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その二

◆◆◆


 七輪横倒しが原因で起きた小火騒ぎから一時間後。婆の追及をかわして社宅から逃げ出したおれは、眠ることを知らない夜の繁華街に足を踏み入れていた。

 相当疲労が溜まったし、頭はまだずきずきと痛むが、そのような騒ぎのいさかいを風俗だ何だで癒そうとしているのではない。

 人身事故や練炭のように周りを巻き込み、多大なる迷惑をかけるようなやり方はもう止めだ。大体あのような死に方では苦痛も何もなく、死んだ気がしないではないか。いつの間にか死んでました、では格好が付かないというか、わざわざ自殺という手段を取った意味がない。

 こういった街の外れには、酒の勢いで自制が効かないサラリーマンに、世の不平不満を暴力で発散せんとする非行少年少女やら、公に出来ない後ろ暗い職業持ちの輩があふれかえっている。奴らに喧嘩を売り、揉み合いの末にわざと刺されてやろう……ってなところだ。

 ズボンのポケットに、缶切りなどと同様になった万能ナイフを一本忍ばせておいた。相手を怒らせ掴みかかる際に、こいつをわざと大仰に振り回し、その末に相手に奪わせてやろう。落とした振りをして拾わせるのも良いかも知れない。

 準備は万端。いつ刺されても問題のない心構えも作った、のだが――目ぼしい奴らは一向に見当たらない。最近は警察の取り締まりも厳しくなっているし、泥酔した酔っ払いや非行少年は、こういう時間帯になる前に補導なり何なりされているのだろう。

 社会的には夜間徘徊者のいない平和で素晴らしい街なのだろうが、おれみたいな自殺志願者からすれば、それは厄介以外の何者でもない。なんてことをしてくれたんだと行政に文句を言いたい所だ。

 まぁ、文句を言った所で何かが変わる筈もなく。文句を垂れる暇があるなら、その分足を動かせということか。全くもってその通りだ。返す言葉もない。


 そんなことを考え、異様に薄暗い歓楽街の裏通りに足を踏み入れた所だろうか。おれの耳に女のか細い声が届いた。風の音か? それにしては妙だなと、さらに耳を澄ませてみる。そんな優しく耳障りの良い音なんかではない。か細いながらも絶え間無く響く、発情した女の淫らな喘ぎ声だ。

 モーテルやホテルは近くにないのに、この声の主はこんな場所で何をしているのか。目立たないとは言え屋外だぞ。羞恥心というものを持ち合わせていないのか。

 気になって居ても立ってもいられなくなったおれは、当人たちに気付かれないように、こっそりと声のする方へと向かって行く。

 道を奥へ奥へと進み、薄いベニヤ板で隔てられた場所を無理矢理通り抜け、向かいの通りに足を踏み入れる。今までいた場所と負けず劣らず薄暗く、酒臭い空き缶空き瓶が散乱し、足下を数匹のネズミが這い回っていた。

 声の主――淫な喘ぎ声の女はそこにいた。相手方の男に前から乗っかり、舌と舌を絡めて互いの唾液を交換し合っている。

 元々薄暗いうえに、遠方の灯りが逆光となって顔は分からないが、背中まで伸びた艶やかな髪に、出るところは出て、締まるところはきっちり締まった体付き。

 身に纏った太股の中程までの丈の肩出しワンピースが、元々美しい体の線をより際立たせている。ラメ加工が施されているようで、光を受けると星の瞬きのような絢爛(けんらん)な輝きを放っていた。

 対する相手方の男は、赤色に横縞の入ったタンクトップに、焦げ茶色のカーゴパンツを穿いている。女と同じく逆光で顔は見えなかったが、一見すると海草か何かが絡み付いているかのような、複雑な刺青を(こしら)えた、太く力強そうな両腕に、タンクトップ越しからでもはっきりと分かる厚い胸筋。どちらもおれのそれとは大違いだ。勝ち目はない。

 似合いの二人じゃないか。おれみたいなのが出歯亀して何になる。見つかる前に立ち去ろうかと思ったのだが、抱擁と口付けを交わし合う女の顔を見て気が変わった。

 

 なんだあの顔は。なんだあの息遣いは。悦んでいる奴の顔か? いいや、あれはそういうものじゃない。嫌がっているのに無理矢理抑え付けられて苦しんでいる顔だ。

 正義感なんてない方が楽しく生きて行けるし、持っていると自覚したこともなかったが、気が付けばおれは、男の方へと駆け出して、二人を無理矢理引き剥がしていた。

「もう大丈夫だ。さぁ、早くお逃げなさい。おれが囮になる。さぁ、さぁさぁ!」

 相変わらず顔は見えないが、おれの言葉に促され、女性は薄暗い通りの中から去って行く。酒臭く薄暗い通りには、淫らな逢引を出歯亀した男と、されて怒り心頭の男の二人が残された。

 あぁ、おれは何をやっているんだと、恥ずかしさに頬を紅潮させてしまう。美しい女性にかっこいいところを見せて株を上げたかったのか? 今更そんなことをして何になる。おれは今から死ぬんだぞ。

「何なんだてめぇは。誰に何やったか分かってンのか、あァん?」

「いや、あのですね……出来心と言いますか、そのぅ」

 出来心って何だ。反論にすらなっていないじゃないか。何をしたかなんて、むしろおれが知りたいくらいだってのに。

「そんなことはどうだっていい。誰に何したかって聞いてンだよ」

 おれの煮え切らない態度に男はさらに苛立ち、胸ぐらを掴んで壁に叩き付けた。こりゃもうダメだ。さっさと謝ってこの場から立ち去ろう。拳骨の二三発は覚悟しなきゃならないだろうが、仕方がない。

「あぁいやその……なんか、すみません」

「何いきなり謝ってンだよてめぇは! 誰に何やったかって聞いてるんだろう、誰が謝れっつった!」

 まずい、完璧に逆効果のようだ。下手に刺激しない方が、なんて段階はとっくに通り越しているらしい。あぁあ、目が血走ってるじゃないか。こりゃあただじゃ済まないぞ。誰がって? 彼と相対するおれが。

 しかしさっきから「誰に何をしたか」としつこいな。そもそもこいつは一体何者だ?

「申し訳ありませんが、どちら様でしょう」おれは声を絞り出して男に尋ねた。男はおれを壁から離して床に投げ捨て、懐に右手を入れて答える。

「よくぞ聞いてくれましたぁ、っとぉ。俺はあの『盛森組』の若頭さ。てめえみたいな調子に乗った馬鹿を今まで十四人ばかり(バラ)して来た、組の有望株よ。喜べ糞野郎、てめぇで十五人目だ」

 そう言われても、盛森組なんておかしな名前の組に聞き覚えはない。まぁ確かに、彼の体付きは”盛森(モリモリ)”と言っても差し支えのない代物ではあるが。

 拳銃の激鉄を起こし、どこか切れた目付きでおれに銃口を向ける彼を見て、分かったことが二つある。一つは彼がこういった物騒な出来事の処理に手慣れた職業の人間であること。二つ目は逢引を出歯亀したおれを、彼は決して許さないということだ。

 堅気の人間なら銃口を向けられた時点で竦み上がり、助けてくれと両手を上げることだろう。しかしおれは違う。夜の繁華街を肩で風を切って歩くこの男。銃の扱いに慣れ、人を殺すのに何の抵抗も持たないこの男。おれの理想に直球じゃないか。そうそう、こういう物騒な奴を探していたんだよ。

 だが銃はまずい。下手に眉間なんかを撃たれて、死に行く感覚を味わえないまま逝くのは御免だ。おれは男が引き金を引くより早く、ポケットから万能ナイフを取り出して、それを振り回しながら男に掴みかかった。

「野郎ッ、妙に自信があると思ったら刃物なんか持ってやがったのか! 舐めやがってッ」

 おれは無我夢中にナイフを振り回し、男の手から拳銃を叩き落とさせる。男はおれがまさか刃物で反抗してくるとは思わなかったようで、落とした銃を拾うことなく慌てておれを引き剥がそうとするが、それも最初のうちだけだ。

 男はおれが考えなしにナイフを振るっていることに気付き、冷静さを取り戻した上で、おれの手からナイフを奪って刃先をこちらに向けた。

「こんなもんで俺は殺せねぇよ。残念だったな」

「何が残念だったな、だ。途中まで相当びびっていたくせに。おたく、本当に暴力団の若頭なのかい?」

「よぉしよし、喧嘩売ったのはてめぇだぜ。覚悟しな!」

 暗がりに逆光で殆ど見えないが、恐らく彼の顔は真っ赤なのだろう。よしよし、作戦通りだ。後は奴がおれの体を刺してくれるのを待つばかり。痛みと共に死に行く感覚を味わいながら、この世に別れを告げて逝ってやる。

 立派な体躯の大男よ。夜の営みの邪魔をして悪かった。遠慮なくおれを刺すがいい。謝って許してもらえるかは分からないが、君は何も悪くない。自殺に君を利用したおれが悪いんだ。おれを刺したことであんたは警察に追われるかもしれないが、彼らがおれの”遺書”を読めば、非は全ておれにあると分かってもらえる筈だから。

 そう、『遺書』を読めば――いや、ちょっと待てよ。遺書は確か……。

「やべぇ、遺書はさっき、タンスと一緒に燃えちまったんだった!」

 あぁ、何て凡ミスをやらかしちまったおれは。おいおいまずいぞ。遺書がなけりゃあ惨めな孤独死で終わっちまう。そうじゃない、何も残らない死に方なんて、何の意味もないじゃねぇか。おれは自分の不甲斐なさに頭を抱え、思わず体を思い切り後ろにのけ反らせてしまう。

 そしてそれこそが、おれの致命的なミスとなった。遺書のことで叫んでいたその時、既に男はナイフを構えて振り被っており、その刃先はおれの肺を目掛け向かっていたのだ。

 余計なことをせず刺されていれば、おれは失血死であの世行きの急行列車に乗車出来たのだ。しかし遺書のことで仰け反ったことにより、奴の狙いは肺から僅かに逸れ、放たれたナイフは肺と肝臓の間にある横隔膜に突き刺さった。

 痛みよりも早く、おれの喉から鉄臭く熱いものが込み上がってくる。口内はあっという間に、熱くどろどろとした何かで一杯になり、含んでいられなくなったおれは、溜まりに溜まったそれを目の前の男に向かって吐きかけた。

 飛散したそれを顔いっぱいに浴びた男は、狂った豚のような奇声を上げると、おれの胸に刺さったナイフを引き抜いて、奴にもたれ掛からんとしたおれを蹴り飛ばす。口内に溜まった熱いものは徐々に喉の奥へと引っ込み、代わりに肺を伝って、傷口の方から出の悪い尿のようにちょろちょろと流れて出て行く。


 何だ。何なんだ、光の速さで全身を駆け巡り、ずっしりと重く圧し掛かるこの痛みは。こんなもん死に行く感覚でも何でもねぇ、ただ激痛が走ってるだけじゃねぇか!

 息が、あぁくそっ、息が出来ん。いくら吸い込んでも肺の中が満たされねぇぞ。視界は霞んでいく一方だってのに、意識ばかりはっきりしやがる。走馬灯も何もあったもんじゃない。

 何が死に行く感覚を味わって逝きたいだ。こんな馬鹿なことを思い付いたのは誰だ。一時間位前のおれじゃないか。

 誰にも責めを負わせられないことに気付き、自分の馬鹿さ加減に絶望したところだったろうか、おれを刺して蹴り飛ばした男は、左手で顔を覆い、おれを再び刺し貫かんと、ナイフを握る右手に力を込め、(今のおれからすれば)凄まじき速さでそれを振り下ろした。

 今度こそ死んだかと思ったのだが、身体中から脂汗が吹き出るこの痛みが止むことはなかった。ナイフの刃先はおれの顔から狙いを大きく反らし、八センチ程ずれたアスファルトに突き刺さったのだ。

「目潰しなんて(こす)い真似しやがって、どこだ! どこにいやがるッ」

 言われて、男の顔をちらと見る。彼の顔に赤黒い染みがこびりついているのが見えた。そうか、おれが吐いた血を浴びて、何も見えなくなっているんだな。今のだって、息遣いや何だでおれの位置を何となく察したにすぎないんだ。

「ちきしょう、何も見えねぇぞ……そこか、そこか、そこかッ」

 目潰しを喰らって的が定まらず、男はただただ在らぬ方向へとナイフを振るい続ける。おれの体に当たったものは一つとしてないが、決して安心はできない。奴は目と鼻の先で刃物を振り回しているのだ。見えないとはいえ、当たらない方がおかしい。第一おれはその場から一歩も動けていないのだ。状況は何一つ変わっちゃいない。まるで、大口を開けて飛びかからんとする百獣の王を前に、怯えて何もできないガゼルのようだ。

 刺された痛みと眼前の恐怖の前に、おれの本能が下した決断は「死ね」ではなく「逃げろ」だった。動物的には正しい行動なのかもしれないが、そこで死ぬという決断を下せなかった自分に腹が立った。

 本能に従ってなんとか逃げようとするおれの指先に、何か冷たく固い感触のものが当たった。手を伸ばして握り締め、首を動かしてそれを見る。男が抜いて、おれが払い落としたあの拳銃だ。こんな所に転がっていたのか。撃つ寸前のものを払ったせいか、引き金さえ引けばいつでも放てるようになっていた。

 握って思うことは多々あれど、おれがそれらに答えを出すより早く、男の振り回したナイフは、おれの右脇腹に深々と突き刺さる。おれの体はまな板の上で捌かれる魚のように激しく揺れた。

「この手ごたえ。そこにいやがったなッ」

 脇腹からナイフが抜ける感触がする。まずい、悲鳴と手ごたえでおれの位置が奴にばれた。男はおれを逃がさぬよう、馬乗りになってナイフを振り上げる。次は間違いなく急所を狙って来るだろう。

 もう痛い思いなんかしたくない。殺したいなら早く殺せと、心の底から思った。しかし、そんなおれの思いとは裏腹に、おれの本能は手にした拳銃を奴に向けて構え、引き金を引いていた。

 風船が破裂したかのような乾いた音が響き渡り、焼き焦げた鉄のような臭いが辺りに充満する。奴の胸元に向かって飛んだ銃弾は、撃った反動で狙いが大きく反れて、男の左足膝小僧に当たり、奴に狂った雄牛のような悲鳴を上げさせた。

「おぉ……おッ! やりやがったな、やりやがったなこの野郎! 絶対に許さねぇぞ、急所なんか刺してやるもんか、いたぶれるだけいたぶってから殺してやる!」

 ヤクザの若頭を自称するだけあり、男は撃たれただけでは倒れなかった。とはいえ痛みは強烈らしく、食い縛った歯の根はかちかちと震え、生まれたての子馬のように危なげに揺れている。

 撃った反動で銃はおれの手を離れ、夜の闇の中へと消えた。今度こそ手の出しようがない。あぁ、おれは何故こんな馬鹿なことをしたのだろう。下手なことをせず、あの時刺されていればよかったのに。

 おれが死よりも辛い拷問を覚悟したその時、この通りからそれほど遠くない距離からパトカーのサイレンが聞こえて来た。人目に付かない通りから、きらびやかなボディコン衣装を纏った女が慌てた様子で飛び出した上、銃声がしたことで、警察も重い腰をようやく上げたのだろう。

 サイレンを聞いた男は慌てた様子で周囲を見回す。大方、こんなしょぼい殺しで刑務所に送られてたまるか。俺は組の若頭なんだぞ、と言ったところか。

 男は「お前の顔は忘れない。必ず仕返ししてやるからな」と吐き捨てて、負傷した左足を引きずって夜の闇に消えて行く。あの傷だ。おれを殺していては逃げる時間がなくなるし、この暗がりの中では自分の顔は割れていないと考えたのだろう。実際その通りだ。警察官はすぐにやってきた。血を流して指一本動かせないおれを担架に載せ、救急病院へと搬送して行った。

 結局、また生き延びてしまった。そのことを喜んでいる自分に無性に腹が立つ。

 もしかしたら、おれは心の中で「死にたくない」と思っているのではないだろうか。考えたくはないが、そうとしか思えない。おれはもう、自分で自分が分からなくなった。


……そして、四ヶ月後――

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