのかよ。メイファンは気づいてないみたいだからいいけど……。
ともあれメイファンは流れるような、ともすればゆったりとした動きにも見える運足で妖魔との距離を詰める。
そして妖魔が間合いに入るや、父の形見である籠手に包まれた拳を突き出した。
踏み込みも、溜めも、捻りも十分に効いた痛烈な一撃。しかもただの拳ではない。メイファンの父の遺志と、そして銀光――彼女自身の魔力をまとった、妖魔にも通じる攻撃だった。
茶色く濁った妖魔の体と、神々しい銀の軌跡を描く拳が、激しく衝突する。
一瞬だけ眩んだ視界が晴れると、妖魔の体にはメイファンの攻撃によって穴が穿たれていた。
「よし、効いてるっ!」
「へっ。なかなかのもんじゃねえか」
メイファンとガントが歓声じみた声を上げるが、俺は攻撃の通じることを喜ぶ間もなく叫んでいた。
「『戻ってこい!』」
手を伸ばした先はメイファンだ。
彼女は、大声を上げた俺に驚いたのかこちらへ顔を向けていた。そんな彼女の頭上から忍び寄るのは、妖魔から伸びる汚水色をした半透明の触手である。
どうやら妖魔は自在に姿を変えることができるらしい。厄介なことだ。
メイファンとガントは触手に気づいた様子はない。そんな二人に、妖魔の攻撃は容赦なく降り注ぐ。
「ハッ……この程度で!」
さすがにガントは寸前で気づき、盾を掲げて触手を防ぐ。
だが実戦経験の足りていないメイファンだとそうは行かない。妖魔の触手は彼女に反応の余地すら与えず、メイファンが立っていた地面ごと飲み込んだ。
シュウシュウと音を立てて地面が泡立つ。攻撃を受けたところが溶かされているらしい。
これが、妖魔に物理攻撃の通らない理由である。邪気でできた妖魔の体はありとあらゆる物質を飲み込み、溶かし、吸収しながら際限なく大きくなっていく。
メイファンがいくら魔拳使いといえど、妖魔の攻撃をまともに受ければ一瞬で溶かされてしまうはずだ。
「っ、おい、犬っころ!」
ガントが慌てたような声を出す。
それだけ妖魔の攻撃は鋭かったのだ。
幾度も死線をかいくぐってきたガントですら、反応できたのは直前になってからだった。
メイファンなどは、今頃すっかり骨まで綺麗に溶かされてしまっている――とガントが考えるのも無理はないだろう。
だが。
「――あなたに心配されるのは不愉快極まりないことです」




