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嘘つき花嫁は王宮で真実を暴く ~捨てられた研究者が最強の魔法陣で成り上がるまで~  作者: 渚月(なづき)


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第2話 盗まれた論文と偽りの夫

朝食の席で、その男は完璧な笑顔を向けてきた。


「体調はどうだい、リーネ」


金髪碧眼。仕立ての良い上着。指先まで手入れが行き届いている。

フェルゼン公爵家当主、ヴィクトル。

——私の、夫だという男。


「おかげさまで」


声が震えないことを確認してから、スープに視線を落とした。

銀の匙が映す自分の顔は、思ったより平静だった。

けれど、膝の上で握った左手だけが、小さく震えている。


ヴィクトルは優雅にパンを千切りながら、何事もないように微笑んでいる。

完璧な朝食風景。完璧な夫婦の姿。

嘘で塗り固められた、完璧。


食堂の壁には家族の肖像画が飾られていた。

歴代のフェルゼン公爵と、その伴侶たち。

どの絵の中でも、妻は夫の半歩後ろに立っている。


この家では、妻は背景の一部なのだ。

研究も、名前も、存在さえも——公爵家を彩る飾りでしかない。


食事が終わるまで、ヴィクトルは穏やかに天気の話をしていた。

まるで何も問題がないかのように。

その穏やかさが、何よりも不気味だった。



ここに来て、三日が経った。


この世界のことは、少しずつ分かってきた。

前の世界の記憶がある。大学で魔法工学を専攻していた、あの人生。

そしてこの身体の持ち主——男爵令嬢リーネ・アルヴェスの記憶も、断片的に残っている。


二つの記憶が重なるのは、ひとつの事実だ。


私の魔法陣理論を、ヴィクトルが自分の名前で発表した。


前の世界では「指導教官」として。

この世界では「夫」として。

名目は違えど、やることは同じだった。


三日間、この屋敷を観察した。

使用人の動き、書斎の鍵の管理、手紙の配達時間。

誰が何を知っていて、誰が見て見ぬふりをしているのか。


あの男は抜け目がない。

だが、生活には必ず隙がある。人は日常を完全には偽れない。


便箋に、確認できたことを書き出す。


一つ。ヴィクトルは王宮魔法局の主任研究員。

彼の名声の中核は「フェルゼン式魔法陣理論」——つまり、私の研究。


二つ。この婚姻は、研究成果を合法的に取り込むための契約。

婚姻届の日付は、論文提出日の翌日になっている。


三つ。掌の魔法陣は、この世界にはまだ存在しない技術。

私だけが知っている、次世代の理論。


四つ。この屋敷の書斎には、研究に関する書類が保管されている。

だが、鍵はヴィクトルしか持っていない。


五つ。使用人たちは全員、公爵家に長く仕える者ばかり。

誰一人として、私の味方ではない。


ペンを置いて、深呼吸をした。


手の中にあるのは、怒りではない。

冷たい、澄み切った確信だ。


「もし……もう出かけるの?」


声をかけてきたのは、ヴィクトルの愛人——マルグリットだった。

この屋敷に堂々と出入りしている侯爵令嬢。

赤毛の巻き髪を揺らして、朝から華やかなドレスを纏っている。


この女性の存在も、三日で把握した。

ヴィクトルとの関係は公然の秘密。使用人たちは「お客様」と呼んでいるが、彼女専用の客間がある時点で、その呼び方が形だけのものだということは誰にでも分かる。


「あなた、朝食もろくに食べないのね。研究者って、みんなそうなの?」


棘のある言い方だった。

「使用人とそう変わらない」男爵令嬢を見下ろす、上位者の目。


マルグリットの指先が、自分のカップを撫でている。

優雅に見えるが、爪の先が白くなるほど力が入っていた。

彼女もまた、何かを恐れている——そう見えた。


「食欲がなくて。すみません」


頭を下げると、マルグリットは鼻で笑って食堂を出ていった。

赤毛が扉の向こうに消えるまで、私は頭を上げなかった。


悔しさで唇を噛みそうになった。

でも、今は耐える。

感情で動けば、この屋敷の壁に跳ね返されるだけだ。


(観察しろ。仮説を立てろ。検証しろ)


前の世界で叩き込まれた研究者の思考回路が、感情の波を押し戻す。

マルグリットの態度から読み取れる情報がある。

彼女の不安。ヴィクトルとの関係における立場の脆さ。

今は使えない情報でも、いつか意味を持つかもしれない。


まだ手札が足りない。


部屋に戻り、便箋の続きを書く。


必要なもの。

一つ。私がこの研究の真の作者である証拠。

二つ。王宮魔法局に正規の手段で入る方法。

三つ。味方。


三つ目が一番難しい。

この屋敷では、使用人すら公爵家の管理下にある。

外に出る手紙も、おそらく検閲されている。

昨日、手紙を出そうとしたとき、使用人が「私がお預かりします」と手を差し出した。

その手の下に、ヴィクトルの書斎の方を一瞬だけ見た目線があった。


外部に頼るしかない。

だが、男爵令嬢に何ができる?

身分も、後ろ盾も、資金もない。


(……いいえ)


掌を見つめた。

青白い紋様が、体温に反応して淡く浮かび上がる。


私には、技術がある。

ヴィクトルが盗んだのは過去の研究であり、私の頭の中身までは盗めなかった。


「フェルゼン式魔法陣理論」を超える新しい陣を構築すれば、それが証明になる。

同じ研究者が書いた、と誰の目にも明らかな技術体系を作り上げればいい。


前の世界で私が辿り着いた理論の続き。

それをこの世界の体系で再構築する。

掌の魔法陣は、そのための鍵だ。


そのためには——王宮魔法局の書庫にある資料が要る。

この世界の魔法理論を、まず正確に把握しなければ。


ペンを取り直す。

便箋に、計画の骨子を書き始めた。


戦うと決めたわけではない。

ただ、奪われたものを取り返すだけだ。


この世界の法律書も確認した。

婚姻中の研究成果は、名義人に帰属する。つまり、このまま何もしなければ、新しい理論すらヴィクトルのものになる。


時間がない。

けれど、焦れば足元を掬われる。


ペンが便箋の上を走る音だけが、静かな部屋に響いていた。


午後、屋敷の庭に出てみた。

手入れの行き届いた薔薇の垣根が、敷地を囲んでいる。

美しい庭だ。だが、この美しさは「外に出さない」ためのものだと気づいた。

門には常に門番がいる。「奥様のお散歩ですか」と穏やかに声をかけてくるが、その目は監視の目だ。


書斎の窓から見える範囲を確認した。

窓は東向き。王宮の尖塔がちょうど見える角度にある。

ヴィクトルは毎朝この窓から尖塔を眺めていたのだろう。

自分が奪った成果で築いた栄光の象徴を、毎朝確認するように。


夕方。

使用人がノックとともに伝言を持ってきた。


「奥様。明後日、王宮にて魔法局の公開選考試験がございます。局長が広く人材を募るとのことで——」


心臓が、一拍だけ早く打った。


「どなたでも受験できるのですか」


「ええ、身分を問わず、と。ただし、受付は明日の正午まででございます」


使用人が去った後、便箋の隅に小さく書き加えた。


——公開選考。明後日。受付明日正午。


窓の外では、夕日が王宮の尖塔を赤く染めていた。


あの中に、私の研究がある。

私の名前を消された論文が、誰かの手柄として飾られている。


……取り返しに行こう。


ふと、鏡に映る自分と目が合った。

栗色の髪を低い位置でまとめた、地味な女。

この顔で、あの王宮に乗り込むのだ。


不安はある。

けれど、掌の紋様が夕日の中で一瞬だけ強く光った。


まるで——行け、と背中を押すように。


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