第6話 仮面舞踏会の罠
新しい魔法陣の設計は、九割まで進んでいた。
西棟の書庫に通い、セレンと理論の検証を重ねる日々。
彼は口数が少ないが、指摘は的確だった。
私が見落としていた変数の矛盾を、一言で突いてくる。
「ここの結合式、左辺が不安定だ」
「……本当ですね。前提条件を見直します」
「いや、前提ではなく境界条件だ。ここの閾値が変動するケースを想定していない」
言われて設計図を見直すと、確かにその通りだった。
セレンは魔法陣の専門家ではない。だが、理論構造を俯瞰する力が突出している。
私が細部に没頭して見失いがちな全体像を、彼はいつも冷静に示してくれた。
横に立つセレンの存在が、いつの間にか自然になっていた。
隣にいても息苦しくない。それが、少し不思議だった。
前の世界でも、この世界でも、他人と長い時間を共有することが得意ではなかったのに。
彼が黙って読書をしている横で、私が設計図と格闘する。
時折、質問が飛ぶ。的確な指摘が返る。また沈黙が続く。
その繰り返しが、いつしか心地良くなっていた。
その日、第三室に戻ると、トーマが青い顔をしていた。
「リーネさん、大変です。仮面舞踏会の招待状が……」
「舞踏会?」
「年に一度の王宮行事です。魔法局の研究員も出席が義務で——しかも、今回はフェルゼン主任研究員が研究成果の発表を行うと」
嫌な予感がした。
「何の発表ですか」
「フェルゼン式魔法陣の……応用理論だそうです。去年は発表枠がなかったのに、急に追加されたみたいで」
掌の魔法陣が、じわりと熱を持った。
応用理論。
それは——今、私が構築している次世代理論と、方向性が重なる。
(まさか、ヴィクトルが私の研究の動きを察知した?)
考えすぎかもしれない。
だが、タイミングが良すぎる。
屋敷での私の行動を、誰かが報告しているのかもしれない。
深夜まで灯りが消えないこと。便箋とペンの減り具合。設計図の紙の発注。
一つ一つは些細でも、組み合わせれば——「何かをしている」ことは分かる。
「トーマさん。発表内容の概要は出ていますか」
「まだですけど、レナード局長が全面的に後押ししているみたいです」
局長と公爵家の連携。
制度的な壁が、厚くなっていく。
セレンに相談したのは、その日の夕方だった。
「仮面舞踏会の発表か」
書庫の奥で、セレンは腕を組んだ。
「ヴィクトルの狙いは、お前が動く前に既成事実を作ることだ。応用理論を先に発表すれば、後から出た理論は『模倣』に見える」
「はい。つまり——」
「お前の新理論を潰すつもりだ。先行者利益を確保するのは、研究の世界では定石だからな」
冷静に頷いた。予想通りだった。
「対策は一つです。舞踏会の場で、ヴィクトルの応用理論の欠陥を指摘する」
「欠陥があると?」
「あります。彼は私の理論の表面を使っていますが、根幹の設計思想を理解していません。だから応用に進めば、必ず構造的な矛盾が出る。家を建てるとき、設計図の意味を理解せずに増築すれば、どこかに歪みが出るのと同じです」
セレンが、じっと私を見た。
「確信があるか」
「設計者ですから」
短い沈黙のあと、セレンの口元がほんの僅かに動いた。
笑ったのだと気づいたのは、少し後だった。
この人の笑顔は、本当に分かりにくい。
「当日、俺が質疑の機会を作る。お前は技術的な指摘だけに集中しろ。政治的な動きは俺が引き受ける」
「……ありがとうございます」
「礼はいらない」
そう言って、セレンは書架の整理に戻った。
その背中が、なぜか少しだけ温かく見えた。
仮面舞踏会の夜。
王宮の大広間は、魔法灯のシャンデリアに照らされて輝いていた。
色とりどりの仮面をつけた貴族たちが、音楽に合わせて踊っている。
私の仮面は銀色の簡素なもの。ドレスも借り物。
場違いなのは分かっている。
入口で招待状を見せたとき、案内係の視線が一瞬だけ私のドレスに留まった。
値踏みするような目。その目に慣れている自分が、少しだけ悲しかった。
ヴィクトルは、広間の中央で笑顔を振りまいていた。
金色の仮面。マルグリットが腕にしがみついている。
二人の周囲には、取り巻きの貴族たちが群がっていた。
社交界の中心。それがヴィクトルの居場所だ。
そして、かつて私がいた場所——研究室の片隅——とは、対極の世界。
発表は、舞踏会の中盤に行われた。
ヴィクトルが壇上に立ち、応用理論の概要を説明する。
魔法で空中に投影された陣の図式が、広間を青白く照らした。
声は自信に満ちていた。身振りは堂々としている。
聴衆の心を掴む術を知っている人間の発表だった。
聴衆が感嘆の声を上げる。
だが——私の目には、はっきりと見えていた。
投影された陣の第三層、結合構造の右辺。
そこに、致命的な矛盾がある。
設計思想を理解せずに応用を進めた結果、エネルギーの循環が閉じていない。
理論上は美しく見えるが、実装すれば暴走する。
(やはり、そうか)
表面だけを見ると完璧な理論に見える。
だが、基礎の設計思想を知っている者から見れば——穴だらけだ。
ヴィクトルの発表が終わり、質疑に移った。
レナード局長が進行を務め、形式的な質問だけで終わらせようとする。
その時——
「一点、技術的な確認をしたい」
セレンの声が、広間に響いた。
壁際に立っていたはずなのに、いつの間にか前方に移動していた。
「副局長?」
「発表された応用理論の第三層、結合構造について。この場に魔法陣理論に詳しい研究員がいれば、見解を聞きたい」
視線が集まった。
セレンの目が、静かに私を指した。
私は一歩、前に出た。
心臓が速い。
でも、手は震えていなかった。
「研究第三室、リーネ・アルヴェスです。一点だけ、ご確認いただきたい箇所があります」
ヴィクトルの笑顔が、ほんの一瞬だけ凍った。
だがすぐに微笑みを取り戻す。さすがだ。
「投影されている陣の第三層ですが——結合構造の右辺に、エネルギー循環の不整合があります。具体的には、変数αの帰還経路が定義されていません」
広間がざわめいた。
「これは基礎理論の設計段階で組み込まれるべき安全機構であり、応用に進む前に解決されるべき問題です。このまま実装した場合、陣は三回目の起動で暴走します」
沈黙。
ヴィクトルの目が、仮面の奥で光った。
「……興味深い指摘だね。だが、それは理論上の可能性にすぎない。実際に暴走するかどうかは検証が必要だ」
「では、この場で簡易検証を行いましょう。投影された陣の右辺に、ここで変数αの帰還経路を加えれば、構造が安定するかどうか確認できます」
その一言で、広間の空気が変わった。
「検証」という言葉は、この世界の研究者にとって最も重い。
拒否すれば「検証を恐れた」と見なされる。
ヴィクトルは微笑みを崩さなかった。
だが、握りしめた手の甲に、血管が浮き出ているのが見えた。
彼の恐れが、手の甲から滲み出ている。
「……今日は発表の場だ。検証は後日、正式な手続きで行うべきだろう」
「仰る通りです」
私はそれ以上、踏み込まなかった。
今日はここまでで十分。
種は蒔いた。
技術的な疑問が、この場にいる全員の頭に残った。
壇上を降りると、セレンが壁際に立っていた。
何も言わず、グラスを一つ差し出してきた。
水だった。
受け取って、一口飲んだ。
手が震えていることに、自分で気づいた。
「……よくやった」
セレンの声は小さかった。
でも、確かに聞こえた。
「まだ、一歩目です」
「ああ。だが、正しい一歩だ」
グラスを持つ手の震えが、少しだけ収まった。
広間の向こうで、ヴィクトルがレナード局長と何か話し込んでいるのが見えた。
マルグリットが不安そうにその横に立っている。
反撃が来る。
それは分かっていた。
帰り道、屋敷への馬車の中で便箋を広げた。
今夜の成果と、次に来るであろう反撃の予測を書き出す。
ヴィクトルは追い詰められると、笑顔のまま弱みを突く交渉に切り替える。
彼の次の手は——おそらく、私の立場そのものを奪いにくる。
(研究員の地位か、それとも婚姻関係を使うか)
どちらにしても、準備はできている。
便箋を閉じたとき、馬車の窓から月が見えた。
仮面を外した自分の顔が、窓ガラスに映っている。
その顔は、三ヶ月前より少しだけ強くなっていた。




