初幸――hatsu-yuki――
――あそこに建ってるマンションに住むとね、幸せになれるんだって。
街にはこんな噂が流れています。
でも、ごめんね? それは結構間違いなんだよ。
その証拠にほら、マンション――浴荘の住人は淡々と生活しているの。
「あんた、今日こそ仕事見つけて来なさいよ! 家賃滞納してんだからね!」
304号室の田中さんご夫婦は、今日も奥さんの怒鳴り声で1日が始まる。旦那さんは失業中で、毎日公園で暇つぶしをしているようだ。あの2人にしてみれば、このマンションは憎しみや負の感情を連想させるのではないだろうか。
こんなに絶望感溢れる状況が幸せだなんて、よほど心中穏やかな人じゃない限り思わないよね。
201号室に引きこもる男性は、何かリカちゃんみたいな人形のコレクターだと聞いた。夜な夜な
「レイナちゃ〜ん」
などと声が聞こえる。たぶん本人は満足なんだろうけど、周りからしたらたまったもんじゃないよ。
105号室のケバいお姉さんは、毎日違う男性と歩いてたりする。男から巻き上げたお金を別の男に貢ぐのが幸せなのかな。……少なくとも、濃い化粧をして出て行くときはすごくつらそうだ。
もっと違うやり方だって、あったはずなのにね。
かくいう私も、幸せなんて程遠い。行きたくもない場所に独り置いてきぼりを食らって、なんとかマンションの家賃だけは払ってる状態。ご飯は贅沢できないし、服だって買えない。別に、慣れたからいいんだけど……。
幸せって、何なのかな? 人それぞれとは思うけど、よくわからない。辞書で調べたって、私の望む答えは載っていない。幸せなんてのは、教えてもらうようなことじゃないと思うから。
「あら、日枝ちゃん。今日もお仕事かい? いってらっしゃい」
「大家さん。いって来ます」
マンション浴荘の管理人さんは、もう還暦を超えたおばあさんなのだ。けれど歳を感じさせない元気さと、優しい声が、遠い母親を思い出させる。
たまに、夕飯の余り物とかをおすそ分けしてくれたりして、お世話になっているのだ。
「あ」
玄関を開けると、視界を占領したのは白一色だった。一瞬何が起こったのかわからず、ぼーっと玄関に突っ立っていた。
「あんた……雪が」
隣の田中夫人がいつもの通りに旦那さんを送り出そうとドアを開けると、私と同様のリアクションをしていた。
一面真っ白な雪が外庭を染めていた。奥さんは怒鳴るのも忘れて目の前の景色に見入っていた。
この街に来て、このマンションに住んで、雪は積もるものなんて考えたことがなかった。この街は比較的暖かいから、雪なんて見れないと思っていた。
「わあ……」
窓を開けたり、外に出たりして寒さと冷たさを肌で感じる。田中さんも笑ってる。大家さんも、お姉さんも、あのコレクターまでもが雪を見て笑っている。……私も、温かい気持ちになれる。
あぁ、そうか。こういうことなんだ。少なくとも私は、そう思ったのだ。
噂は間違ってたね。ここに住めば幸せになれるんじゃない。少しの幸せを感じることができる。浴荘じゃなくても感じることができるよ。
幸せはなるものじゃない。感じるものなんじゃない?
H17.12.15