第10話 嘘のない朝
季節が変わっていた。
王宮の中庭には、白い花が咲き始めている。
朝の光が、研究者官舎の小さな窓から差し込んでいた。
小さな部屋だ。
公爵家の屋敷に比べれば、箪笥一つ分にも満たない。
でも、ここにあるものは全て自分のものだ。
研究書、便箋、ペン、書庫の鍵。
どれも誰かに与えられたのではなく、自分の手で掴んだもの。
アルヴェス式魔法陣理論の発展研究は、順調に進んでいた。
毎朝、西棟の書庫でセレンと理論の検討を行う。
午後は第一室でトーマと実験。
週に一度、エルザが「たまたま見つけた」と言って、古い文献を届けてくれる。
穏やかな日々だった。
三ヶ月前には想像もしなかった日々。
だが、私の中には一つだけ、引っかかっていることがあった。
掌の魔法陣。
この世界で目を覚ましたとき、最初に見たもの。
ずっと私を導いてきた、もうひとつの理論。
この魔法陣の出自を、私はまだ解明できていなかった。
前の世界の記憶にも、この身体の記憶にも、この陣を刻んだ瞬間の記憶がない。
まるで最初からそこにあったかのように、掌に在り続けた。
設計思想の分析は何度も行った。
フェルゼン式——いや、アルヴェス式の基礎理論と同じ構造を持ちながら、はるかに洗練されている。
まるで、同じ理論を何十年も磨き続けた末に到達する場所。
(誰が、何のために——)
その疑問の答えに辿り着いたのは、偶然ではなかった。
ある朝、エルザが持ってきた文献の中に、一冊の古い手記があった。
「王宮図書館の最深部にありました。目録にも載っていない手記です。地下書庫の修繕工事をしているときに、壁の隙間から出てきたものです」
表紙には、名前が刻まれていた。
——マリア・アルヴェス。
「……アルヴェス?」
「お心当たりは?」
心臓が、大きく跳ねた。
手記を開いた。
そこには——百年前の魔法陣研究者の記録が残されていた。
マリア・アルヴェス。男爵家の出身。
天才的な魔法陣の設計者でありながら、当時の制度により、研究の名義は男性の共同研究者に奪われた。
手記には、研究の過程が克明に記されていた。
変数の定義。結合式の試行錯誤。失敗と修正の繰り返し。
どれも——私が辿ったのと、同じ道筋だった。
彼女は生涯をかけて「次世代の魔法陣」を設計したが、発表の機会を得られぬまま世を去った。
手記の中盤に、こんな一節があった。
「私の名前は、この研究から消された。だが、理論そのものは消えない。数式は人の名前を選ばない」
読みながら、何度も手を止めた。
百年前の女性が書いた言葉が、今の私に真っ直ぐに届く。
手記の最後のページに、一つの魔法陣が描かれていた。
私の掌に刻まれた、あの陣と——同じものだった。
息が止まった。
手記の末尾に、彼女の言葉が記されていた。
「この陣が、いつか正しい名前で世に出ることを祈る。百年後でも、二百年後でもいい。この研究を引き継ぐ者が現れることを、私は信じている」
目の前が、滲んだ。
(百年前の——アルヴェスの女性が、この陣を)
偶然ではなかった。
この魔法陣は、百年の時を超えて、私に届いたのだ。
同じ家名を持ち、同じものを奪われ、同じ夢を追った女性から。
彼女には、私のような味方がいなかったのかもしれない。
セレンのような協力者も、トーマのような証人も、エルザのような記録の守り手も。
一人で戦い、一人で敗れた。
でも——研究だけは、残した。
壁の隙間に隠して、百年後の誰かに届くことを祈って。
堪えきれなかった。
手記を胸に抱いて、泣いた。
声を殺して、静かに。
でも——初めて、安堵の涙だった。
全部取り返してから泣く、と決めていた。
そして今——取り返せた。彼女の分まで。
エルザが何も言わず、紅茶を淹れてくれた。
「記録は、残すものです。いつか、正しい人の手に届くように」
その言葉が、胸の奥に落ちた。
セレンに手記を見せたのは、その日の夕方だった。
書庫の、いつもの場所。
窓から差し込む夕日が、書架の間に長い影を作っている。
セレンは手記を丁寧に読み、最後のページで長く止まった。
「百年か」
「はい。百年前のアルヴェスの研究者が残した魔法陣が、私の掌に」
「……お前が、彼女の研究を引き継いだということか」
「そう思います。そして——この発展理論を完成させることが、彼女との約束になります」
セレンが手記を閉じた。
「共同研究の件だが」
「はい」
「引き受ける」
短い言葉だった。
でも、セレンの目には——あの日、書庫で初めて見た感情の色があった。
「お前の研究と、俺の恩師が目指した魔法局のあり方。方向は同じだ。正しい研究が、正しい名前で世に出る。それを守る場所を作る。それが——師にも、マリア・アルヴェスにも、報いることになる」
「……ありがとうございます」
「礼は論文が完成してからにしろ」
口元が、ほんの僅かに動いた。
セレンの笑顔は——相変わらず、分かりにくかった。
手記を返そうとして、指が触れた。
黒い手袋ではなかった。
いつの間にか、手袋を外していた。
指先の温度。
一瞬だけ触れた、素手の感覚。
何も言わなかった。
言わなくても、伝わっていた。
数日後。
王宮魔法局の大広間で、発表会が開かれた。
壇上に立ったのは、私だ。
「アルヴェス式魔法陣理論の発展形——百年前に設計され、今日完成した次世代理論について、ご報告いたします」
満席の広間。
王太子クラウスの姿もあった。
セレン、トーマ、エルザが、最前列に座っている。
発表は、静かに進んだ。
前回この広間で声を上げたときは、ヴィクトルの理論の欠陥を指摘するためだった。
今日は——自分の理論を、自分の名前で、自分の声で伝えるために。
理論の説明を終えたとき、広間に拍手が起きた。
大きくはない。
でも、確かな拍手だった。
壇上から見下ろすと、トーマが眼鏡を外して泣いている。
エルザは無表情だったが、拍手をしていた。
セレンは——腕を組んだまま、壁にもたれて立っていた。拍手はしていない。
でも、その目が、笑っていた。
発表会の後。
中庭を歩いていると、一人の女性が歩み寄ってきた。
マルグリットだった。
以前の華やかさは少し控えめになっていた。
赤毛の巻き髪は同じだが、表情が違う。
目の奥に——自分で考え、自分で決めた人の光があった。
「……あなたに、謝らなければいけないと思って」
「謝る必要はありません」
「いいえ、ある。私は——ヴィクトルが正しいと信じたかっただけ。真実を見ようとしなかった。あなたに嫌味を言ったのも、あなたに嫉妬していたのも……認めなければいけないと思ったの」
マルグリットの声が、震えていた。
でも、目は逸らさなかった。
「ヴィクトルは……公爵家を離れることになったわ。研究員の資格もない。でも——」
言い淀んだ。
「私は、彼のそばにいることに決めた。嘘のない関係を、一から始めてみようと思う」
予想していなかった。
マルグリットが、この選択をするとは。
「それは——あなたが自分で決めたことですか?」
「ええ。初めて、自分で」
マルグリットの目には、もう嫉妬の色はなかった。
代わりにあったのは、覚悟だった。
「……応援しています」
「ありがとう。あなたの研究、これからも頑張って」
マルグリットが去った後、中庭のベンチに座った。
白い花が、風に揺れている。
掌を見た。
魔法陣の紋様は、まだそこにあった。
でも、もう光らない。
役目を終えたのだと、直感的に分かった。
百年前のマリア・アルヴェスの祈りは、届いた。
正しい名前で、世に出た。
紋様は消えないけれど、光る必要はもうない。
これは——傷ではなく、証だ。
「ここにいたか」
振り返ると、セレンが立っていた。
「発表、良かったぞ」
「そう言っていただけると嬉しいです」
セレンがベンチの横に立った。
座らない。ただ、隣に。
風が吹いて、白い花びらが舞った。
「セレンさん」
名前で呼んだのは、二度目だった。
「何だ」
「……共同研究、よろしくお願いします」
「ああ」
短い返事。
でも、黒い手袋をしていない手が——私の隣に、ほんの少しだけ近づいた。
指先は、触れていない。
でも、温度は感じた。
中庭の白い花が、朝の光の中で揺れていた。
あの灰色の朝から、ここまで来た。
奪われたものを取り返し、新しいものを手に入れた。
研究も、名前も、そして——。
隣を見ると、セレンが空を見上げていた。
銀髪が、朝日に透けている。
(この人の隣で、研究を続けていくのだな)
嘘のない朝は——こんなにも、静かで、温かい。
掌に残った紋様を、そっと撫でた。
ありがとう、と心の中で呟いた。
百年前の彼女に。
そして、ここまで歩いてきた、自分自身に。
風が、白い花びらを空へ運んでいった。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
もし、少しでも「続きが気になる!」「面白い!」と思っていただけましたら、
ブックマークや★評価などの形で応援をいただけますと、
大変励みになります!!




