第3話 魔法局の扉
試験会場は、王宮の東棟にあった。
石造りの回廊を歩きながら、自分の靴音を聞いていた。
男爵令嬢が持てる中で一番まともなドレス。それでも、周囲の受験者たちの装いには遠く及ばない。
回廊の壁には歴代の功労者の肖像画が並んでいる。
その中に、一枚だけ——見覚えのある名前を見つけて、足が止まった。
「フェルゼン公爵家」の紋章が刻まれた額縁。
ヴィクトルの肖像ではない。先代か、先々代のものだろう。
この家は、代々王宮と深い結びつきがある。
(この壁に、いつか私の名前が並ぶ日は来るのだろうか)
受付で名前を告げると、担当官の眉がわずかに動いた。
「フェルゼン公爵夫人……?」
「旧姓で登録をお願いします。リーネ・アルヴェス」
担当官は隣の係員と目を見合わせた。何か確認したいようだったが、規則上は旧姓での登録も認められている。
少し躊躇してから、登録簿にペンを走らせた。
試験は三段階。
筆記、実技、面接。
筆記は基礎理論。
前の世界の知識とこの世界の理論を照合しながら解いていく。
問題用紙をめくるたびに、この世界の魔法体系への理解が深まる。基礎の構造は前の世界と驚くほど似ている。変数の表記法が少し違うだけだ。
予想通り、ヴィクトルの——私の——理論が試験範囲に入っていた。
(自分の研究を、他人の名前で解答する)
奇妙な感覚だった。
だが、正確に解けること自体が、いつか証拠になる。
実技試験は、簡易魔法陣の構築。
与えられた素材から魔法陣を組み、指定された効果を発現させる。
試験官が読み上げた課題を聞いた瞬間、内心で小さく息を吐いた。
これは——私が設計した、初期理論の応用問題だ。
周囲の受験者たちが苦戦する中、私は静かに陣を組んだ。
手が迷わない。設計者だから当然だ。
素材の配置を決め、結合式を描く。指先が自然に動く。
考えるまでもない。この理論は私の身体の一部のようなものだ。
発動。
淡い光が試験台の上に広がり、課題通りの効果を示した。
試験官たちがざわめく。
規定時間の半分以下。しかも、効率が他の受験者の三倍近い。
隣の受験者が、信じられないという顔でこちらを見ている。
その視線の中に、驚きと——わずかな警戒があった。
(……少し目立ちすぎたかもしれない)
だが、ここで力を隠す選択肢はなかった。
入局できなければ、何も始まらない。
面接は個別に行われた。
小さな部屋に、試験官が三人。
中央に座っていた男が、書類から顔を上げた。
痩せ型で、常に笑みを浮かべているが、目が笑っていない。
宮廷魔法局局長、レナード・ヴァイス。
この男がこの場にいるということは、通常の面接ではない。
局長が選考に直接関わるのは、注目すべき受験者がいる場合だけだろう。
「アルヴェス嬢——いや、フェルゼン公爵夫人かな?」
「アルヴェスで結構です」
「ふむ。実技の成績が飛び抜けているが……フェルゼン式の理論に、随分と精通しているようだね?」
含みのある言い方だった。
レナードの目の奥で、何かが計算されている。
この男はヴィクトルの後ろ盾だ。つまり、私の入局を歓迎していない。
「理論に精通していることは、研究者として当然のことかと」
「ごもっとも」
レナードの笑みが、ほんの少し硬くなった。
両隣の試験官は下を向いたまま、何も言わない。局長に逆らう度胸はないらしい。
面接が終わり、回廊に出た。
長い廊下の窓から、中庭の噴水が見えた。
足を止めたのは、視界の端に人影を捉えたからだ。
柱にもたれて本を読んでいる長身の男。
銀髪を無造作に束ね、黒い手袋をしている。
手にした本は古い魔法理論書——背表紙の文字から、百年以上前の文献だと分かった。
目が合った。
男は本から視線を上げ、私を一瞬だけ見た。
それだけで、心臓が警戒のリズムを刻んだ。
観察する目だった。
研究者が実験対象を見るときの——あの目。
ただし、悪意はない。むしろ、純粋な知的好奇心に近い光があった。
男は何も言わず、視線を本に戻した。
(……誰だろう)
気になったが、今は試験の結果を待つことが先決だ。
翌日。
結果は、屋敷に届いた書簡で知らされた。
合格。配属先——研究第三室。
書簡を読み終えた瞬間、手が震えた。
嬉しさではない。安堵でもない。
やっと、同じ土俵に立てた。
ただそれだけのことに、三日もかかった。
この先には、もっと長い道がある。
そう思ったとき、食堂の方からヴィクトルの声が聞こえた。
「リーネが魔法局に? ……ああ、趣味程度ならいいだろう。好きにさせておけばいい」
笑い声。マルグリットの甲高い相槌。
「あの人に何ができるの? 公爵家の名を借りて入っただけでしょう?」
(……ええ、そう思っていてください)
この人たちが油断してくれるなら、それが最大の武器になる。
書簡を引き出しにしまい、便箋を取り出した。明日から必要なものを書き出す。
初出勤の日。
研究第三室は、東棟の奥まった場所にあった。
王宮の華やかな回廊から離れ、日当たりの悪い棟の突き当たり。
扉の金具は錆びかけていた。
扉を開けると、そばかすの青年が慌てて立ち上がった。
丸眼鏡を押し上げながら、頬を赤くしている。
「あ、新しい方ですか!? 僕はトーマ・レッジ、研究助手です。えっと、ここ、人が少なくて——」
見回すと、広い部屋に机が四つ。
使われている形跡があるのは二つだけ。
棚にはほこりを被った資料が積まれ、窓際の実験器具は長く使われていないようだった。
「よろしくお願いします、トーマさん」
「レッジでいいです! あ、いえ、トーマで……すみません、緊張して」
何度も眼鏡を押し上げるトーマを見ていたら、少しだけ肩の力が抜けた。
この青年には——嘘の匂いがしない。
「トーマさん。この部屋の書庫にある資料を見せていただけますか?」
「もちろんです! ……でも、ここの資料はあまり多くなくて。大きな書庫は西棟にあるんですが、第三室の権限だとアクセスが限られていて」
「西棟の書庫……」
「ええ。あそこは副局長の管轄なんです」
副局長。
昨日、廊下で見た銀髪の男を思い出した。
「副局長というのは?」
「セレン・グランディーア様です。伯爵家のご次男で、若いのに副局長に抜擢された方で——あ、ちょっと怖い人なんですけど、悪い方ではないと思います。多分」
多分、という語尾が気になったが、今は情報を集めることが先だった。
第三室の書棚に並ぶ文献に目を通していく。
予想していたことだが、「フェルゼン式魔法陣理論」の原典資料は、ここにはほとんどない。
全て西棟に集中している。
つまり、ヴィクトルが管理しやすい場所に。
(意図的に資料をまとめたのか、それとも副局長が集めたのか)
疑問を便箋にメモし、トーマに聞いた。
「フェルゼン式の理論について、初期の研究ノートを見たことはありますか?」
トーマの眼鏡の奥の目が、きょとんとした。
「研究ノート……ですか? 僕が入局したときには、もう論文として完成していましたけど。でも——」
言いかけて、口をつぐんだ。
視線が一瞬だけ泳ぎ、書棚の一番下の段に向かった。
「でも?」
「いえ……なんでもないです」
トーマは眼鏡を押し上げて、棚の整理に戻った。
でも、その指先が微かに震えているのを、私は見逃さなかった。
(何か知っている)
今は追わない。
信頼を築く方が先だ。
午後、第三室の窓から西棟の建物を眺めた。
灰色の石壁に、魔法灯の淡い光が見える。あの中に、私の論文の原本がある。
私の名前を消された論文が、誰かの手柄として飾られている。
まだ足元が覚束ない。
でも、扉は開いた。
ここからだ。
退勤しようとしたとき、廊下で足音が近づいた。
「研究第三室の新任か」
振り返ると、銀髪の男が立っていた。
黒い手袋。観察する目。
「セレン・グランディーアだ。明日、西棟の書庫に来い。見せたいものがある」
それだけ言って、男は踵を返した。
(……見せたいもの?)
なぜ、副局長が新任の平研究員にそんなことを?
心臓が、理由の分からない速さで打っていた。




