眠りの淵
第一章 睡魔との闘い
──眠い。
まるでこの世の睡魔を一手に引き受けたような感覚に私はあっさり降伏した。
デスクに突っ伏した瞬間、意識は暗闇の底へと沈んでいく。抗う気力もない。ただ、この甘美な闇に身を委ねていたい。遠くで電話のベルが鳴っている。誰かの話し声が聞こえる。でも、それらはすべて水の中から聞こえてくるように遠く、曖昧で──。
「……もとさん!山本さん!」
経理の宮田さんの声に私は飛び起きた。
顔を上げると、宮田さんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。五十代半ばの彼女の目には、叱責よりも同情の色が浮かんでいる。
「昼休みもうすぐ終わりますよ」
「……あ、そうですね……。ありがとうございます」
時計を見ると、あと五分で午後の業務が始まる時間だった。デスクの上には、食べかけのコンビニサンドイッチが哀れな姿で放置されている。お昼休みに入ってすぐ、三口ほど食べたところで眠気に襲われたのだ。結局、三十分以上も寝てしまっていた。
それでも私の睡魔は去ってはくれない。頭の中には霧がかかったようで、思考が鈍く重い。眠い頭を無理矢理叩き起こすべく、ブラックコーヒーを淹れた。
給湯室へ向かう足取りも覚束ない。壁に手をつきながら歩く自分が情けなくて、誰にも見られていないことを確認してから、深いため息をついた。
インスタントコーヒーの粉を普段の倍の量カップに入れる。砂糖もミルクも入れない。苦ければ苦いほどいい。目が覚めてくれさえすれば。
熱いコーヒーを一口含むと、舌が痺れるような苦味が口いっぱいに広がった。それでも、目の奥に重くのしかかる眠気は微動だにしない。
ああ、今すぐ帰ってベッドにダイブして寝てしまいたい。
そんな妄想をしたら、さらに眠さが増したような気がした。ふかふかの羽毛布団。遮光カーテンで閉ざされた薄暗い部屋。静寂。そして、何の心配もなく眠り続けられる時間──。
頭を振って妄想を追い払う。今は午後一時。定時までまだ六時間もある。残業があれば、さらに長い。考えただけで絶望的な気分になった。
デスクに戻ると、隣の席の佐々木さんが心配そうに声をかけてきた。
「山本さん、大丈夫? 最近、すごく疲れてるみたいだけど」
「あ、はい……大丈夫です。ちょっと寝不足で」
嘘だった。昨夜は十時間も寝ている。その前の日も九時間。むしろ寝すぎなくらいなのに、それでも眠いのだ。
最近、すこぶる眠い。いつでもどこでも眠気が襲ってくる。
朝の満員電車で立っているときも、会議中も、トイレの個室でも、エレベーターの中でも。場所を選ばず、容赦なく、突然。まるで誰かに後ろから殴られるように、不意に意識が途切れる。
先週は駅のホームで立ったまま寝てしまい、危うく線路に落ちそうになった。通りかかった人に肩を掴まれて目が覚めたときの恐怖は、今も忘れられない。
第二章 診断
週末、友人の亜美とカフェで会ったときのことだった。
私が三度目のあくびをしたとき、亜美は呆れたように言った。
「ねえ、ナルコレプシーじゃない?」
「なるこ……何?」
聞き慣れない言葉に、私は眉をひそめた。
「ナルコレプシー。過眠症の一種よ。私の従兄弟がそうなの。いつも眠そうにしてて、話してる最中でも突然寝ちゃうの」
それは私の辞書にはない言葉だったので、手に持ったスマホで早速調べてみた。
『日中の耐え難い眠気と突然の居眠り(睡眠発作)を特徴とする、約1,000人に1人が発症する慢性的な睡眠障害です』
画面に表示された文字を読みながら、背筋に冷たいものが走った。
まさに。まさに私だ。
「他にもね」と亜美は続けた。「情動脱力発作っていうのもあるらしいの。笑ったり怒ったりすると、急に力が抜けちゃうんだって」
言われてみれば、最近、笑ったときに膝がガクンとなることが何度かあった。あれも症状の一つなのだろうか。
「どうしよう。病院に行くべきなのかな」
声に出して言ってみると、現実味を帯びてくる。
「でも、『眠い』というだけで?」
病院で何て言えばいいのだろう。「眠いんです」なんて言ったら、「もっとちゃんと寝てください」で終わってしまうのではないか。
「しかも何科に行けばいいんだろ」
「睡眠外来とか、神経内科じゃない?ネットで調べてみたら?」
亜美の言葉に頷きながらも、私の中では不安が渦巻いていた。もし本当にナルコレプシーだったら?治るのだろうか。仕事は続けられるのだろうか。
迷っているうちにまた寝てしまっていたらしい。
気づいたら亜美に肩を揺すられていた。
「ほら、また寝てる!美枝、絶対病院行きなさいよ。これ、絶対普通じゃないから」
亜美の真剣な表情を見て、私もようやく事の重大さを実感した。
第三章 限界
月曜日の朝、最悪の事態が起きた。
午前中の部長会議で、企画書のプレゼンテーションを任されていた私は、説明の途中で──寝てしまったのだ。
気づいたときには、会議室が静まり返っていた。全員が私を見ていた。部長の顔は真っ赤で、今にも爆発しそうだった。
「山本君。君は一体何を考えているんだ」
低く抑えた声が、かえって怒りの深さを物語っていた。
「申し訳ございません」
それしか言えなかった。言い訳のしようもない。
会議が終わると、係長に呼び出された。
「山本さん、最近どうしたんですか。遅刻も増えているし、ミスも多い。そして今日の会議。あれはあまりにも……」
こっぴどく怒られてしまった。
係長の言うことはもっともだった。最近こういうことばかりだ。先週は重要な取引先への提出書類に誤字を見つけられなかった。一昨日は午後の打ち合わせの時間を完全に忘れていた。
ツイていない。
いや、違う。ツイていないのではなく、私が壊れているのだ。
その日の帰り、電車に乗った私は、またしても眠ってしまった。
目が覚めたのは、終点のアナウンスが流れたときだった。降りる駅をとうに通り越してしまっていた。見知らぬ駅のホームに降り立ち、反対方向の電車を待ちながら、私は涙が溢れそうになるのを必死でこらえた。
第四章 決意
迷った末に私は病院に行くことにした。
ネットで調べると、自宅から電車で三十分ほどのところに、睡眠障害専門のクリニックがあった。予約は二週間待ちだったが、キャンセル待ちに登録すると、幸運なことに三日後に枠が空いた。
クリニックは駅から徒歩五分の静かな住宅街にあった。白い壁の清潔な建物で、入り口には小さな看板が掲げられている。「城南睡眠クリニック」。
受付を済ませて待合室で座っていると、不思議と緊張してきた。ここで何か重大な病気だと告げられたらどうしよう。仕事はどうなるのだろう。でも同時に、ようやく答えが見つかるかもしれないという期待もあった。
「山本さん、どうぞ」
看護師に呼ばれて診察室に入ると、四十代半ばくらいの穏やかな表情の男性医師が迎えてくれた。名札には「院長 田中誠一」とある。
「初めまして。どのような症状でお困りですか?」
私は、ここ数ヶ月の出来事を話し始めた。
どれだけ寝ても眠いこと。突然意識が途切れること。仕事中に何度も寝てしまうこと。駅を乗り過ごしたこと。会議で寝てしまったこと。
話しているうちに、自分がどれほど追い詰められていたかを実感した。
田中医師は、私の話を遮ることなく、丁寧に聞いてくれた。そして、いくつか質問をした。
「夜、寝つきはどうですか?」
「すぐ眠れます。むしろ、横になった瞬間に意識がなくなる感じです」
「夢はよく見ますか?」
「はい。毎晩のように見ます。すごくリアルな夢で、起きたときに現実と区別がつかなくなることもあります」
「笑ったり、驚いたりしたときに、力が抜ける感じはありますか?」
「あります! 最近、よく膝がガクッとなるんです」
医師は頷きながらメモを取っていた。
「山本さん、詳しい検査が必要ですが、症状からするとナルコレプシーの可能性が高いと思います」
やはり。亜美の言った通りだった。
「次回、終夜睡眠ポリグラフ検査と、反復睡眠潜時検査というものを受けていただきます。一泊二日の入院検査になりますが、可能ですか?」
「はい、仕事の調整をして、必ず受けます」
診察室を出るとき、不思議と心が軽くなっていた。
ようやく、この終わりのない眠気に名前がつくかもしれない。そして、治療法があるかもしれない。
帰りの電車の中、私は久しぶりに眠気を感じなかった。いや、眠気はあったのかもしれないが、それよりも強い希望が、私の心を占めていた。
窓の外を流れる夕暮れの街並みを眺めながら、私は思った。
これは、長い眠りから目覚めるための、最初の一歩なのかもしれない──。
第五章 検査入院
検査入院の日は、奇妙なほど晴れ渡った秋の日だった。
小さなボストンバッグを抱えて病院の玄関をくぐると、受付の女性が笑顔で迎えてくれた。入院というには設備が簡素で、むしろホテルのような雰囲気だった。
案内された個室には、ベッドと小さなテーブル、そして──私の睡眠を一晩中監視するための、おびただしい数の機械が並んでいた。
「では、これから電極を装着していきますね」
検査技師の若い女性が、てきぱきと私の頭や顔、胸にセンサーを貼り付けていく。頭皮に冷たいジェルを塗られ、細いワイヤーが何本も取り付けられていく様子は、まるでSF映画の実験シーンのようだった。
「動きづらいかもしれませんが、できるだけいつも通りに寝てくださいね」
いつも通り──。それは簡単だった。私にとって「眠る」ことほど簡単なことはないのだから。
消灯時刻の午後十時。
部屋の明かりが落とされると、私はいつものように、あっという間に意識を失った。
翌朝、目が覚めたのは午前七時だった。頭に張り巡らされたセンサーの違和感はあったが、不思議とよく眠れた気がした。
「おはようございます。今日はこれから反復睡眠潜時検査を行います」
看護師の説明によると、この検査は二時間おきに五回、二十分ずつ寝る機会を与えられ、どれだけ早く眠りに落ちるかを測定するものだという。
「普通の人は眠れないか、眠れても十分以上かかります。でも山本さんの場合は……」
看護師の言葉を遮るように、私は一回目の検査で三分以内に眠りに落ちた。
二回目も、三回目も、四回目も。
毎回、ベッドに横になった瞬間、暗闇が私を飲み込んだ。
五回目の検査が終わったとき、検査技師は苦笑いを浮かべていた。
「ここまで見事に眠れる人も珍しいですよ」
それが褒め言葉なのか、同情なのか、私には判断がつかなかった。
第六章 診断の日
検査結果が出るまで一週間。
その間、私は会社で苦痛の日々を送っていた。係長から「病院に行ったなら、少しは改善してもらわないと」というプレッシャーをかけられ、同僚たちの視線も以前より厳しくなった気がした。
佐々木さんだけは相変わらず優しかったが、それがかえって申し訳なく感じられた。
「山本さん、検査の結果、何か分かるといいですね」
彼女の言葉に、私は曖昧に笑うことしかできなかった。
そして、運命の診察日。
田中医師は、私の検査結果をゆっくりと説明し始めた。
「山本さん、検査の結果、やはりナルコレプシーと診断されます。それも、かなり典型的な症状ですね」
モニターに映し出されたグラフを指しながら、医師は続けた。
「通常、人は眠りに入ってから九十分ほどでレム睡眠に入ります。でも山本さんの場合、眠りに落ちてすぐ、数分以内にレム睡眠に入っている。これが、あなたの眠気の正体です」
「レム睡眠……」
「はい。本来、浅い眠りから深い眠りへと段階的に進むべきなのに、あなたの脳は順序を飛ばして、いきなりレム睡眠に突入してしまう。だから、いつも夢を見るし、体は休めても脳が十分に休息できていないんです」
医師の説明を聞きながら、私は不思議な感覚に襲われた。
ようやく、この説明のつかない眠気に理由があることが分かった。それは安堵でもあり、同時に、この症状が「病気」だという現実を突きつけられた瞬間でもあった。
「治療法は……ありますか?」
私の問いに、田中医師は穏やかに頷いた。
「完治は難しいですが、コントロールすることは可能です。薬物療法と生活習慣の改善で、多くの患者さんが普通の生活を送れるようになっています」
医師は処方箋を書きながら説明を続けた。
「まず、モダフィニルという覚醒を促す薬を処方します。それから、規則正しい睡眠スケジュールを守ること。毎日同じ時間に寝て、同じ時間に起きる。昼寝も効果的ですが、二十分以内に抑えてください」
「会社で昼寝……できるでしょうか」
「それは会社と相談する必要がありますね。ナルコレプシーは、難病情報センターにも登録されている正式な病気です。必要であれば診断書を書きますし、職場での配慮をお願いすることもできます」
診察室を出るとき、私の手には診断書と処方箋、そして「ナルコレプシー患者のための生活ガイド」という小冊子が握られていた。
第七章 カミングアウト
会社に病気のことを伝えるべきか、私は何日も悩んだ。
「ナルコレプシー」という聞き慣れない病名を言ったところで、理解してもらえるだろうか。「ただの怠け者」と思われるのではないか。
でも、このまま隠し続けることもできない。薬を飲み始めて一週間、確かに眠気は軽減されていたが、完全になくなったわけではなかった。
意を決して、私は人事部の山田課長に面談を申し込んだ。
個室に通され、向かい合って座る。山田課長は五十代の落ち着いた女性で、普段から従業員の相談に親身になってくれると評判だった。
「実は……」
私は診断書を差し出しながら、これまでの経緯を説明した。
最初の異変に気づいたこと。病院で検査を受けたこと。ナルコレプシーと診断されたこと。治療を始めていること。
山田課長は、私の話を最後まで黙って聞いてくれた。そして、診断書に目を通すと、深くため息をついた。
「山本さん、よく話してくれましたね。実は人事部でも、あなたの最近の様子を心配していたんです」
「申し訳ございません。ご迷惑をおかけして……」
「いいえ、謝ることはありません。病気なんですから」
山田課長は優しく微笑んだ。
「ナルコレプシーについて、正直、私も詳しくは知りませんでした。でも、これは対処すべき障害です。会社として、できる限りのサポートをします」
その言葉に、私の目に涙が滲んだ。
「ありがとうございます」
「まず、産業医と相談して、業務内容の調整を検討しましょう。それから、昼休みに短い仮眠時間を取れるよう、休憩室の利用について配慮します」
山田課長は手帳にメモを取りながら続けた。
「それと、直属の上司や、一緒に仕事をするチームメンバーには、あなたの了承を得た上で、状況を説明させてください。理解があれば、周りも協力しやすくなります」
「はい……お願いします」
面談を終えて部署に戻ると、係長に呼ばれた。すでに人事から連絡が入っていたようだ。
「山本さん、病気だったんですね。知らなくて、厳しいことを言ってしまって申し訳ありませんでした」
係長の謝罪に、私は首を横に振った。
「いえ、私こそ、もっと早く相談すべきでした」
「これからは無理せず、体調を最優先に。業務の調整は私が考えますから」
その夜、私は久しぶりに亜美に電話をした。
「診断、確定したの」
「やっぱりナルコレプシーだったんだ」
「うん。でもね、会社の人たちが思ってたより優しくて……泣きそうになっちゃった」
「よかったじゃない。ちゃんと向き合えて」
電話を切った後、私は窓の外を見た。
夜空には、いくつもの星が瞬いていた。
まだ完全に問題が解決したわけではない。これからも眠気との闘いは続くだろう。でも、少なくとも今は、一人じゃないという実感があった。
第八章 新しい日常
それから三ヶ月が過ぎた。
薬の効果と生活習慣の改善、そして職場の理解によって、私の生活は少しずつ変わっていった。
毎朝七時に起床し、薬を飲む。朝食はしっかり取る。通勤電車では座席に座らず、立ったまま本を読む──これは田中医師のアドバイスだった。座ると眠ってしまうから。
午前中の仕事は、以前より集中できるようになった。薬が効いている時間帯だ。
そして、昼休み。
私は会社の休憩室で、二十分間の仮眠を取る。最初は周りの目が気になったが、今では「山本さんの昼寝タイム」として、みんなが自然に受け入れてくれている。
タイマーをセットし、アイマスクをつけ、短い眠りに落ちる。
二十分後、アラームで目覚めると、午後の仕事に向かうエネルギーが回復している。この短い仮眠が、午後の眠気発作を防いでくれるのだ。
「山本さん、この企画書、すごくいいですね」
ある日、佐々木さんが私の資料を見て感心してくれた。
「ありがとうございます。最近、調子がいいんです」
それは嘘ではなかった。確かに、以前のように突然意識を失うことは減っていた。完全になくなったわけではないが、コントロールできている実感があった。
夕方、定時で退社する。
残業をしないこと──これも治療の一環だった。疲労が蓄積すると、翌日の眠気が強くなる。規則正しい生活リズムを保つことが、何より大切なのだ。
帰宅後は、夕食を食べ、軽い運動をし、午後十時には就寝する。
単調な生活かもしれない。でも、この規則正しさが、私には必要だった。
終章 眠りと目覚めの間で
三月の初め、会社で新人歓迎会があった。
私は久しぶりに参加することにした。以前は、夜の飲み会など考えられなかった。居酒屋の座敷で、確実に眠ってしまうから。
でも今は、自分の状態をコントロールできる自信があった。
「山本先輩、お久しぶりです!」
新入社員の一人、小林君が嬉しそうに声をかけてきた。
「元気そうですね、小林君」
「はい! でも、先輩も元気そうで何よりです。一時期、すごく心配してたんですよ」
彼の言葉に、私は苦笑した。
「ああ、あの頃ね。心配かけてごめん」
宴会が始まり、料理が運ばれてくる。私はアルコールを控え、ウーロン茶を飲んだ。アルコールは睡眠の質を下げる。それも、田中医師から教わったことだ。
隣に座った佐々木さんが、小声で尋ねてきた。
「山本さん、最近本当に調子よさそうですね」
「ええ、おかげさまで。まだ完全に普通の人と同じとはいかないけど、うまく付き合えるようになってきました」
「病気とうまく付き合う、か。素敵な考え方ですね」
佐々木さんの言葉に、私は少し考え込んだ。
病気とうまく付き合う──。
そう、私はナルコレプシーを「治す」ことはできないかもしれない。でも、この病気と共に生きていくことはできる。
眠気が来ることを恐れるのではなく、それを予測し、対処する。
必要なときは休み、助けを求める。
自分の限界を知り、受け入れる。
それは、病気になる前の私には決してできなかったことだった。
宴会が終わり、店を出ると、春の夜風が心地よかった。
駅までの道を歩きながら、私は空を見上げた。
都会の空に星は少ないけれど、それでもいくつかの明るい星が瞬いている。
──眠い、という感覚は、今も私の中にある。
おそらく、この感覚は一生消えることはないだろう。
でも、それでいい。
眠りと目覚めの間で、私は自分の生き方を見つけたのだから。
「山本さーん、タクシー乗ります?」
後ろから亜美の声がした。そう、今日は偶然、同じ会社に転職してきた彼女も参加していたのだ。
「ううん、電車で帰る。もう、乗り過ごさないから」
「本当に?」
「本当」
私は笑って答えた。
そして二人で、夜の街を抜けて、駅へと向かった。
明日もまた、いつも通りの一日が始まる。
薬を飲み、規則正しく過ごし、ときどき眠気と闘い、ときどき休む。
それが私の、新しい日常だ。
完璧ではないけれど、確かに、私は生きている。
眠りの淵から、少しずつ、光の方へと歩いている。
そう信じながら。
──完──




