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その三

生田(いくた)成志(なるし)さん、二十七歳。職業、○×社勤務のシステムエンジニア。ご家族とは就職内定直前に死別、兄弟なし配偶者なし、特別な病歴無し……これで、間違いないかしら」

「えぇ、間違いないと……思います」

 おれは今、これまで入院していた病院に別れを告げるべく、手続きの書類記入と簡単な質疑を受けている。長い入院生活がたたって、階段の登り降りにも苦労するようになってしまったが、職種が机仕事(デスク・ワーク)なので、困るのは私生活だけだろう。早いうちに慣れておかねば。

「生田さーん、何やってるんですかー? 送迎バス、出発しちゃいますよー」

「ああ、はい。今行きまーす」

 ここで知り合った可憐な女性、暁美響子さんの為にも。


 話は四ヶ月前に遡る。

 盛森組の若頭と宣う男に刺されたおれは、あの後すぐに救急病院へと搬送され、手術を受けた上で治療のために入院生活を余儀なくされた。

 横隔膜に刺さったナイフは致命傷には至らず、素晴らしい外科手術の甲斐あって、不本意ながらも命を拾って生き延びてしまったのだ。


 とはいえ、手術から数日間は気が狂ってしまいそうな激痛に耐え、健康保険を差し引いても貯金の半分近くを治療費及び入院費として持っていかれ、ミルメークを溶かした牛乳すら飲めない病室に押し込められるなど、残された傷は決して小さくなかった(この時、看護師たちに内緒で、粉末ミルメークを水に溶かして飲んでみたが、あまりの薄さに辟易し、一口飲んだあとは全て花瓶に流し込んでしまった)。

 術後、喋れるようになって暫くは、見舞い代わりに連日警察の取り調べが続いた。盛森組の若頭に刺されたと証言したのだが、おれは奴の顔を見ておらず、やつがあの時そこにいたことを証明する証拠はなく、おれが逃がしたあの女も行方知れずで、捕まえて押さえることは叶わなかったらしい。

 この一件はニュースにも取り沙汰され、おれの名前も公表されたのだが、会社の同僚はおろか、昔馴染みの友達すら見舞いに来なかった。このまま仕事に復帰しても自主退職を促されるだけだと思うといい気持ちはしない。ほぼ全ておれのせいだとはいえ、薄情な奴らだ。

 勿論、死ぬのを諦めたわけじゃない。果物を切るのでとナイフを借り、自分の首筋や手首を裂こうとしてみた。しかし、先の一件のせいで刃物恐怖症に陥ってしまったらしく、触れるだけで手が震え、まともに握ることすらできなくなっていた。何と無様だ。情けないにも程がある。

 失血死がダメなら窒息死だと、シーツを裂いて首に巻く。抵抗は無かったが、入院生活で身体中の筋肉は著しく弱っており、絞めて絞め殺せるだけの力は残っていなかった。

 結局、入院中におれができたことと言えば、院内で面倒を起こさぬよう、じっと回復を待つことだけだった。車椅子を得てリハビリを兼ねて院内を回るうち、他の患者の内情が分かり、顔見知りも増えた。


 病院には色々な奴がいた。

 何年も寝たきりで口も聞けず、自分の意志すら伝えられない者。死んでやるぞと喚き散らして、看護師たちや他の患者たちの注目を集めようとする者。おれよりもずっと酷い怪我だというのに、いつも笑顔を絶やさずリハビリに励む者。逆に本人が生きたいと思っていても、助かる見込みがないが為に、親族によって安楽死に処された者(噂に聞いただけで、本当に執行されたかどうかは分からないのだが)――おれと同じかそれ以上に酷い奴らがいるのには堪えた。

 おれは甘えていただけなのだろうか。死にたいのに死ねない奴がいて、生きたいと思っているのに死ぬしかない奴がいて、そんな中自分の都合ひとつで死を選ぶおれが何とも情けなく思えてきたのだ。おれはどうするべきなのだろう。答えを見付けられずに苦しむ日々が続いた。

 ある日、車椅子を押して院内を回るおれの目に、『処方薬置き場』という看板のついた部屋が留まった。名前からして患者に投与する薬剤を置いておく場所か。鍵は開いているのにも関わらず、周囲に人の気配がない。何にせよ不用心なことだ。


 扉の奥に広がる、薬の瓶が詰まった戸棚を目にしておれは思う。あそこにあるのは何だ。用法用量を違えば死をも招く薬剤じゃないか。あれを放っておく手はない。何をのうのうと生きている。目的を忘れたのではあるまいかと。

 同時にこうも考えた。ここの入院患者たちの姿を見ただろう。死んでそれから何になる。意味も何もなく死んでしまっては、生きたいのに生きられない人々に失礼だ、と。

 どちらが正しいかなんておれには分からない。生きたくても生きられない人たちを可哀想とは思うが、そんなのはおれだって同じだ。死ぬ理由は人それぞれ。他人が口を出すべきじゃないし、出される筋合いはない。気が付くとおれは、部屋の中に入って、戸棚の硝子戸に手をかけていた。

 薬剤の知識に明るい方ではないが、薬を大量に服用すると危険なことくらいは知っている。手当たり次第に飲み込めばどうにかなるだろう。

 戸棚に手をかけたはいいが、硝子の引き戸はびくともしない。部屋の鍵を開けたままなのに、戸は閉めておくとはどういうことだ。取っ手にかかる力は益々強まって行く。

 力と共に音も大きくなっていったからなのだろう。戸棚を荒らすおれの手を、長くしなやかな手が掴んで止めた。


「あなた、ここで一体何をしてるの。関係者以外立ち入り禁止よ」

 掴まれたと同時に振り向いて、そいつの顔を見る。長くしなやかな手に似合いの美人看護師がそこにいた。看護師にしては妙にあどけなさの残る顔で、制服の丈も若干短く見えるが、その方がおれの好みだ。気にすることもない。何より、そのせいで否応なしに強調される、すらりと伸びた格好の良い脚が堪らない。

 おっと、そんな邪なことを考えている場合じゃなかったな。何か言い訳をしなくては。

「何ってそれは……、痛み止めの薬を貰おうかと。部屋にあったのを切らしてしまいまして」

「そう、ならあてが外れたわね。ここにあるのはビタミン剤の類だけ。痛み止めはここにはないわよ」

 言われて、今一度棚の中に目をやる。彼女の言う通り、中に入っていたのはAだBだと書かれた赤黄色のビタミン剤だった。

 よくよく考えれば当たり前のことだ。死にたがっているのはおれだけじゃないし、死に至る程危険な薬物を、投与する患者の手の届く場所に保管しておくわけがない。

 あてが外れて項垂れるおれを、彼女は優しく抱き止めて椅子の方へと戻してくれた。

「さ、病室に戻りましょう。今日のことは不問にしておいてあげるわ。こんなつまらないことで死んだって、何にもならないでしょ」

「つまらないかどうかなんて、人それぞれですよ」彼女の言葉に、おれは冷やかな態度で切り返す。「おれにとっちゃ、生きているより死んだほうが有意義なんです。身寄りはいないし、したくもない仕事を続けて体は悪くなるし、そのせいで付き合ってた彼女は逃げるし、こうして入院したって、誰も見舞いに来やしない。無意味なんですよ、おれにとっちゃあね」

「いいえ、それは違うわ」

「違いませんよ。そういうものなんです」

「放っといてください」と踵を返したおれに対し、看護師さんは自分の方へと向けさせ、おれの手を握って言った。

「あなたはまだ生きているのよ。そうして文句を垂れられるだけ幸せだと思いなさい」

「そう思えるのはあなたが恵まれた生活を送っているからだ。あなたはおれじゃない。知ったような口を利かないでくれ、不愉快だ」

 看護師さんを突き放し、冷たい言葉をかけた後、おれは何て馬鹿なことをしたんだと一人落胆する。

 あんたは恵まれている? 知ったような口を利くな? そんなことおれに言えた義理か。親切心で言ってくれた相手に何を言うのだ。どこまで嫌味なんだおれは。しかし看護士さんはそんなおれを、何も言わず優しく抱き締めた。

「あなたの気持ち、分かるとは言えない。けれどね、自棄になって塞ぎ込んでも、良いことなんて何もないのよ? 挫けてはいけない。病気なんかに負けちゃ駄目。私で良ければ相談に乗るわ。だから……」

 他の誰かからしてみれば、よくある励ましの言葉を羅列しただけだと言われるかもしれない。けれどおれは、何もかもに絶望し切っていたおれには、その言葉は燦々(さんさん)と照り付ける夏の日差しよりも眩しかった。

 気が付くとおれは、恥も了見も捨てて彼女に持たれかかり、さめざめと泣いていた。淋しくて堪らなかったのだ。

 彼女は彼女で、そんなおれをうっとおしがることなく、優しく頭を撫でてあやしてくれた。こんな気持ちで泣くのは何年振りだろう。こんな暖かな気持ちになれたのは何年振りだろう。おれの心は今、途方もない多幸感に包まれていた。


 その女性看護師の名前が『暁美(あけみ)響子(きょうこ)』だと知ったのは、それから間もなくのことだった。

 彼女は非常勤の見習い医学生で、木曜日と土曜日に研修でこの病院に来ているのだと言う。テレビと本以外に娯楽がなく、きついリハビリばかりで辛い入院生活の中、彼女と会える木曜と土曜だけがおれの唯一の心の癒しになっていた。

 おれは響子さんに身の上やちょっとした秘密を打ち明け、彼女もまた他では言えないような内緒話をしてくれた。そんなおれが彼女に恋心を抱くようになるのは、ごくごく自然なことだった。


 おれには昔、付き合っていた彼女がいた。脳内妄想やゲーム機の中のじゃない。正真正銘現実世界のものだ。同じ職場の同僚で、取り立てて可愛いわけでもなく、どこにでもいる普通の女だった。

 出逢いだって仕事中に何度も顔を突き合わせ、互いに難しい仕事を手伝い合って、いつの間にか恋仲になっていたという、ロマンもへったくれもないものだ。つまらないにも程がある。肉体関係も持ったが、いつのことかはっきり覚えていない。覚えていないのではなく、思い出したくないだけなのかも知れないが。

 それでも付き合って一年とちょっとは、それなりに上手く行っていた。仕事に忙殺され二人だけの時間を過ごすことは少なかったが、同じ職場で気心も知れていたし、文句はなかった。 その分貯まる一方の金をはたいて、たまの休みに遊園地に行ったり高い店に夕食を食いに行ったり、一日かけて街のゲームセンターを巡って遊び倒したりもした。今思えば何を馬鹿なと呆れるようなことばかりだったが、あの頃はそれが何よりも楽しく、彼女と過ごす時間が一番心地好かった。これだけは今でもそうだと自信を持って言える。

 別れを切り出したのはどちらからだっただろうか。口論の切っ掛けはもう覚えていない。食べ物の好き嫌いや、相容れない趣味。価値観の相違だとか、そういうものが積み重なって、いつの間にか別れ話に発展したんだと思う。

 おれは謝るのが下手だった。相手のことを考えないで、ひたすら謝罪の言葉を並べ立てることしかできず、彼女を怒りに油を注ぐばかり。

 結局彼女の心を繋ぎ止めること叶わず、あんたなんか大嫌い、そいつはこっちの台詞だと言い合っての喧嘩別れだ。半年前に今の会社を辞めて派遣社員になったと小耳に挟んだが、正直な話、彼女にはもう何の未練も興味もない。おれや彼女の決断が間違っていたかどうかは時間とその後の人生が決めることで、今のおれたちがどうこう口を出すのは筋違いだ。

 思い返して見れば、真剣に自殺のことを考え出したのは、あの時彼女に振られてからだったか。安楽死の方法をインターネットで調べ、衝動的に七輪セットを買ったのもその時だ。

 前言撤回。おれ――生田成志は半年前に別れた彼女のことを忘れられずにいる馬鹿な男だ。女々しいにも程がある。こんなことで死なれては、彼女だっていい迷惑だろう。尤も、知られることすらないだろうが。

 しかし、そんな気持ちともやっとおさらばだ。今のおれにはあの人が、美人看護師・暁美響子さんがいる。怖いものなど何もない。彼女との輝かしい未来が待っているんだ。何を怖れる。何を死に急ぐ必要がある。

 響子さんと院内デートを交わすようになって四ヶ月が過ぎた。耐え難きを耐え、しのぎ難きをしのぎ続け、退院間近となったある日のこと。いつものようにベッドの端に可愛らしくちょこんと座る響子さんが、「そういえば」と話を切り出して来た。

「生田さん、そろそろ退院しちゃうんですよね。治るのは素晴らしいことですけど、生田さんとここでお話出来なくなるのは淋しいです」

「それはおれも同じ気持ちですよ。響子さんが居てくれたからこそ、辛い入院生活を乗り切ることが出来たんだ。今更響子さんなしの生活なんて……考えられません」

「ありがとうございます」と響子さんは少しはにかんで言った。

 その言葉を聞いておれは我に返る。そうだ、退院するということは、患者看護師の関係でなくなるということ。響子さんとの繋がりが絶たれてしまうということではないか。

 このままではいけない。しかし、関係を親密にする起爆剤など、今のおれには持ち様がないぞ。えぇいくそ、何かないのか。ここを出ても彼女と親密でいられる切っ掛けは、パンチのある起爆剤は。

 おれの考えを察したのか、はたまた純粋な親切心からか、響子さんは手を叩いて「そうだ」と声を上げた。

「せっかくですから、生田さんのお家で退院パーティーをやりませんか? 生田さんや私の友達も呼んでぱぁーっと。退院日さえ教えて下さればその日に休みを取りますから」

「えっ……。お気持ちは大変ありがたいんですか、退院するとはいえ、この状態じゃろくなおもてなしが」

「そんなこと気にしなくて下さい。料理なら私がぱぱっと作っちゃいますから。こう見えても家庭的なんですよ、私」

 こう見えてもがどう見えてるのかはよく分からないが、チャンスであることに違いはない。パーティーと称してうちに来てくれるとは、なんたる僥幸(ぎょうこう)


 彼女の方から誘ってくれているとなれば、脈があると見て間違いない。響子さんのお誘いを二つ返事で承諾したおれを、誰がどうして責められよう。どのような下心があるにしろ、意中の女性が家に来て、手料理を振舞うと言われて、断る男がどこにいる。

 おれは彼女に退院の日取りを伝え、その日に合わせて休みを取ると約束してくれた。これで本格的に彼女と付き合えると浮かれていたせいか、そういえば焼けた社宅はあの時のまま手付かず立ったなと頭を抱えていたからか、響子さんがおれの退院パーティーを自身の自宅ではなく、あえて小汚いおれの家に指定したのかについて、考えることもなかった。


◆◆◆


 そして今に至る。退院手続きの書類を手早く書き終え、送迎バスと市営バスを乗り継いで、あのおんぼろ社宅へと向かう。

 途中近所のスーパーに寄って手料理用の食材を買い漁った。店屋物やレトルトで済ますことが多いおれからすれば途方もない量の食材に目眩がしたが、その一つ一つを吟味する響子さんの姿は何だかとても可愛げで、それを見られただけでも、スーパーに寄って良かったと思う。

 男らしく「荷物は全部持ちます」と言ったのだが、入院中に衰えた体力は、厳しいリハビリをこなしても然程回復せず、結局野菜や味噌など、重いものは響子さんが、調味料など軽いものをおれがと分担することになった。男としてこんな恥ずかしい気持ちになったのは、高校時代、文化祭の出し物でチアガールのコスプレをさせられた時以来だ。あの時の写真をネタに、一時期知り合いに揺すられもしたなあ。思い出したくない忌まわしき思い出だ。


 みっともなく息を切らし、肩で呼吸しつつ、漸く社宅の前まで辿り着く。四ヶ月前、小火騒ぎを起こした時と何一つ変わっちゃいない。長期で家を開けるのだから、せめて外装だけでも直しておくべきだと思うのだが、ここの婆はそういうことは気にしない性分らしい。

 したくはないが、退院したことを報告すべく、管理人室に顔を出す。テーブルの前でクロスワードパズルに精を出す婆の膝元で、おれの愛猫パンチョが丸まって眠っている。「おれに何かあったらパンチョを頼む」という約束だけはきちんと守ってくれているようだ。

「ただいま。鍵はあるかい?」

「あらま。誰が訪ねて来たかと思えば」婆は信じられないとでも言いたげな顔でおれを見た。「生きてたのかい、あんた。暴力団に刺されたって聞いたから、てっきり死んだものかと」

「死んでねぇよ! 重体だったけど死んだとは言われてなかっただろ!」

「あぁ、そうなの。ところで後ろの女の子は何だい? 幾らで買ってきた(・・・・・)の」

 帰って来て早々これだ。この婆は人を不愉快な気分にさせる天才だ。うんざりする。

「あんたおれに喧嘩売ってんのか!? 響子さんは友人だ。おれの退院祝いをするためにわざわざ来てくれたの」

「女の子があんたの退院祝いねぇ」婆はやや固い笑顔の響子さんをしげしげと眺める。「来る場所を間違えたんじゃないのかい? この寮にゃ女の子に祝って貰えるような奇特な男は住んじゃいないよ」

「だぁーっ、もう! とっとと鍵くれよカギ! いい加減にしてくれ」

 あぁ、もう。挨拶になんかしなきゃよかった。早く家の合鍵を出せと手を伸ばすが、婆は何故か首を横に振った。

「もう開いてるよ。一時間前にあんたの友達だって人が、退院パーティーをやるって訪ねて来てね。まだ帰ってないって言ったら『帰るまで家の中で待ってます』だなんて言うものだから。早く行っておあげよ」

「友達……、おれの?」

「あんた以外に誰がいるんだい」

 変だな。今日は響子さん以外、誰もここに呼んでない筈だ。まぁより厳密に言えば、小中高大、その中で得た十人の友達全てに声をかけてみたのだが、五人には丁重に断られ、三人は音信不通、残りの二人に至っては「お前は誰だ」と即座に電話を切られた。長い時間を掛けて育んできた友情とは、一体何だったのか。

 電話をかけていない中で、おれの退院を祝ってくれそうな奴なんかいたか? と腕組みして考えていると、響子さんがおれの肩に手を乗せて言った。

「サプライズを企画してくれたんですよ。きっと。電話で断ったり連絡が無かったのも、生田さんを驚かせようとしたからなんですって」

「成る程。でも、おれの友達にそんな粋なことするやつ、いたっけなぁ」

 再び腕組みして考え事をするおれを見かね、響子さんはおれの腕に手を回して無理矢理引っ張った。

「ほらほら、行きましょ行きましょ。あぁ、管理人さん。パーティーではしゃぎすぎてうるさくなるかも知れませんが、宜しくお願いしますね」

「えぇよえぇよ。どうせこの時間は誰も家に居ないからねぇ」

 響子さんは婆にぺこりとお辞儀をし、おれを引いて寮の中に入って行く。婆の言う通りどの部屋からも人の気配はない。あの会社で働いて昼時に家にいられるとしたら、有給を使うか仮病を使うかしかないから、当たり前か。

 数日前にかかってきた上司からの電話で知ったのだが、うちの会社は今、新しいソフトウェア開発の追い込みに入っているらしく、猫の手も借りたい状況なのだと言う。故に退院間近のおれにも召集をかけようとしたみたいだが、病み上がりなのでと丁重にお断りさせてもらった。見舞いに来ないで、必要な時だけ駆り出そうとするようなやつらに手なんか貸せるものか。


「あぁっと、ここがおれの部屋です。さぁさ、どうぞ」

 走り書きされた「生田」の表札に、飾り気のない鼠色の扉。いい思い出は殆どないが、数ヵ月の入院生活を経て帰宅すると、なかなか感慨深いものがある。

 おぉっと、扉の前でぼぉっとしててもしょうがないな。響子さんを待たせているし、サプライズを敢行せんと先んじて部屋に入った奴の正体も突き止めなければ。

 期待と喜びに胸を膨らませ、勢いよく玄関の扉を開け放した先に待っていたのは。


「――退院おめでとう、生田成志君。待ち侘びたぜぇ、この四ヶ月間(・・・・)、てめぇに落とし前を付ける、この日をなァ」

 友達と呼ぶには些か厳つく、剥き出しの殺気をおれに向ける、狂犬のような男だった。


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