第8話 王太子の審問
審問の場は、王宮の白亜の間だった。
高い天井にアーチ状の窓。壁面に刻まれた歴代の王家の紋章。
正面の玉座に、黒髪の青年が座っている。
王太子クラウス。
温和な顔立ちだが、目だけが冷静——という噂は本当だった。
この人は、感情ではなく証拠で判断する。
それが、私にとっての希望だった。
白亜の間に入った瞬間、空気の重さが変わった。
石壁が音を吸い、足音すら遠くなる。
この部屋で嘘をつけば、その嘘は壁に染みついて永遠に残る——そんな錯覚を覚えた。
関係者が揃っていた。
ヴィクトル。ダリウス。レナード局長。マルグリット。
そして——セレン、トーマ、エルザ。
ヴィクトルは完璧な装いで立っている。
金色の髪は一筋の乱れもなく、碧い目には自信が宿っている。
少なくとも、そう見える。だが——昨夜、屋敷で偶然見かけた彼の書斎には、丸めて捨てられた紙が散乱していた。
何かを書こうとして、何度も失敗した痕跡。
「フェルゼン式魔法陣理論の帰属に関する審問を始める」
クラウスの声は、広間に静かに響いた。
威圧ではない。ただ、この声に逆らうことが想像できない——そういう質の声だった。
「提訴者、リーネ・アルヴェス。陳述を」
立ち上がった。
足が重い。でも、手は震えていなかった。
ここに至るまでの全ての準備が、今の私を支えている。
草稿の筆跡を確認した日。修正記録を見つけた日。トーマの証言。セレンの協力。
一人では立てなかった場所に、多くの手で押し上げられて、今ここにいる。
「殿下。私が申し立てるのは、一つの事実の確認です」
声が、白亜の間に通った。
「フェルゼン式魔法陣理論と呼ばれている研究は、その名義人であるヴィクトル・フェルゼンの著作ではなく、私——リーネ・アルヴェスが設計したものです」
広間がざわめいた。
ダリウスの目が細くなり、レナードの笑みが引きつった。
ヴィクトルの笑顔は、崩れなかった。
「証拠の提示を」
クラウスが促した。
「はい。三つの証拠があります」
一つ目。
「王宮魔法局に保管されている、論文の原本草稿です。本文はフェルゼン氏の筆跡ですが、核となる数式の走り書きは別の筆跡で書かれています」
セレンが草稿を提出した。
「この筆跡が私のものであることは、魔法局第三室に保管されている実験ノートとの照合で確認できます。筆跡鑑定の専門家による正式な鑑定書も添付しております」
クラウスが草稿を受け取り、丁寧に目を通した。ページを一枚ずつ確認する。その慎重さが、この人の判断の重さを物語っていた。
二つ目。
「王宮図書館の修正記録簿です」
エルザが台帳を持って立ち上がった。
「提出日の前日付で、共同研究者として『リーネ・アルヴェス』の追記申請があり、翌日に取り下げられた記録が残っています」
エルザの声は淡々としていた。
だが、台帳を差し出す手は、微動だにしなかった。
「この記録は図書館の規則に基づき保管されたものであり、改竄の可能性はありません。提出日から今日まで、この台帳は当館の金庫に保管されております」
三つ目。
「新しい魔法陣理論の完成品です」
実験データと設計図を提出した。
トーマが立ち会い証人として署名した報告書も添えた。
「この理論は、フェルゼン式と同一の設計思想を持ちながら、それを超える性能を実現しています。同じ設計思想の理論を異なる人間が独立に構築する確率は、極めて低い。つまり——両方の理論を設計したのは、同一人物です」
白亜の間が、静まり返った。
◇
クラウスが、ヴィクトルに視線を向けた。
「フェルゼン。反論を」
ヴィクトルは立ち上がった。
笑顔。完璧な笑顔。
だが、立ち上がるとき、椅子の肘掛けを少し強く握ったのが見えた。
「殿下。妻の主張は……悲しいことですが、誤解に基づいています」
穏やかな声で、彼は語り始めた。
「研究は共同で行ったものです。筆跡の違いは、私が妻に計算の一部を手伝わせたため。修正記録は、共同研究者として記載しようとしたが、妻自身が辞退したもの。新理論については——妻は私の研究を間近で見ていたのですから、影響を受けるのは当然でしょう」
巧みだった。
全ての証拠に、もっともらしい説明をつけてくる。
聴衆の一部が、ヴィクトルの言葉に頷いているのが見えた。
公爵家の当主の言葉は、男爵令嬢の言葉より重い。
(ここだ)
予想していた。
ヴィクトルが弱みを突く交渉に切り替えることは。
だから——最後の手段を用意してきた。
「殿下。一点だけ、追加の検証をお願いしたく存じます」
クラウスの目が、私に向いた。
温和な顔の奥にある、冷徹な知性。
「何だ」
「ヴィクトル・フェルゼン氏に、この場で魔法陣の設計を実演していただきたい」
広間がざわめいた。
「具体的には、フェルゼン式の基礎理論に含まれる安全機構——変数αの帰還経路を、白紙の状態から設計していただきたい」
ヴィクトルの笑顔が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「この安全機構は、理論の設計者であれば、構造を理解しているはずのものです。舞踏会で指摘された不備も、ここに起因します。設計者であるなら——すぐに書けるはずです」
沈黙。
この問いは、逃げ場がない。
「計算の一部を手伝わせただけ」なら、核心部分は自分が設計したはずだ。
書けないなら——その主張が嘘だったことになる。
クラウスがヴィクトルを見た。
「フェルゼン。応じるか」
「……殿下。このような形式的な——」
「応じるか否かを聞いている」
クラウスの声には、感情がなかった。
だがその無感情さが、逃げ道をすべて塞いでいた。
ヴィクトルの手が、微かに震えた。
隣でダリウスが何か言いかけ、クラウスの視線を受けて口を閉じた。
「……もちろん、応じます」
紙とペンが用意された。
ヴィクトルがペンを取った。
白い紙の上に、ペン先が触れる。
時間が過ぎた。
一分。二分。五分。
ペンは——動かなかった。
広間にいる全員が、白い紙を見つめていた。
何も書かれていない、白い紙を。
ヴィクトルの額に、薄く汗が浮いていた。
完璧だったはずの笑顔の下から、別の表情が滲み出している。
恐怖だ。
自分が凡才だと知られることへの、根源的な恐怖。
私は黙って立っていた。
何も言う必要はなかった。
白紙が、すべてを語っていた。
クラウスが静かに立ち上がった。
「十分だ。裁定を下す」
広間の全員の目が、王太子に集中した。
「フェルゼン式魔法陣理論の帰属について——追加調査の上、正式な裁定を後日通達する。調査期間中、ヴィクトル・フェルゼンの主任研究員の職務は一時停止とする」
ヴィクトルの顔から、血の気が引いた。
「殿下——!」
「異議は書面で受け付ける。以上だ」
クラウスは振り返らずに退出した。
白亜の間に残されたヴィクトルは、白い紙をじっと見つめていた。
何も書かれていない紙を。
その横顔に、怒りはなかった。
あるのは——空洞だった。三年間、他人の成果で築いた名声が崩れ始めた瞬間の、空洞。
ダリウスが隣に歩み寄り、ヴィクトルの腕を取った。
マルグリットが不安そうについていく。
レナード局長は——もう、ヴィクトルの方を見ていなかった。
別の方向を向いて、静かに広間を出ようとしている。
不利になれば、一番最初に距離を取る。予想通りだった。
セレンが横に来た。
何も言わない。ただ、隣に立っている。
「終わりましたか」
「まだだ。正式な裁定が出るまでは」
「……そうですね」
でも、足元が震えていた。
安堵と疲労が、同時に押し寄せてきた。
セレンの手が——黒い手袋の手が、私の肘にそっと触れた。
支えるように。
「歩けるか」
「はい」
二人で、白亜の間を出た。
長い回廊を並んで歩く。
夕暮れの光が、窓から斜めに差し込んでいた。
「グランディーアさん」
「何だ」
「ありがとうございます、とだけ」
セレンは答えなかった。
ただ、歩幅を少しだけ私に合わせてくれた。
それだけのことが——今は、何よりも心強かった。




