前世の記憶
俺が初めて魔法を使った時の話をしよう。
この世界で俺が生まれ育ったのは、ハルケニア王国の王都メイシスから見て北西の方向にある、ごく普通の農村だ。
俺の親はその村では世話役のような立場であり、他の家と比べてそこそこ裕福なほうだった。
裕福と言っても、平民の中では中の上ぐらいのもの。所有している土地だけはかなりのものだったが、それ以外はごく平凡な家だった。
そんな、ごく普通のありふれた家に魔法書があったのは、ある意味奇跡的であった。
……ある日の日暮れ頃である。
「ジェラルド。新しい蝋燭を取ってきてくれ」
「うん、わかった!」
この世界では、夜になると蝋燭かランプぐらいしか光源がない。
貴族などでは『光球』という照明の魔道具を持っていることもあるが、平民ではそういうわけにもいかない。
だから夜になると村の家々では例外なく蝋燭や蝋燭の光が灯るのだけれど、この日はちょうどリビングを照らす蝋燭が尽きかけようとしていたのだ。
蝋燭がなければ暗闇の中で食事をしなければならなくなる。
そのため、蝋燭がなくなりそうな時は物置から新しい蝋燭を取ってこなければならないのだ。
父さんの言葉にうなずいた俺は、蝋燭をしまってある物置へと向かった。
扉を開いて物置の中に入ると、雑然とした光景が目の前に広がる。
色々なもの(主にガラクタ)が無理やり突っ込まれ、確認するまでもなく散らかっていることが見て取れた。
脚の一本取れたテーブル、割れた花瓶、取っ手が外れて開かない棚、無造作に積まれた分厚く古い本や紙束……。掃除も行き届いていないため空気だって埃っぽかった。
「……いつものことだけど、蝋燭一本探すのも一苦労しそうだな」
よくこんなところに、蝋燭なんかを保存しておく気になるものだと感心する。わざわざ探すのが面倒だと思わないのだろうか、父さんは。
内心呆れながらも、暗くなる前に見つけなければならないだろう。そう思って僕はガラクタをかき分けて行く。
「……もうちょっと片付けたらいいのに」
想像以上な散らかりっぷりに、思わぬ愚痴をこぼしてしまう。
だが、それでも少ばかり根気よく探してみれば、かき分けたガラクタの向こうに蝋燭を保存している白木の箱を見つけることができた。
「……よし、あった」
蝋燭が入っている箱を開こうと手を伸ばす。だが、その手は箱に届く前に近くに積み上がっていた本の塔に触れて崩してしまった。
「あっ」
短くそう叫んだ時にはもう遅い。ただでさえ散らかっている床に向かって、分厚い本だの紙の束だのが襲いかかるような勢いで倒れていく。
目の前で床に散乱した本を見て、俺は「はあ」とため息をついた。
ただでさえ散らかっていた床が、なおのこと整理のつかない状況となってしまった。まあ、元々何がどこにあるのか分からないような有様だったけれど……。
「やっちゃったなあ……」
せめて少しは片付けようと思った俺は、仕方なしに床に膝をつけ、手近にある本からとりあえず手に取っていく。
そうして拾い集めた本の中から……俺はその本を見つけ出したのだ。
「ん? これは……」
その本は大判で、真紅の装丁をしていた。表紙には金糸で豪華な装飾が施されており、その様はまるで調度品を思わせる。本と言われるよりは、飾り物と言われたほうが納得できそうな気がした。
胸に抱きかかえるほどのサイズで、五歳の子どもでは持ち上げることも苦労するぐらいの重さだ。
おまけに、古ぼけてはいたが紙の質は明らかに上等なものだった。その歳まで、紙といえば表面がやすりみたいにざらざらしたものしか知らなかった俺は、つるつるとした手触りに思わず目を剥いた。
「何か、特別な本なのかな。凄く、高級そうな装丁だし」
どう考えても、この本は地方の農村にあっていいようなものとは思えなかった。
それこそ、噂に伝え聞いた王立図書館なんかで取り扱っているような本ではないだろうか。
そう考えると中身が俄然気になってしまう。五歳にして読み書きを教え込まれていた俺は、もうこの頃から文字を読むことが好きだったのだ。
中でも物語は大好きで、母親が寝物語に聞かせてくれる英雄譚や昔話を聞くと逆に興奮して夜も眠れないぐらい。
そんな俺の好奇心が激しく刺激されたのは当然のことと言えよう。
触ってはダメなものかもしれないという考えが一瞬脳裏をよぎったものの、好奇心を抑えきれなかった俺は本の表紙を開いていた。
だが、そこにあったのは両親に教えられたこの世界の文字ではない、まったく見知らぬ文字だったのだ。
「……? これは、えっと」
ページを繰れども繰れども、まったく見知らぬ文字が紙面を覆い尽くしていた。
外国の言葉だろうか、それとも昔の言語だろうか。
しかしたった五年分の知識では、まるで見当もつかない。分かるのは、これを自分では読むことができないということだけだった。
……まあ、それも仕方ないだろう。読めなかったのは少し残念だけど、こんな豪華な本に勝手に触れたら怒られるかもしれないし。
そう自分に言い聞かせながら、本を閉じようとした、その瞬間のことだった。
「――ッ、ぐ、ぁぁがぁぅぅっっううっっ!?」
激しい頭痛が俺を襲った。
そしてしばらく頭痛は続き、やがてそれが収まったころにはなんと前世の記憶を取り戻していたのだ。
脳の回線が焼き切れるかと思った。なんせ短いながらも、人間の一生分の記憶が頭に流れ込んでくるのだから。
ともかく、その時の俺はすべて思い出していた。
自分が緒方和彦という名前の十九歳の文系大学生だったことも、自転車に撥ねられて死んだことも、死ぬまでの自分の半生も、そして当然……日本語のことも。
次から次へと流れ込んできた記憶を前に、俺は思わず呟いていた。「な、なんなんだよ今のは……フラバか?」
フラバ……フラッシュバックという、この世界にない言葉。それを口にしたことこそが、前世の記憶を取り戻した何よりの証明だった。