第9話 離婚届と最後の魔法陣
審問から三日後、正式な裁定が届いた。
王太子クラウスの署名入りの書簡。
封蝋を切るとき、指先が冷たかった。
結果がどうであれ——この瞬間を、私は逃げずに受け止めると決めていた。
「フェルゼン式魔法陣理論の原作者はリーネ・アルヴェスであると認定する。今後、同理論は『アルヴェス式魔法陣理論』と改称し、関連する一切の権利をリーネ・アルヴェスに帰属させる」
手紙を読み終えるまで、三回深呼吸をした。
泣かなかった。
泣くのは、全部終わってからだ。
裁定にはもう一つ、付帯条項があった。
「ヴィクトル・フェルゼンの研究員資格を永久に剥奪する。また、論文の名義詐称は王宮規則に基づき、公爵家への厳重注意処分とする」
公爵家への処分は「厳重注意」に留まっている。
クラウスらしい判断だった。
国の安定を考えれば、大貴族を一度に潰すのは得策ではない。
だが、研究員資格の永久剥奪は——ヴィクトルの名声を根幹から崩す。
(政治家としての判断と、公正さの両立)
中立とは、そういうことなのだと理解した。
すべてを罰するのでもなく、すべてを許すのでもなく。
守るべきものを守りながら、正すべきものを正す。
裁定書をしまい、引き出しの奥から一枚の紙を取り出した。
離婚届。
三ヶ月前に取り寄せ、ずっとしまっていたもの。
紙が少し黄ばんでいた。この引き出しの中で、静かに出番を待っていた紙。
ペンを取った。
名前を書く。リーネ・アルヴェス。
筆跡は——論文の欄外の走り書きと、同じ癖。
等号を長く引き、アルファベットを右に傾ける。
この字が、全ての始まりだった。
そして今、終わりの署名にもなる。
署名を終えて、ペンを置いた。
あとは、ヴィクトルの署名だけだ。
ヴィクトルの書斎を訪ねた。
扉の前で、一度だけ足を止めた。
この扉を開けたら——この屋敷で過ごした日々が終わる。
幸せではなかった。でも、ここで過ごした時間のすべてが無意味だったとも思わない。
苦しかったからこそ、今の自分がある。
扉を開けた。
ヴィクトルはいつもの椅子に座っていた。
だが——いつもの完璧な笑顔は、なかった。
髪が少し乱れている。目の下に薄い影がある。
この数日、ほとんど眠れていないのだろう。
書斎の机には、何冊もの本が開かれたまま置かれていた。
魔法陣の理論書。あの審問の後、自分で変数αの帰還経路を書こうとしたのかもしれない。
丸められた紙がごみ箱から溢れていた。何度も、何度も試みて——書けなかった痕跡。
「……リーネか」
「一つだけ、お願いがあります」
離婚届を、机の上に置いた。
ヴィクトルは紙を見下ろした。
長い沈黙。
窓の外で、鳥が一羽鳴いた。
その声が、妙に遠く聞こえた。
「……こうなることは、分かっていたのかもしれないな」
初めて聞く声色だった。
笑顔の仮面を外した、素の声。
その声は——思っていたよりも、低く、疲れていた。
「僕は——最初から、君の才能が怖かった」
ヴィクトルの目が、窓の外を向いた。
「自分には何もないと、ずっと知っていた。公爵家に生まれ、周囲から天才だと言われ続けて——でも、本当は何一つ、自分の力で生み出せなかった」
その告白を、私は黙って聞いていた。
「子供の頃から、何でも与えられた。教師は僕を褒め、父は僕を後継者に選び、社交界は僕を天才と呼んだ。でも、研究の前に座ると——白い紙を前にすると、何も浮かばなかった。あの白紙の恐怖を、ずっと抱えていた」
審問の場で、白紙の前に座ったヴィクトルの姿を思い出した。
あの恐怖は——一日二日のものではなかったのだ。
「君の論文を読んだとき、嫉妬した。これを自分が書きたかった。自分の頭から、こういうものを生み出したかった。だから……」
「だから、奪ったのですね」
「……ああ」
静かな声だった。
怒りはもうなかった。
ただ、哀しみに似た何かがあった。
奪われた怒りは、もう十分に燃え尽きた。
残っているのは——この人もまた、何かに苦しんでいたのだという、冷静な理解だけだ。
ヴィクトルがペンを取った。
離婚届に、署名する。
その手は、震えていなかった。
「リーネ。一つだけ聞いていいか」
「はい」
「君は——最初から、全部分かっていたのか? この婚姻が、何のためのものか」
「気づいたのは、この世界で目を覚ました朝です。掌に魔法陣が刻まれていた、あの朝」
「そうか」
ヴィクトルが立ち上がった。
「最後に一つだけ——あの理論は、本当に素晴らしい。それだけは、嘘じゃない」
不思議なことに、その言葉には——本物の響きがあった。
部屋を出た。
廊下を歩きながら、離婚届を胸に抱いた。
これで、偽りの婚姻が終わる。
屋敷を出るとき、玄関でマルグリットとすれ違った。
いつもの華やかなドレスではなかった。
落ち着いた色の服。化粧も控えめ。
何かが——変わり始めている。
「……あなた、出ていくの?」
「ええ」
マルグリットの目が、複雑に揺れていた。
怒りでも勝ち誇りでもない。
何か——問いかけるような目。
「ヴィクトルは……これから、どうなるの?」
「それは、あなたとヴィクトルが決めることです」
マルグリットは黙った。
その沈黙の中に、考える力が宿り始めているのが見えた。
「一つだけ」
私は振り返った。
「ヴィクトルがあなたに嘘をついていたかどうかは——あなた自身の目で確かめてください」
それが、私から彼女に言える最後の言葉だった。
◇
王宮魔法局に、正式な辞令が届いたのはその週の終わりだった。
「リーネ・アルヴェス。アルヴェス式魔法陣理論の功績により、研究第一室主任研究員に任命する」
トーマが、泣いていた。
眼鏡を外してハンカチで顔を拭きながら、「おめでとうございます」と繰り返している。
エルザは相変わらず無表情だったが、帰り際に一言だけ言った。
「記録は、正しい名前で残りました」
その声が——いつもより、ほんの少しだけ柔らかかった。
レナード局長は——もう局長ではなかった。
ヴィクトルの不正を黙認していた責任を問われ、降格処分。
最初に裏切った人は、最初に切り捨てられた。
因果応報、というほど劇的ではない。ただ——そういうことだ。
セレンが、第一室の鍵を渡してくれた。
「ここがお前の部屋だ」
「広いですね」
「文句を言うな」
「文句ではありません」
鍵を受け取るとき、指先が触れた。
黒い手袋越しの、微かな温度。
「グランディーアさん」
「何だ」
「新しい研究を始めます。アルヴェス式の発展理論です。共同研究者を探しているのですが——」
セレンの目が、ほんの僅かに見開かれた。
「共同、か」
「対等な共同研究者です。名前を並べて、論文に載せる。そういう関係で」
長い沈黙。
書架の魔法灯が、静かに灯っていた。
「……考えておく」
それがセレンの「はい」であることを、もう知っていた。
夜。
新しい住まい——魔法局の研究者官舎の、小さな部屋。
窓から王宮の尖塔が見える。
あの中に、もう私の名前で論文が保管されている。
便箋を広げた。
もう、計画を書く必要はない。
代わりに、新しい研究のアイデアを走り書きした。
掌の魔法陣が、穏やかに光っている。
怒りでも、悲しみでもない。
静かな、温かい光。
ペンを置いて、窓の外を見た。
明日は、セレンと新しい理論の打ち合わせがある。
トーマが紅茶を淹れてくれるだろう。
エルザが、頼んでもいない参考文献を持ってきてくれるかもしれない。
一人で取り返した、と思っていた。
でも、違った。
この人たちがいなければ、私はここにいない。
(……もう、大丈夫)
机の引き出しには、もう離婚届はない。
代わりに、新しい魔法陣の設計図が入っている。
それでいい。
むしろ、これがいい。
明日の朝は、きっと灰色ではない。
掌の魔法陣が——まるで安堵するように、すっと光を消した。




