第7話 砕けた嘘と新しい陣
舞踏会の翌朝から、予想通りの反撃が始まった。
まず、研究第三室への資料搬入が止まった。
発注していた魔法素材の納品が、理由なくキャンセルされている。
「すみません、リーネさん……予算の再配分で、第三室は次の四半期まで新規発注不可だそうです」
トーマが申し訳なさそうに報告する。
眼鏡を何度も押し上げている。
「誰の指示ですか」
「レナード局長です」
予想通り。
ヴィクトルが局長を動かし、私の研究環境を潰しにきた。
だが、それだけではなかった。
午前中、第三室に見知らぬ男が訪ねてきた。
局長室からの使者だという。
「リーネ・アルヴェス研究員。研究テーマの変更命令です。現在のテーマは局の方針に合致しないため、指定テーマへの移行をお願いします」
渡された書類を見た。
指定テーマは「フェルゼン式魔法陣の実用化検討」——つまり、ヴィクトルの理論の補助研究をしろ、ということだ。
「局長の署名がありますね。確認します」
書類を受け取り、使者を帰した。
トーマが不安そうにこちらを見ている。
「大丈夫です。この命令は、副局長の承認なしには発効しません」
「え……そうなんですか?」
「魔法局の規則を確認しました。研究テーマの変更は、局長と副局長の双方の署名が必要です。レナード局長は自分の署名だけで通そうとしている」
トーマの表情が、驚きから安堵に変わった。
「リーネさん、すごい……いつの間にそんなこと調べて」
(眠れない夜は、規則書を読むのにちょうどいいんです)
とは言わなかった。
次に来たのは、もっと直接的だった。
屋敷に戻ると、食堂にヴィクトルとダリウス——義父が揃って座っていた。
テーブルの上に、ワインではなく茶器が並んでいる。これは——交渉の席だ。
「座りなさい、リーネ」
ダリウスの穏やかな声。
だが、その穏やかさが逆に空気を重くした。
この人の「穏やか」は、刃を布で包むようなものだ。
「昨夜の舞踏会でのことだが——」
「父上」
ヴィクトルが遮った。笑顔のまま。
その笑顔の下に、昨夜壇上で見せた恐怖の残滓がある。だが、彼はそれを完璧に隠している。
「リーネ。僕は君が魔法局で研究をすることに反対はしていない。だが、昨夜の振る舞いは少々目立ちすぎたようだ」
「技術的な指摘をしただけです」
「分かっている。だからこそ、こう言いたいんだ——今後の研究発表は、フェルゼン家の名前で行ってほしい。君は僕の妻なのだから」
(……来た)
笑顔の裏にある意味は明白だ。
私の研究を、再び公爵家の管理下に置く。
フェルゼンの名前で発表させれば、独立した実績にはならない。
「お考えはよく分かります。ですが——」
「リーネさん」
ダリウスが口を開いた。
穏やかだが、逆らえない圧を持つ声。
「フェルゼン公爵家は、あなたの研究を全面的に支援してきました。この屋敷の部屋も、魔法局への口添えも。家名を冠することは、当然の義務ではないですか」
嘘だ。
支援などされていない。搾取されてきただけだ。
だが、ここで感情的に反論すれば、相手の思う壺になる。
「恩知らず」「感情的な女」——そういうレッテルを貼られる。
「……少し考えさせてください」
「もちろん。急かすつもりはないよ」
ヴィクトルの笑顔が、一段と完璧になった。
この男は——追い詰めれば追い詰めるほど、笑顔が完璧になる。
部屋に戻り、便箋を広げた。
手が震えている。
(落ち着け)
深呼吸を三回。
ペンを取り、状況を整理する。
相手の狙い:研究の支配権の維持。
手段:予算の遮断、テーマ変更命令、家名の強制。
時間制限:ヴィクトルが正式な手続きで研究の帰属を確定させる前に、証拠を揃えなければならない。
三方向からの同時攻撃。
だが、予算の遮断にはセレンが対応できる。テーマ変更命令は手続き不備で無効。
残るは家名の問題——これは法的に対抗する必要がある。
「あと少し」なのだ。
新しい魔法陣の設計は、ほぼ完成している。
残りの検証さえ終われば——。
翌日、西棟の書庫でセレンに状況を報告した。
「予算の遮断と家名の強制か。レナードらしい動きだ」
「研究素材がなければ、新しい陣の最終検証ができません」
「素材なら、俺の研究予算から回す。副局長権限の範囲内だ」
「……いいのですか」
「正当な研究支援だ。問題はない」
セレンは書架に手をかけ、何かを探し始めた。
やがて、古い試薬の箱を引き出してきた。
丁寧に、だが迷いなく。この箱の場所を、ずっと覚えていたのだと分かった。
「これは俺の私物だ。恩師から受け継いだ魔法素材で、今の市場には出回っていない。お前の陣の最終検証に使え」
箱を受け取った。
ずしりと重い。
「グランディーアさん。恩師のものを使っていいのですか」
「師が生きていたら、お前のような研究者にこそ使えと言っただろう」
その声に込められたものを、正確には読み取れなかった。
でも、箱を抱える腕に力が入った。
これは素材を渡されただけではない。
この人が大切にしてきたものを、信頼して託された——それが分かった。
「必ず、結果を出します」
セレンは何も答えなかった。
ただ、書庫の出口で——いつものように扉を開け、先に通してくれた。
その夜から三日間、第三室に籠もった。
トーマが実験の補助をしてくれた。
夜遅くまで付き合い、データを丁寧に記録し続けてくれる彼がいなければ、この速度は不可能だった。
二日目の深夜、実験が行き詰まった。
第三層の結合が何度やっても不安定になる。
「リーネさん、少し休みませんか。もう日付が変わって——」
「あと少しだけ」
「……はい」
トーマが黙って紅茶を淹れてくれた。
その温かさが、固くなった思考をほぐしてくれた。
三日目の朝。
実験台の上に、新しい魔法陣が浮かび上がった。
フェルゼン式を超える構造。
エネルギー循環が完全に閉じた、安定した次世代の陣。
「……できた」
声が掠れた。
トーマが隣で目を見開いている。
眼鏡がずり落ちたまま、直すのも忘れている。
「リーネさん……これ、本当に……」
「ええ。これが私の研究です。三年前に奪われた理論の、正当な続きです」
魔法陣が淡い光を放ち、実験台の上で安定して回転している。
掌の紋様と同じ設計思想。同じ筆跡が設計図に刻まれている。
これで、三つの証拠が揃った。
草稿の筆跡。図書館の修正記録。そして——同一人物にしか設計できない、次世代魔法陣。
「トーマさん」
「はい!」
「あなたには、実験の立ち会い証人として、報告書に署名をお願いすることになります。それが何を意味するか——」
「分かってます」
トーマの声が、いつになく強かった。
眼鏡を押し上げる手が、震えていなかった。
「僕は最初から、筆跡が違うと思ってました。でも、証拠がなかった。勇気もなかった。先輩に『余計なことを気にするな』と言われたとき、僕は黙ってしまった。ずっと、それが悔しかった。だから——リーネさんが戦うなら、僕も証人になります」
目頭が熱くなった。
堪えた。まだ早い。
「ありがとう、トーマさん」
報告書の作成に取りかかった。
セレンに連絡を取り、証拠の最終確認を依頼する。
その日の夕方。
セレンが第三室に来た。
新しい魔法陣を見た彼の目が、わずかに見開かれた。
それが、この人の最大限の驚きなのだと、もう知っている。
「完成したか」
「はい。あとは——これを公式に提出する手段です」
「王太子の審問だ」
「審問?」
「ヴィクトルの発表に対する技術的疑義が正式に提出されれば、王太子が審問を行う権限がある。国の魔法技術に関わる問題は、最終的に王太子の裁定に委ねられる」
「王太子クラウス殿下……」
「中立の立場だ。感情では動かない。だからこそ——証拠が揃っていれば、正しい判断を下す」
セレンが報告書に目を通す。
ページをめくる手が止まったのは、最後の一枚——実験データの署名欄だった。
「立ち会い証人、トーマ・レッジか」
「はい」
「よくやった。二人とも」
短い言葉だった。
でも、セレンの声には——普段とは違う響きがあった。
帰り際、第三室の扉の前で足が止まった。
「リーネ」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
振り返ると、セレンが自分の上着を脱いでいた。
「夜は冷える。帰りの馬車まで、これを」
上着を肩にかけられた。
温かかった。彼の体温が、布地に残っている。
「……ありがとうございます」
何か言いたかった。
でも、言葉よりも先に、足が動いた。
並んで廊下を歩く。それだけのことが、胸の奥で何かを変えていた。
屋敷に戻ると、寝室の机の引き出しを開けた。
白紙の離婚届を取り出す。
もうすぐ、この紙に意味を持たせる日が来る。
その前に——明日、審問の申請を行う。
便箋にペンを走らせた。
計画の最終段階。
セレンの上着をハンガーにかけたとき、ポケットから小さな紙片が落ちた。
拾い上げると、古い魔法陣の設計図の断片だった。
恩師のものだろうか。
丁寧に折りたたんで、上着のポケットに戻した。
(この人も、取り返したいものがあるのだな)
窓の外の月を見上げた。
明日から、最後の戦いが始まる。




