第4話 銀髪の副局長と古い書庫
西棟の書庫は、思っていたよりもずっと広かった。
高い天井まで届く書架が並び、魔法灯の淡い光が資料の背表紙を照らしている。
古い羊皮紙とインクの匂いが、鼻腔の奥に届いた。
この匂いを嗅ぐと、不思議と心が落ち着く。前の世界でも、図書館は私にとって一番安全な場所だった。
「ここだ」
セレンは奥の一角で足を止めた。
書架の隅に、埃を被った木箱がいくつか積まれている。
「三年前の研究記録。魔法局に提出された論文の、原本草稿だ」
心臓が跳ねた。
「……なぜ、私にこれを?」
「お前の実技を見た」
セレンの目が、真っ直ぐに私を見ていた。
感情の色がない。ただ、事実を述べる目。
「フェルゼン式と呼ばれている陣の構造を、設計者と同じ精度で再現できる人間は限られる。本人か、あるいは——本人以上にその理論を理解している者か」
息を呑んだ。
「お前はどちらだ」
嘘をつくこともできた。
でも、この人の目の前では、嘘は意味を持たない気がした。
あの試験の実技で、私は自分を隠さなかった。隠せなかった。
設計者でなければ出せない精度と速度。それを見抜く目が、この人にはあった。
「……確認させてください。それを知って、あなたはどうするのですか」
「俺の目的は魔法局の浄化だ。不正があるなら、正す。それだけだ」
長い沈黙があった。
書庫の魔法灯が、微かに揺れた。
埃の粒が光の中で舞っている。
「見せてください。その草稿を」
木箱を開けた。
中には、束ねられた羊皮紙の束。
最初の一枚を手に取った瞬間、指先に走った感覚を、私は一生忘れないだろう。
筆跡が、違う。
論文の本文はヴィクトルの字だ。
整った、教科書のような文字。
だが、欄外に書き込まれた数式の走り書き——構造の核となる部分だけが、別の筆跡になっている。
私の字だ。
前の世界の記憶と、この身体の記憶が重なる。
どちらの世界でも、私は同じ癖で数式を書く。
等号の横棒を少し長めに引き、変数のアルファベットを右に傾ける。
急いで書くと、積分記号の上端が丸くなる——そこまで同じだった。
「これは……」
「分かるか」
「はい」
声が、震えそうになった。
堪えた。ここで泣いたら、ただの感情論になる。
証拠は証拠として、冷静に扱わなければならない。
「この走り書きの筆跡は、提出された論文の本文と異なります。つまり、核となる理論を書いた人物と、論文を清書した人物が別人である可能性を示しています」
「可能性、か」
「証拠としてはまだ弱い。筆跡が違うだけでは、協力者がいた程度の話にしかなりません。ヴィクトルが『計算の一部を手伝わせた』と弁明すれば、それで終わる可能性があります」
セレンが、ほんの僅かに目を細めた。
それが彼なりの——感心の表現なのだと、後になって知ることになる。
「冷静だな」
「冷静でいなければ、勝てませんから」
木箱の中の草稿を丁寧に戻した。
手が震えているのは、セレンにも見えていただろう。
でも、彼はそれに触れなかった。
「この草稿の閲覧記録を確認したいのですが」
「俺以外に、ここ三年で閲覧した者はいない」
「なぜですか。重要な資料のはずでは」
「フェルゼン主任研究員が、資料の管理権限を自分に集中させた。実質的に、本人と局長以外は触れられない状態だった。俺が副局長として着任してから、管理権限を分散させたが——彼らはそれに気づいていない」
計画的だ。
ヴィクトルは、証拠が残る場所を全て自分の管理下に置いた。
指導教官が学生の論文を管理するのと、同じ構造。
前の世界でも、この世界でも。支配の手口は変わらない。
「セレンさん」
「グランディーアでいい」
「グランディーアさん。一つ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「あなたにとって、これは——正義の問題ですか。それとも、政治の問題ですか」
セレンは黙った。
書架の陰で、魔法灯の光が銀髪を淡く照らしていた。
黒い手袋の指が、書架の縁に触れている。
「両方だ。だが、どちらか一つを選べと言われたら——」
少し間があった。
その間に、何かを呑み込むような気配があった。
「過去に、同じようなことがあった。才能のある研究者が、政治に潰された。俺はそのとき何もできなかった」
声色は変わらなかった。
でも、黒い手袋に包まれた手が、一瞬だけ握り込まれたのを見た。
革の軋む小さな音が、静かな書庫に響いた。
「同じことは、二度と起こさせない。それが俺の理由だ」
私は頷いた。
この人は、味方になる。
理由が個人的であるということは——裏切る理由がないということだ。
政治や利害で動く人は、状況が変われば立場を変える。
だが、個人的な悔恨で動く人は——同じ過ちを繰り返さないために動く。それは、簡単には揺らがない。
「グランディーアさん。私はこの草稿だけでは勝てません。必要なものが、あと二つあります」
「言え」
「一つ。この世界で初めて私の理論が記録された原本。王宮図書館に提出記録があるはずです」
「図書館の司書長はエルザ・ノイマンだ。記録の正確さに命を懸けているような女だが、政治的には中立だ。俺から紹介する」
「ありがとうございます。そして二つ目——」
私は掌を開いた。
魔法陣の紋様が淡く浮かび上がる。
セレンの目が、初めて驚きの色を帯びた。
普段の無表情が崩れ、その奥に——研究者としての純粋な興奮が見えた。
「これは……既存の理論体系にない」
「はい。フェルゼン式を超える、次世代の魔法陣理論です。これを完成させて公式に発表すれば——」
「同じ人間が設計したことが、技術的に証明される」
「そうです。筆跡は言い逃れができます。記録も、状況証拠にすぎない。でも、技術そのものは嘘をつけません」
セレンは、私の掌をじっと見つめていた。
魔法灯の光が青白い紋様を照らし、その反射が彼の瞳の中で揺れている。
やがて、小さく息を吐いた。
「……面白いな」
それは、書庫の中で初めて聞いた——彼の、感情のこもった声だった。
書庫を出るとき、セレンは扉を開けて先に通してくれた。
特別な仕草ではない。ただ自然に、当然のように。
「明日から、この書庫は自由に使え。鍵を渡す」
手のひらに、古い真鍮の鍵が置かれた。
重い。だが、その重さが頼もしかった。
「……いいのですか」
「お前の研究に必要だろう。副局長権限で許可する」
廊下を歩きながら、鍵の重みを手の中で確かめた。
冷たい金属の感触。
でも、不思議と温かく感じた。
第三室に戻ると、トーマが目を丸くした。
「副局長と一緒に書庫に!? 大丈夫でしたか!?」
「ええ。とても有意義でした」
「ほ、本当ですか……あの人、怖くなかったですか」
「怖くはなかったです。ただ——」
(鋭い人だ。味方にいることが、これほど心強いとは)
「ただ?」
「いえ。明日から忙しくなりそうです」
トーマは不思議そうに首を傾げていたが、それ以上は聞かなかった。
代わりに、「何かお手伝いできることがあったら言ってくださいね」と、少し嬉しそうに言った。
夜。
屋敷に戻ると、ヴィクトルが食堂で待っていた。
「リーネ。魔法局は楽しいかい?」
穏やかな笑顔。完璧な夫の仮面。
食卓にはワインが二つ並んでいる。形だけの夫婦の晩餐。
「ええ、とても」
「そうか。無理はしないように。男爵家の出では、宮廷の空気に慣れるのも大変だろう?」
柔らかい声の中に、棘がある。
お前には無理だ、と。身の程を知れ、と。
前の世界でもそうだった。指導教官は常に柔らかく笑いながら、私の可能性を狭める言葉を選んでいた。
「君には難しいかもしれないが」「無理をしなくていいよ」——優しさの仮面を被った支配。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
「ああ、それから——研究のことで分からないことがあれば、いつでも聞いてくれ。君は僕の妻なのだから」
(あなたの研究ではないのに)
その言葉を喉の奥に押し込んで、微笑んだ。
部屋に戻り、便箋を広げた。
今日得た情報を整理する。
草稿の筆跡。管理権限の構造。セレンの協力。
そして——明日、図書館で確認すべきこと。
ペンを走らせる手は、もう震えていなかった。
枕元に書庫の鍵を置いて、灯りを消した。
暗闇の中で、掌の魔法陣がほんの少しだけ光っている。
明日、王宮図書館の司書長に会う。
あの場所に、私の研究の提出記録が残っているなら——それは、筆跡以上の証拠にな




