君の世界の中心に
「人間って、なんだかんだ言ったってさ。自分中心に世界が回ってると思ってんだよ」
彼女は自嘲する。一度も染めたことがないと自慢していた黒髪を弄りながら、まるでひとりごとのように呟く。
俺が傍にいることすら忘れたように、孤独な世界で彼女は1人何かと闘っているようだった。
「だからさ、自分だけは幸せになれるように錯覚しちゃうんだよ。
なんたって、自分は主人公なんだから。主人公が不幸になるのなんて悲劇ぐらいなものじゃない?」
俺に問いかけてないくせに彼女は疑問系で言う。
うんともすんとも言えない俺は黙ったまま彼女の隣にいることしかできなかった。
「あたしもさぁ、そんな馬鹿な人間だったんだよ」
そう言うと、彼女はやっと涙を零した。……綺麗な、とても綺麗な一粒の涙。
あんな男のために流すにはもったいないほど綺麗な涙だと俺は思った。
「そんな馬鹿だったから、捨てられたんだよね」
少し鼻声になりながら、彼女は俺に言った。……違う。
彼女は何も悪くない。悪いのは彼女がいるにも関わらず平気で他の女のところへいくあの男だ。
……そして。
「……そんな顔、しないでよ。君は本当のこと言っただけじゃない」
そんな兄の愚かな行為を喜んでいる浅ましい俺だ。
■ ■ ■
多分一目惚れに近かったのだと思う。
兄の彼女として出会ったあの瞬間から、俺は多分彼女に恋してた。
女癖が悪くて、あまり長続きしない兄が、珍しく長く付き合っていた彼女。
兄もやっと1人に絞るようになったのかと嬉しく思う反面、彼女の人柄に惹かれはじめていた俺は少し切なく思った。
けれど、それでも彼女が幸せなら。……幸せなら、それでもいいと思っていた。
なのに。
兄は、彼女ではない女を当然のように自分の部屋に招き入れた。
結局、兄は彼女と別れてしまったのか。
もしそうなら、きっと、彼女の方が兄に愛想が尽きたのだろう。
けれど、少しおかしいなとも思った。
これも何かの縁だと、俺と彼女はメアドを交換していた。
そして、先ほども少し彼女とメールを交わしたのだ。
……愛想が尽きた男の弟と、普通に接することがはたしてできるだろうか。
俺なら多分できない。そうなったことはないけど、多分できない。
それとも、兄とは関係なしに俺とのことを考えてくれているのだろうか?
恋だの愛だのではなくても、友達としては。俺は彼女の特別になっているのだろうか?
俺の頭の中では出すことのできない答え。
その答えは次の日、すぐにわかった。
兄は、彼女を部屋に招き入れた。……結局、兄はいつも通りの兄だったのだ。
彼女と付き合いながら、平気で他の女のところへ行く。……最低な兄だ。
いつもなら、俺は気にしなかった。
兄の女癖の悪さは病気のようなものだと思っていたし、それ以外は別に悪いところもない兄だ。
兄の行動が理解できない俺ではあったが、それでも兄を嫌うことはできなかった。
けれど、今回は違う。俺は兄を軽蔑した。憎みもした。彼女を裏切っておきながら平気で隣にいる兄が、大嫌いになった。
我慢が出来なくて、兄を殴りたい衝動を抑えながら聞いた。
兄は、彼女のことをどう思っているのかを。
どうせ、他の女と同じように思っているのだろう?
それなら、さっさと別れて俺に譲れよ。
俺の方が彼女が好きだ。
……俺の方が、絶対に彼女のことを幸せにできる。
そんな思いを隠しながら。
けれど、兄の予想外な言葉に俺は一瞬頭が真っ白になった。
「俺の一番はあいつだし、あいつの一番も俺だよ」
意味が、わからなかった。
それならなんで彼女以外の女と平気で過ごせる?
それで彼女が傷つくことは分かりきっているのに。
聞くと、兄は言う。
「可愛い子に好きって言われるのは気分いいし。バレなきゃ大丈夫だろ?」
そんな薄っぺらい気持ちで、彼女を一番だと言ってもらいたくなかった。
俺の冷え切った心に気づかないまま、兄は続ける。
「でも、身体は誰とでも繋げれるけど、心も繋がるのはあいつしかいないな」
俺は、照れくさそうに言う兄の言葉を聞きながら、ああやっぱり兄は病気なのだと思った。
1人では満足ができない。1人だけを愛せない。そういう男なのだ。この男は。
……こんな男に、彼女は幸せにできない。
彼女が深く傷つく前に、この男から離さないといけない。
■ ■ ■
妙な使命感に突き動かされ、俺は彼女に兄の浮気現場を見せた。
酷く狼狽する彼女を見て、その時になってやっと深い後悔に苛まれた。
けれど、やはり彼女と兄を離すことができたことの喜びの方がずっと大きかった。
すっかり冷えてしまっている彼女の手と自分の手をそっと重ねる。
ずるい。俺は、ずるい。
最低な兄に、ずるい弟。……そんな兄弟に愛された彼女は、可哀そうなのかもしれない。
自分中心に世界が回っているように思う。……確かに、そのとおりだ。
今の俺は、自分のことしか考えてない。彼女の隣にいる俺の未来しか、思い描けない。
実際そうなるがどうかわからないのに。どうしてだか、彼女は絶対に俺を選んでくれるような錯覚に陥る。
俺だけは、幸せになれるような気がして。俺だけは不幸にならないような気がして。
そんな自分は馬鹿なのだろう。
そっと重ねていただけの手を優しく握る。
びくっ、と彼女の肩が揺れた気がしたけれど、彼女は俺の手を払いのけなかったので安堵した。
その間に彼女のなかで何かあったのか、突然嗚咽を漏らしながら泣き始めた。
……その泣き顔を見て、本当に彼女は兄のことが好きだったのだと実感する。
苦しくなって、悔しくなって、俺は拒まれることを覚悟で彼女をこちらに引き寄せた。
……彼女は俺を拒まなかった。
子どもをあやすかのように彼女の頭をなでながら、俺の胸に顔を埋めて泣くその姿を見て喜んでいる俺がいる。
最低なのは、兄だけでなく俺もかもしれない。
自嘲しながら、俺は少しだけ力を込めた。
ふわりと香る匂い。想像していたよりも柔らかい彼女。
守りたい、心の奥底から俺は思う。
「俺じゃ、駄目?」
一体なんのドラマだって聞きたくなるほど、ありきたりなセリフ。
でも、俺にはそれが精いっぱいだった。
カッコいい言葉も、なにも思い浮かばない。
兄じゃなくて俺を見てほしい。それが、俺の今の正直な気持ちだった。
「兄貴を忘れるために、利用してもいいから」
俺はどこまでもずるい。彼女の想いを利用しようとしているのは俺自身なのに。……さも、自分は悪くないように言う。
ずるい。でも、それが人間ってものだろう?
彼女は何も言わない。何も言わないけど、そっと腕を俺の腰に回してぎゅっと抱きしめてきた。
……それが答えなのだろう。
俺は彼女をゆっくりと離すと、親指で彼女の涙を拭う。
そして、そっと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
彼女は、俺を拒もうとはしなかった。
■ ■ ■
彼女は後悔するかもしれない。
弱っている時の甘い言葉に騙されたと思う日が来るかもしれない。
それでも、俺は彼女が欲しかった。
彼女の世界の中心に、俺がなりたかったのだ。
ずるくて、傲慢な俺。……けど、もう開き直るしかない。
俺は、疲れきって隣で寝ている彼女の携帯で兄に電話をかけた。
「もう、彼女の一番はお前じゃないよ」