その四(終)
一部お食事中の方には宜しくない描写が含まれております。くれぐれもご注意ください。
◆◆◆
「久し振りだな糞野郎、俺の事を覚えているか?」
覚えているか、だと? おれの肺に穴を開けかけた男だ。忘れようがない。
「盛森組の若頭……。あんたも生きてたのか」
「足を撃たれただけで人が死ぬもんかよ。まぁ、こいつを治すのに組長から貰った小遣い全部使っちまったし、その組長からさんざんどやされちまったがよ。怖かったぜぇ、マジギレした組長は」
「それで……今日は何の用だ」おれは震える歯の根を必死に抑え、努めて冷静に問いかける。「おれの退院を祝ってくれるってのか」
若頭は「誰が祝うかよ」と吐き捨て、不気味に微笑んで答える。
「組長からの命令だよ。やくざがカタギの男に舐められちゃあ、組の名折れだからな、自分のケツは自分で拭いて来いとよ。まぁそれが半分。後は俺の個人的なこだわりだ。たっぷりと可愛がってやるから覚悟しな」
盛森組の若頭はそう言って立てた親指を下に向け、クスリでもキメたかのような薄気味の悪い笑みを浮かべた。
やくざにしてはやることが子ども染みているが、面倒事に関わるのは御免だ。おれは「遠慮させて頂きます」と踵を返し、ドアノブに手をかける。しかし、ドアノブを握って外に出ようとするおれの手を、響子さんは無理矢理引き剥がして背中に回させた。
「なっ、何をするんだ響子さん! っていうかここは危険です、おれに構わず警察を……」
この時既に、おれは薄々感付いていたのかも知れない。何故響子さんが逃げるおれの前に立ちはだかり、わざわざ奴の元へ引っ張って行くのかを。それでもおれは認めたくなかったのだ。あんなに優しい響子さんが、もう一度恋に生きようと思える切っ掛けになったこの人が、暴力団なんかと繋がっている訳がないと信じたくなかったからだ。
だが、おれのそんな願いは後に続く二人の会話によって、微塵に砕かれてしまった。
「計画通り、ちゃんと連れて来たわよ、ミツル」
「時間ぴったりとは流石『俺の女』だ。感謝するぜ、キョーコ」
『ミツル』に『キョーコ』。なんで名前で呼び合っている。なんでそんなに親しげに話が出来る。困惑するおれを察したのか、響子さんはおれを畳の上に放り、おれの前髪を掴んで自分の顔の方に向けさせた。
「あんたって本当にバカね。アタシが誰なのか知らないで、疑いもせず何でもかんでもペラペラ喋ってさ。そのお陰でこっちはやり易かったんだけど」
訳が分からない。響子さんは言っているんだ。
「何かの冗談でしょう? そうか、これがあなたの言っていた“サプライズ”なんですね、響子さん!」
「いい加減しつこいわね。そろそろ現実を認めたらどう?」
響子さんはおれの顔に唾を吐きかけ、一歩引いた所で若頭が腹を抱えて笑う。何がそんなにおかしいんだ。なんで唾を吐きかけられなきゃならないんだ。どうなってんだよ、何なんだよこれは!
気が動転し、考えがまとまらず戸惑うおれに、若頭が気味の悪い笑みを浮かべ、一番聞きたくなかった言葉を口にした。
「まだ分からねぇか? キョーコは俺の女だよ。四か月前、お前が助けたあの女。あれがキョーコだったのさ。まさか、本当に気付いてなかったとはな!」
「ほんっと、馬鹿よねぇ」響子さんが言う。「あんた、鏡で自分の顔見たことある? あんたみたいな不細工根暗なんかに、アタシがなびくとでも思った? 長い間したくもない話をして嘘を並べて……、疲れてしようがなかったわよ」
彼女がおれをどう思っているかについては聞き流した。聞いたところで落ち込むだけだから。あの美しい足、不思議と初めて見た気がしなかったのだが、そういうことだったとは。今更言っても遅いのだが、もっと早く気付いておくべきだった。
しかし、そうなると疑問が残る。何故この若頭は自分の彼女である響子さんを、憎きおれの元へと差し向けたのだろうか。
「一つ聞かせろ。おれを殺すのになんで響子さんを使った。おれはただの一般人だぞ。そんな奴一人、道端で始末したっていいじゃないか」
「分かってねぇなあ」若頭は不気味な薄笑いのまま言う。「普通に始末して、それでうちの組長が納得するわきゃねぇだろ。盛森組に盾突いたことを後悔させてやらなきゃ、俺も組長も満足しねぇんだよ。だから、キョーコの力が必要だったってわけだ」
「そこが分からない。響子さんを使って何をしたんだ」
「キョーコから色々と聞いたぜ。てめぇのくだらない身の上だの悩み事だの、死にたがっている……なんてことも、な。だからよ」
若頭はそこまで言うと、ポケットから耳栓を取り出して嵌め、居間のテレビを点けて音量を全開まで上げる。思わず耳を塞ぎたくなるような轟音が部屋中を埋め尽くした。
「これで邪魔は入らない。思う存分てめぇをいたぶれるって訳だ」
「はァ? 何言ってるか分からねぇよ、何しようってんだよ!」
「だから、思う存分てめぇをいたぶってやれるって言ってんだ」
「聞こえねぇよ! テレビ消してくれテレビ!」
「うるさい奴だな。おい、キョーコ。こいつの口ン中に何か詰めろ」
「はいはーい。何かあるかなぁ……と。これでいっか」
若頭に言われ、響子さんがうちの台所を探って取り出したのは、ろくに洗わないまま放置されていた雑巾。そいつを水洗いして適当に絞り、おれの口の中に強引に捻じ込んだ。腐った魚に牛乳を混ぜたようなその臭いに吐き気を催したが、引き抜こうにも両腕を掴まれてしまっては、どうしようもない。
口に異物を詰められ、唸ることしか出来なくなったおれを、響子さんはニタニタと笑いながら羽交い締めにする。離してくれともがく間に、手に鉄のザックを嵌めた若頭が殴りかかってきた。
鉄の拳は鳩尾を正確に叩き、悲鳴代わりの呻き声を上げさせる。ややあって腹が燃えるように熱くなり、喉元から鉄臭いものがこみ上がって、口の間からぽたぽたと滴り落ちて行く。
若頭は左こめかみと右脇腹に一発ずつ拳を見舞い、おれの耳元に顔を近付けて言った。
「お望み通り殺してやるよ。だが、簡単には殺さない。俺の気が晴れるまで散々いたぶってやるぜ」
自分でも分かるぐらい、血の気がさぁっと引いた。いっそのことさっと殺してやると言われた方がまだよかったのに。
若頭はおれを仰向けに寝かせるよう響子さんに指示すると、靴に包丁の柄をくくりつけ、サッカーボールを蹴る要領で、おれの太股に包丁を刺し入れた。皮や肉を超え、骨にまで達した激痛で、おれの体はまるで金縛りにでも遭ったかのように固まる。
苦痛に歪んだおれの顔を見て、若頭はおかしくてたまらないと言う表情で、次々とおれの太股各所に包丁の刃を刺し入れて行く。
あまりの苦痛に脳の情報処理が追い付かず、何度も気を失いそうになるが、その都度響子さんがバケツに一杯の水をくみ、そいつを顔にぶちまけ、おれを桃源郷から現実に引き戻すものだから堪らない。
「丸まってて汚い爪ねぇ。アタシが伸ばしてあげるわ。ほぉら」
響子さんは含み笑いをしつつそう言うと、ペンチでおれの爪の先をつまみ、力任せに引っ張り上げる。爪と指の肉が剥離していく毎に耐え難い痛みが襲い、つい口に捩じ込まれた雑巾を食い縛ってしまう。下水を直接飲み込んだような腐敗臭と味が口の中に広がった。
「どうだ、思い知ったか? お前が誰に、何を仕出かしたか。俺に楯突くとどうなるか……。どうなんだ? えぇ」
若頭はそう言うと、おれの口から血染めの雑巾を引き抜いて、許しを請う声でも聞きたいのか、顔を近付ける。助けを呼びたかったが、叫んだところで周りには誰もおらず、そもそも大声を出す気力も残っちゃいない。
奴が望んでいるのはおれの悲鳴と、助けてくれと嘆願する声だけだ。それは分かっている。けれど、奴の望み通りになってなるものか。
「あんたさ、この仕事向いてないんじゃないか? おれは足を刺されても、殴打されても、爪を剥がされても泣かなかったぜ。あの時のことははっきりと覚えている。あんた、足を一発撃たれただけでぽろぽろ泣いてたっけなぁ。こんな中途半端な拷問しか出来ず、足の怪我ぐらいでわんわん泣いてしまう奴が暴力団の若頭。こいつはお笑いだ」
いくら自分の命に対する執着が薄いとはいえ、よくもまあここまで言えたものだ。若頭の顔が熟れたトマトのように真っ赤に染まる。あの暗がりの中じゃ相手の表情なんか殆ど見えなかったというのに、それすらも忘れているようだ。
「ほぉ、そうかいそうかい」額に青筋を走らせ、今にも爆発しそうな顔で若頭が言う。「まだやられ足りないってか。じゃあよ、望み通りにしてやるから、覚悟せいや!」
若頭はおれの口に再び雑巾をねじ込むと、響子さんにおれを抑え付けさせ、動けなくなったおれの頭を思い切り蹴り付ける。一発で意識が飛びそうになるが、その都度バケツの中に顔を浸けられて目を覚まさせられ、頭蓋を狙った執拗な蹴りが続く。
左のこめかみから陶磁器が砕けた時のような、鈍く嫌な音が響いた。頭蓋にヒビが入ったに違いない。このままでは本当に死んでしまう。……死んでしまう? 最初からそれが目的だったじゃないか。何故今更それを拒む、醜く生に執着しようとする。
信じていた響子さんに騙され、こんな酷い目に遭って尚、おれはまだ生きたいと思っているのか? そんな馬鹿な。自分で自分が信じられない。
思い悩むおれの事などお構い無しに、若頭は最後の一発を放とうと、右足を大きく振り被る。今まさに蹴らんとしたその時、響子さんの「やめなさい」という声に、若頭の足が止まった。
「なんだよキョーコ。お楽しみはこれからだぜ」
「それ以上やったら死んじゃうわ。彼は死にたがっているのよ。今すぐ殺すより、もっと苦しませて息の根を止めてやりたいとは思わない?」
今まさにトドメを刺されようとする主人公が、敵の女の一言で命を拾う。テレビや漫画ならそれは改心もしくは離反の前振りで、主人公の側につく予兆だ。
おれはそうであってほしいと、すがるような目で彼女を見つめたが、現実は漫画やアニメとは違う。響子さんは、うちの押し入れの中から使い古しの灯油缶を取り出して、おれの周りを囲うように撒いたのだ。
「どうせもう動けないんだし、このまま蒸し焼きにしてやればいいのよ。下の階のババァも呼んで来るから、こいつが焼かれてもがき苦しむ様を一緒に眺めましょう」
最悪だった。彼女の言う通り、今のおれには家を燃やされても逃げるだけの力はない。この上なく苦しい結末を迎えるのは目に見えている。見えてはいるが、まともに喋ることすら出来ないこの状況では、婆を呼びに行く響子さんを呼び止めることさえ叶わなかった。
響子さんが去り、おれの部屋には「友達」を自称する暴力団の若頭と、そいつにいたぶられて生死の境をさ迷う哀れな男が残された。さすがにもう、これ以上酷い目に遭うこともないと思っていたのだが、神はどこまでおれを虐めれば気が済むと言うのだろう。
「そういやぁ、そろそろ夕飯の時間だっけなあ。腹減ったろう、ちょっと待ってな。今食い物を用意してやるよ。とびきり新鮮なやつをな」
台所の隅でかさかさと動く何かを見つけた若頭は、歯を見せて笑った上で台所に向かい、食器棚からフォークを一本引き抜いて逆手に構えた。
おい、待て待て待て。何をしようって言うんだ、何を食わせようってんだよ! 嫌な予感しかしないぞ。頼む、やめてくれ。と言って止まる訳がないのだが……。
若頭は左足を引きずりながら台所を駆け、手にしたフォークを振り下ろして回っている。フォークの先に何かを刺して捕らえた若頭は、冷蔵庫の中をちらと見て、おれの横たわる居間に戻って来た。
「見ろよ、活きが良くて食べ頃だぜ。ほぉらほら」
若頭がフォークに刺しておれの口元に近づけたものは、長い間ろくに掃除もせず、放置し続けた家特有の代物。長く伸びた二本の触覚に脛毛の生えた六本足。黒い外殻に身を包んだ”台所の王者”そのものだ。
フォークの先は頭と背中の付け根を貫通しているが死んではおらず、逃げ延びようと必死にもがいている。さすがは台所の王者だと感心するばかりだが、それを今から食わされる側からするとたまったものではない。
さぁ食えよと突き出されたフォークを、おれは残る力を振り絞って口を閉じ、顔を左右に振って防ぐ。古くなった油に腐った牛乳を混ぜたような臭いが鼻孔に充満し、胃の中のものを全て吐き出したい衝動に駆られたが、そんなこと出来る訳がない。にっちもさっちも行かないとはこの事か。
「なんだよ、食えよ。食えって言ってるだろう! あぁ、くそッ……面倒臭ぇなぁ」
若頭はおれがなかなか食べないことに苛立ちを覚えるも、良いことを考えたとばかりに口元を歪ませ、冷蔵庫の中から小袋を取り出して言った。
「そうか、味が気に入らないから食わないんだな。そいつは失礼した。だったらよ、こんなのはどうだ?」
あの野郎、やりやがった! おれの大好物を、いつか飲もうと楽しみに取っておいた『液体ミルメーク・バナナ味』を……、よりによって台所の王者にぶっかけやがった。最高のものを最悪のものにぶっかけて、最低のものに仕上げやがった。
やつに対する憎しみが心の中でマグマのように煮えたぎる。煮えたはいいが、口を塞いで首を振るのが精一杯で、どうすることも出来なかった。
そうこうしているうちに、若頭は力づくで口を開かせようと、おれの唇と唇の間に指を差し入れ、無理矢理開かせようと力を込める。抵抗などしようがない。抉じ開けられた口の中、舌の上にバナナ味の台所の王者が乗り、不快な気分がおれの心を包み込む。
あぁ、最悪だ。この世にこんな不味いものがあろうとは。一刻も早く吐き出さねば。そう思って大きく開いたおれの口に、若頭は再び雑巾を突っ込んだ。
「何吐き出そうとしてくれてんだよ。ちゃんと噛めよ。味わえってんだよ」
その上で奴はおれの下顎を掴み、無理矢理上下に動かした。台所の王者の外殻がおれの口内で音を立てて砕け、この家のありとあらゆる汚染物質がおれの体内を満たして行く。
死にたくない。死ぬのを諦めたわけじゃないし、生きていたいとは思えない。けれどこんな奴に、こんな屈辱的な仕打ちを受けたまま、何も出来ずに死ぬなんて絶対に嫌だ。残る力を振り絞って、欲しいものを買ってもらえず泣きじゃくる駄々っ子のように手足をばたつかせた。
その甲斐あってか、ベランダの硝子戸を蹴破って辺りに散らす。しかし、散らした所で若頭が離れるわけもなく、逆に彼の怒りに油を注ぐだけだった。
若頭は辺りに散らばる硝子を払いつつ、何しやがると殴りつけた。
「騒ぎを起こして人を呼ぼうってか? そいつは無駄だぜ。こんなにうるさいのに誰も文句を言って来ねぇんだぞ。助けなんか来るわけねぇだろ」
全くその通りだ。わざわざ硝子なんか割らなくても、こうもテレビがうるさければ、いい加減にしろと文句を付けに来るのが常だろう。それがないということは、今この時間、うちの社宅の界隈には人の子一人いないと言うことになる。
おれはこの世界から見捨てられた。いくら助けを呼ぼうが、誰もそれを聞き入れることはないだろう。響子さんが連れて来ている管理人の婆と共に、おれは悔恨を残して無惨に死んでしまうのだ。
これは罰、そうだきっと罰だ。まだいくらでも生きることが出来たのに、それを蹴って安易に死のうとしたおれへ、生きたくても生きられなかった奴らが与えた罰なのだ。僅かな希望を持たせた上で、考え付く限りの苦痛を味わせ死に誘う。おれが一番したくなかった死に方だ。これが罰だと言うのなら甘んじて受け入れよう。だからもう止めてくれ。罰なら十分受けたじゃないか。これ以上おれを苛めて何になる。責めて死に方位は自由にさせてくれよ。
願っては見たが、それで何かが変わる筈もなく、おれの反抗を良く思わなかった若頭は、おれの口からフォークだけを引き抜いて言った。
「無駄、だがよ。そういう態度は気に入らねぇ。二度とやらないように「矯正」しねぇとな」
奴はフォークを逆手に握り締め、思い切り振り被る。その直線上にあるのはおれの左目。「矯正」と称しておれの目を潰すのが狙いって訳か、冗談じゃない。逃げようにもやめてくれと声を出そうにも、さっきのばたつきで体力の方も限界だ。指一本動かせやしない。
誰に謝り祈ろうが状況は何も変わらない。ならば考えるのも無駄かと諦め、少しでも痛みが和らぐようにと目を閉じた。振り被った若頭の手がおれの目に迫る。やるなら早くしろと心の中で呟いたその瞬間、テレビの大音量にも負けないインターホンの呼鈴が、若頭の手を止めた。
「何だよ何だよ、これからがいいところだってのに。しょうがねぇな……」
不満そうに溜め息を漏らし、フォークを放って玄関に向かう若頭。とりあえず助かったが、喜んでばかりもいられない。響子さんが婆を連れてここに来た。このままじゃおれとあいつ、両方共殺される。
声を出そうにも、這って逃げようにも、さっきもがいてたせいで指一本満足に動かせない。どうにもできないと分かっていながら、おれは玄関の扉を開ける若頭の姿を見つめた。
「よぉ、早かったなキョーコ。それであいつは」
「ミツル……に……、にげ、逃げて」
「どうしたんだよキョーコ。そんな小声じゃ聞こえないぜ」
嬉々として喋る若頭とは対照的に、玄関先の響子さんの声はか細く震えている。玄関の外で何が起きているのだろう。おれと同じ疑問を持った若頭は、どうしたんだと半開きにしていた扉を開け放した。
「生田成志さんのお友達……ですね。少しお話を聞かせて頂きたいのですが」
「えっ!? な、ななな、何故、あんた方が……」
玄関の先から聞こえて来たのは、婆とは違う聞き覚えのない男の声。心当たりは全くないが、どういうわけか、受け答えをする若頭の声が震えている。家の前にどんなやつが来ているんだと、おれは残る力を振り絞って、首を動かし体を捻る。
必死に体を捻るうち、玄関先の男と目が合った。桜の代門が刻まれた制帽を目深に被り、青のワイシャツに薄緑のネクタイを締めたその男。なるほど、若頭が狼狽えるのも頷ける。
奴は自分と婆以外の人間が来ないと過信して、この憂さ晴らしを計画し実行した。故に他の誰か、それも警察官が踏み込んで来るとは全くの想定外だったに違いない。
おれと目が合った警察官は、瞬時に事態の異常性を把握。腰に差した警棒を抜いて、これはどういうことですかと若頭に詰め寄る。
若頭は勢い良くドアを閉めて鍵をかけ、血相を変えて横たわるおれの元へと駆けてきた。
「この野郎クソッ、立ちやがれ、逃げるんだよ! ノロマが、立てって言ってるんだよ」
逃走用の人質として使うのか、奴は右手でおれの首根を掴んで無理矢理起き上がらせると、残る左手で腰に差した拳銃を引き抜こうとする。しかし焦っていてホルスターの留め具を上手く外せず、引き抜いたはいいが、勢い余って床に落としてしまった。
「あぁくそっ、あぁもう、あぁもう、あぁもう! こんな時に、ちきしょう!」
落とした拳銃を拾おうと、おれを放って身を屈める若頭。立ち上がる力すら残っていないおれは、支えをなくしてそのまま仰向けに倒れてしまう。
そこでじわりとした痛みを感じ、右手の方に顔を向ける。見ると、さっき暴れた時に割れた硝子の欠片が、右手の中指と人差し指の間に刺さっていた。
引き抜こうにも滴る血で滑って微動だにしない。体の他の部位の痛みをも忘れ、手のひらに収まりきらない程大きな欠片に四苦八苦するおれを、息の荒い若頭が再び首根を掴んで持ち上げる。彼の左手には先程落とした拳銃が握られていた。
遅れて先の警官がこの家に踏み込んで来る。ドアを蹴破って入って来なかった所を見ると、婆からここの合鍵を借りていたのだろう。響子さんは連れと思しき別の警官に手錠をかけられ、悲しそうな顔で項垂れている。
袋小路となった若頭は、おれの左こめかみに銃口を押し付け、聞き取るのが困難な程の早口で言った。
「近付くな! こいつの血でお前らの制服を汚したくなかったら、この家から出てじっとしてろ、分かったか? 分かったのかッ!?」
「馬鹿な真似は止せ。落ち着け、落ち着くんだ」
警官は手にした警棒を下ろして後退りつつ、宥めようと説得を行うも、興奮し切った奴には逆効果で、おれのこめかみにかかる圧は強まる一方。双方共に膠着状態が続く中、おれはふと、右手に刺さった硝子の破片のことを思い出した。若頭は目の前の警官に手一杯で、おれのことなど気にも留めていない。
おれは身体中の力を振り絞り、握っていた硝子の欠片を、奴の左の膝小僧に思い切り突き刺した。若頭は全身を走る激痛に耐えかねてよろけ、おれを離して俯せに倒れ込んだ。
同時に警官の「確保」と言う叫び声がこだまする。左足を押さえて苦しがる若頭に馬乗りとなり、両手を肩に回して手錠をかけた。
安堵したからか体の節々がとても痛んできた。そうだ、おれは若頭に散々な目に遭わされたんだったな。色々なことがあり過ぎて忘れていた。そんなことを考えているおれの手に、堅く重たいものが触れる。何かと思い握り締めて目の前に引き寄せる。
そこにあったのは、先程までこめかみに押し付けられていた拳銃だった。弾奏には弾丸が六発込められており、安全装置も外れていて、引き金を引けば弾が出る状態になっている。
こんな苦痛はもう嫌だ。拳銃を握ったおれの右手は、自然と自分のこめかみへと向かっていた。右のこめかみに銃口を押し付け、引き金に人差し指を伸ばす。後はそれを力一杯引くだけだ。ただそれだけなのに、何故それが出来ない。どうして引けないんだ!
結局おれは引き金を引くことが出来ず、拳銃を床に放って右手を力なく床に下ろした。拳銃は程無くして警官たちに拾われて行き、おれの頭上には憎たらしい婆の姿が映った。
「あぁ、ああ。こっぴどくやられたね。おかしいと思ったんだよ。あんたなんかに退院を祝ってくれる友達がいるとは思えないからねぇ。苦労したんだよ、奴らに気取られぬように警察に通報するのはさ。さぁさ、病院へお行き。ここは借家なんだ、これ以上汚されちゃ敵わないからね」
半死人に対して何だその言い草は。思いやりってもんがないのか。おれはこんな奴に二度も命を救われてしまったのか。
ややあって救急車が社宅の前に到着。救急隊の担架に乗せられ、おれは今日退院した病院に逆戻りとなった。
◆◆◆
「……ただいま」
「おやまぁ、あんたまだ生きてたのかい」
「生きてたのかって、昨日も一昨日も会ってるじゃないか。勝手に人を殺すなよ」
「そうかい、そうかい。そりゃ失礼。所であんた、この時間で帰って来るってことは」
「あぁ、辞めてきたよ。きっちりとな」
盛森組の若頭がうちに押し入って好き放題やらかしてから半年が過ぎた。肋骨が五本折れ、うち二本が臓器の一部に傷を付け、爪は剥がされ、左こめかみの頭蓋骨には直径七センチのヒビ、おまけに便の中から台所の王者の前足が出てくるわで、傷は塞がっても回復は絶望視されていた。
だがおれは生き残った。時々右手が小刻みに震える後遺症を残し、胃の三分の一を切り取られようと、貯金残高の全てを治療費と入院費に注ぎ込もうとも。
組の圧力からかこの件はニュースでは取り沙汰されず、おれの所には組長の使いなる男が現れ、金を渡す代わりにこのことを口外しないという取り引きを持ち掛けられた。組の次の世代を担う若頭が、民間人に落とし前を付けに行って返り討ちに遭ったとあっては、組長としても顔が立たないのだろう。
奴のしたことは気に食わないが、断って暴力団に付け狙われるのはもう御免だ。おれは黙ってそれを受け入れ、誓約書にサインを交わし、三百万円を受け取った。
あの若頭のその後については、おれが入院してすぐ組長によって保釈されたということしか知らない。とはいえ、数日前に近所の川から、顔を切り刻まれて全裸の水死体となった”暁美響子”が発見された位だ、生きていても無事ではいられないだろう。くわばら、くわばら。
三百万のうち半分を借家の修理に回し、一年近く行っていなかった会社に足を運ぶ。同僚たちはおれを白い目で見るばかりで声を掛けようともせず、おれの席には見知らぬ誰かが座っていて、無表情にディスプレイを見つめキーボードを叩いていた。
おれはとっくに、この会社には必要のない人間になっていたのだ。今回の一件は組から口止めされていて、入院の理由をきちんと説明出来ないので仕方がないのだが、一応「此方に断りも無しにこの仕打ちは何だ」と言って見た。
言っては見たものの、頭蓋骨を割られた時の後遺症でキーボードを上手く叩けないことを指摘され、上司の勧めで依願退職という形で辞めることとなった。退職金が出るし、その方が君のためになるだろうとのことだが、理不尽な辞めさせ方で法的な争いになったり、それが元で会社のイメージを悪くさせない為の措置だろう。こんな雀の涙程の退職金で何をしろと言うのか。それより何より、社員で無くなったがために、住み慣れた社宅を出て、新たに家を探さなくてはならないのが痛い。
そして、今日が立ち退き期限の日だ。期限ぎりぎりになってようやく代わりの家は見つかったが、その家ではペットを飼うことが出来なかった。まさかパンチョを棄てて行くわけにはいかず、頭を悩ませていた所、管理人の婆が引き取ると言ってきた。おれのことは嫌いでもパンチョのことは好いているらしい。おれの扱いは猫以下か。
「あんたともこれでお別れかい。寂しくなるねぇ」
「何を馬鹿な。おれがいなくなってせいせいしたんじゃないんですか?」
「いじめる相手がいなくなるからね。寂しくもなるさ。何もおかしくないよ」
珍しく優しい言葉を掛けてくるなと思ったらこれだ。別れの挨拶なんてしなければよかった。婆の悪態にうんざりし、上の階に登ろうと踵を返すと、奴はおれに背を向けこう言った。
「この子が寂しがるだろうし、たまにはこっちに顔を出しな。体には気をつけるんだよ」
「えっ……? 今、何て……」
あまりに唐突で予想外の言葉を耳にし、どういうことかと思わず聞き返す。婆はそれ以上何も言わず、おれに背を向けたまま、じゃれつくパンチョと戯れていた。聞き違いじゃないとすれば、今の言葉は一体何だったのだろう。どこかもやもやとした気持ちのまま、おれは引っ越しの荷物をまとめに掛かった。
細々とした家具類を箱に詰め、住み慣れた我が家を見回しておれは思う。何故あの時、おれは拳銃の引き金を引けなかったのか。何故絶好のチャンスを不意にしてしまったのだろう。あの時は不思議でしようがなかったが、今では何となく分かる気がする。
おれは既にあの時、心の奥底で死ぬのが惜しくなっていたのだ。実行した自殺は全て未遂に終わり、肺を刺され、肋骨を折られ、体に後遺症が残って尚、おれはしぶとく生きていた。ここまでやって死ねないと言うのなら、おれにとってまだその時ではないのだろう。そう思うことにした。異論は聞くが認めない。
職を失い家を失い、ついでにペットまで失って、生活に支障をきたす後遺症のおまけ付き。おれを取り巻く環境も立場も、以前自殺を図った時よりも輪をかけて悪化している。
だが、不思議と辛さも恐れも感じなかった。職無しが何だ、家を追い出されるのが何だ、後遺症が残ったから何だ。おれはまだ生きている、道なんざやり方次第でいくらでも切り開けるんだ。何も出来ないと塞ぎ込んでいる方が阿呆らしい。そう思うと、こんなことで命を絶とうとしていた以前の自分に笑いが止まらない。おれは馬鹿だ。とんでもない大馬鹿だ。
よし、決めたぞ。こうなったら天命とやらを受けて死ぬまで、どんなに醜く地を這いつくばろうとも、しぶとく生き残ってやろうじゃないか。どうやっても死ねないのに自殺のことばかり考えるのは時間の無駄だし、何より親から授けれたこの命が勿体無い。
決意を固めて握り拳を作り、段ボールを持ち上げたその時、部屋の隅でくしゃくしゃになって放られていた一枚の紙が目に留った。
「こいつは……懐かしいな、持って帰って来てたのか」
箱を床に下ろし、それを拾って皺を取りつつ伸ばしてみる。十ヶ月前のあの日、当たりがなかったと落胆し、自殺の切っ掛けとなったあの宝くじだ。こんなもので生き死にを決めようだなんて、あの時のおれは馬鹿だったなあと、思い出し笑いが零れ出る。
見ると、賞金の引き換え期限が明日に迫っていた。当たっていないのは分かっているが、やかんを包んだ新聞紙にあの時の新聞を使っていたことを思い出し、懐かしさから広げて照らし合わせてみることにした。
「49の組897956、49の組897956……と。んん、これ……は」
かつて当たっていないと一蹴した宝くじ。あの時はやみくもに一獲千金だけを狙っていたので気にも留めていなかったが、今見返してみたら下の下、七等の四千円が当選している。
この世は最悪だ。それは自殺を決行したあの日からずっと変わることはないだろう。けれど今のおれは、それだけじゃないことも知った。
折角だ。この臨時収入で引っ越し祝いをぱあっとやろう。近所に美味い炒飯を出す中華飯店があったし、そこでこの小さな幸せを、盛大に迎えてやろうではないか。
……たかだか四千円の当たりで舞い上がり過ぎだって? それがいいんだよ。生きていようが、生きていまいが、この世だろうがあの世だろうが、人生は楽しんだ者勝ちなのだから。
(了)
これがハッピーエンドなのか、バットエンドなのかは自分にも分かりません。
いつも書いているやつよりも、少し真面目なものを描きたかったのですが、いつも以上に変なものになった気がしないでもないという。
二次創作ではなくオリジナルとなると、毎回終わらせ方に悩みます。話としてちゃんとオチているのかどうか、書き上がった今でもよく分かりません。