第2話 盗まれた論文と偽りの夫
朝食の席で、その男は完璧な笑顔を向けてきた。
「体調はどうだい、リーネ」
金髪碧眼。仕立ての良い上着。指先まで手入れが行き届いている。
フェルゼン公爵家当主、ヴィクトル。
——私の、夫だという男。
「おかげさまで」
声が震えないことを確認してから、スープに視線を落とした。
銀の匙が映す自分の顔は、思ったより平静だった。
けれど、膝の上で握った左手だけが、小さく震えている。
ヴィクトルは優雅にパンを千切りながら、何事もないように微笑んでいる。
完璧な朝食風景。完璧な夫婦の姿。
嘘で塗り固められた、完璧。
食堂の壁には家族の肖像画が飾られていた。
歴代のフェルゼン公爵と、その伴侶たち。
どの絵の中でも、妻は夫の半歩後ろに立っている。
この家では、妻は背景の一部なのだ。
研究も、名前も、存在さえも——公爵家を彩る飾りでしかない。
食事が終わるまで、ヴィクトルは穏やかに天気の話をしていた。
まるで何も問題がないかのように。
その穏やかさが、何よりも不気味だった。
◇
ここに来て、三日が経った。
この世界のことは、少しずつ分かってきた。
前の世界の記憶がある。大学で魔法工学を専攻していた、あの人生。
そしてこの身体の持ち主——男爵令嬢リーネ・アルヴェスの記憶も、断片的に残っている。
二つの記憶が重なるのは、ひとつの事実だ。
私の魔法陣理論を、ヴィクトルが自分の名前で発表した。
前の世界では「指導教官」として。
この世界では「夫」として。
名目は違えど、やることは同じだった。
三日間、この屋敷を観察した。
使用人の動き、書斎の鍵の管理、手紙の配達時間。
誰が何を知っていて、誰が見て見ぬふりをしているのか。
あの男は抜け目がない。
だが、生活には必ず隙がある。人は日常を完全には偽れない。
便箋に、確認できたことを書き出す。
一つ。ヴィクトルは王宮魔法局の主任研究員。
彼の名声の中核は「フェルゼン式魔法陣理論」——つまり、私の研究。
二つ。この婚姻は、研究成果を合法的に取り込むための契約。
婚姻届の日付は、論文提出日の翌日になっている。
三つ。掌の魔法陣は、この世界にはまだ存在しない技術。
私だけが知っている、次世代の理論。
四つ。この屋敷の書斎には、研究に関する書類が保管されている。
だが、鍵はヴィクトルしか持っていない。
五つ。使用人たちは全員、公爵家に長く仕える者ばかり。
誰一人として、私の味方ではない。
ペンを置いて、深呼吸をした。
手の中にあるのは、怒りではない。
冷たい、澄み切った確信だ。
「もし……もう出かけるの?」
声をかけてきたのは、ヴィクトルの愛人——マルグリットだった。
この屋敷に堂々と出入りしている侯爵令嬢。
赤毛の巻き髪を揺らして、朝から華やかなドレスを纏っている。
この女性の存在も、三日で把握した。
ヴィクトルとの関係は公然の秘密。使用人たちは「お客様」と呼んでいるが、彼女専用の客間がある時点で、その呼び方が形だけのものだということは誰にでも分かる。
「あなた、朝食もろくに食べないのね。研究者って、みんなそうなの?」
棘のある言い方だった。
「使用人とそう変わらない」男爵令嬢を見下ろす、上位者の目。
マルグリットの指先が、自分のカップを撫でている。
優雅に見えるが、爪の先が白くなるほど力が入っていた。
彼女もまた、何かを恐れている——そう見えた。
「食欲がなくて。すみません」
頭を下げると、マルグリットは鼻で笑って食堂を出ていった。
赤毛が扉の向こうに消えるまで、私は頭を上げなかった。
悔しさで唇を噛みそうになった。
でも、今は耐える。
感情で動けば、この屋敷の壁に跳ね返されるだけだ。
(観察しろ。仮説を立てろ。検証しろ)
前の世界で叩き込まれた研究者の思考回路が、感情の波を押し戻す。
マルグリットの態度から読み取れる情報がある。
彼女の不安。ヴィクトルとの関係における立場の脆さ。
今は使えない情報でも、いつか意味を持つかもしれない。
まだ手札が足りない。
部屋に戻り、便箋の続きを書く。
必要なもの。
一つ。私がこの研究の真の作者である証拠。
二つ。王宮魔法局に正規の手段で入る方法。
三つ。味方。
三つ目が一番難しい。
この屋敷では、使用人すら公爵家の管理下にある。
外に出る手紙も、おそらく検閲されている。
昨日、手紙を出そうとしたとき、使用人が「私がお預かりします」と手を差し出した。
その手の下に、ヴィクトルの書斎の方を一瞬だけ見た目線があった。
外部に頼るしかない。
だが、男爵令嬢に何ができる?
身分も、後ろ盾も、資金もない。
(……いいえ)
掌を見つめた。
青白い紋様が、体温に反応して淡く浮かび上がる。
私には、技術がある。
ヴィクトルが盗んだのは過去の研究であり、私の頭の中身までは盗めなかった。
「フェルゼン式魔法陣理論」を超える新しい陣を構築すれば、それが証明になる。
同じ研究者が書いた、と誰の目にも明らかな技術体系を作り上げればいい。
前の世界で私が辿り着いた理論の続き。
それをこの世界の体系で再構築する。
掌の魔法陣は、そのための鍵だ。
そのためには——王宮魔法局の書庫にある資料が要る。
この世界の魔法理論を、まず正確に把握しなければ。
ペンを取り直す。
便箋に、計画の骨子を書き始めた。
戦うと決めたわけではない。
ただ、奪われたものを取り返すだけだ。
この世界の法律書も確認した。
婚姻中の研究成果は、名義人に帰属する。つまり、このまま何もしなければ、新しい理論すらヴィクトルのものになる。
時間がない。
けれど、焦れば足元を掬われる。
ペンが便箋の上を走る音だけが、静かな部屋に響いていた。
午後、屋敷の庭に出てみた。
手入れの行き届いた薔薇の垣根が、敷地を囲んでいる。
美しい庭だ。だが、この美しさは「外に出さない」ためのものだと気づいた。
門には常に門番がいる。「奥様のお散歩ですか」と穏やかに声をかけてくるが、その目は監視の目だ。
書斎の窓から見える範囲を確認した。
窓は東向き。王宮の尖塔がちょうど見える角度にある。
ヴィクトルは毎朝この窓から尖塔を眺めていたのだろう。
自分が奪った成果で築いた栄光の象徴を、毎朝確認するように。
夕方。
使用人がノックとともに伝言を持ってきた。
「奥様。明後日、王宮にて魔法局の公開選考試験がございます。局長が広く人材を募るとのことで——」
心臓が、一拍だけ早く打った。
「どなたでも受験できるのですか」
「ええ、身分を問わず、と。ただし、受付は明日の正午まででございます」
使用人が去った後、便箋の隅に小さく書き加えた。
——公開選考。明後日。受付明日正午。
窓の外では、夕日が王宮の尖塔を赤く染めていた。
あの中に、私の研究がある。
私の名前を消された論文が、誰かの手柄として飾られている。
……取り返しに行こう。
ふと、鏡に映る自分と目が合った。
栗色の髪を低い位置でまとめた、地味な女。
この顔で、あの王宮に乗り込むのだ。
不安はある。
けれど、掌の紋様が夕日の中で一瞬だけ強く光った。
まるで——行け、と背中を押すように。




