第20話
激しい雨の音と、少しの肌寒さでエマは目が覚めた。
鼻を突く湿気のにおいにエマは顔をしかめる。どうやら数日ぶりの大雨のようだ。
乾燥させた薬草は湿気に弱い。常に対策をしているとはいえ、品質を見ておかなければと思いながらも、エマはベッドからなかなか起き上がれずに天井を眺めていた。
ルカの腕を治す薬の研究は難航していた。そのせいで寝不足が酷く、天気も相まって頭痛がする。肌寒さの助けもあり、ベッドから出るのが酷く億劫だった。
ふと、朝食の匂いがしないことにエマは気づく。最近はエマより先に起きたルカが、朝食を作って起こしに来てくれていた。
ルカの方に顔を向けると、ルカはベッドの上で右腕の切断面を押さえていた。
「ルカ……?」
寝起きで声が出ず、つぶやくようにルカを呼ぶと、ルカは一瞬驚いたようにびくりとした。
ルカは押さえていた手を放し、エマの方に顔を向ける。眼鏡がないのではっきりとはわからないが、いつも通りの笑顔に見えた。
「おはよう。すまない、今起きたところでまだ朝食が……」
「腕、痛むの?」
エマの問いに、ルカはふっと笑っただけだった。
「大丈夫だ。すぐ朝食にする。少し待っていてくれ」
そう言って、ルカはベッドから降りて部屋を後にした。
エマは気怠い体を無理やり起こし、ベッド横のテーブルから眼鏡を手に取って掛けた。外を見ると、桶をひっくり返したように強い雨が降っている。
ベッドから降り、先ほどまでルカがいたベッドを見る。血痕は見当たらず、おそらく傷が開いたりはしていない。
雨の日に傷が痛むというのはよくあることだ。決して珍しいことではない。隠すことでもないとエマは思うが、ルカなりに理由があるのかもしれない。
しかし体の不調を癒すことこそエマの仕事である。朝食の後に念のため痛み止めを調合しようと、エマは一階に下りた。
朝食の時、ルカは痛みを抱えているような表情も仕草も見せなかった。エマが心配する程の痛みではないのか、そもそも朝腕を押さえていたのはエマの見間違いだったのか。朝の寝ぼけた頭で、しかも眼鏡を掛けていなかったから、見間違いの可能性はあるとエマは思った。
それでも念のため痛み止めは調合しておこうと、朝食を終えたエマは薬棚に向かった。
そのとき、台所からガラガラと食器が落ちる音が鳴り響いた。
エマが台所に向かうと、朝食に使った木製の皿がばらばらと床に散らばっている。ルカは食器を置く棚板の前で、右腕を押さえて立っていた。
ルカは驚いたようにエマの方を見た。金色の瞳は、焦っているようにゆらゆらと揺れている。
「エマ、すまない。今拾うから……」
ルカが話し終わるのを待たず、エマは落ちた食器を避けながらルカに近づいていく。ルカはエマの行動に驚いたのか、目を見開いて少し後ずさった。
ルカが後ろに下がるより早く、エマはルカの目の前まで来た。近くでよく観察すると、ルカの首筋からは汗が幾筋も伝っている。
どう見ても、大丈夫な状態ではなかった。
(やっぱり、眼鏡変えなきゃね……)
ルカの体調の変化に気づけなかったことを悔しく思いながらも、エマは冷静だった。
エマは散らばる食器を拾い、作業台の上に雑に乗せた。まだ動揺しているルカの腕を引き、診療用のベッドに座らせる。
念のため右腕の切り口を見るが、特に傷口は開いていない。やはり雨の影響で痛んだのだろう。
「痛み止め作るから、ちょっと待ってて」
エマは薬棚から幾つかの干した薬草を取り出し、乳鉢に入れて粉末状になるまで砕いた。いつでも使えるように粉末を切らさないようにしておけば良かったと、エマは少し後悔する。
台所に戻って湯を沸かし、先ほど作った粉末を溶かした。飲みやすいよう蜂蜜を垂らし、ルカの元に持っていく。
エマが出来上がった薬をルカに手渡す。ルカは観念したように無言で受け取った。器を落としてしまわないよう、エマはルカの手に己の手を添えて、ルカが薬を飲み干すのを見届けた。
「薬が効くまで休んでて。傷口は開いてないし、雨で痛んだだけだと思うから……」
「エマ」
ルカがエマの言葉を遮るように口を開いた。エマは口をつぐみ、言葉の続きを待つ。
「……痛いんだ。もう、ないはずの腕が」
そう言ってルカが掴んだのは、腕の傷口ではなく、肉の通っていない袖の部分だった。
エマはルカの前にしゃがみ、顔を覗き込む。揺れる金色の瞳は、泣きそうにも見えた。
ルカは苦しそうに顔を歪めた。
「切り落とされたはずの腕が、指の先が、脈打っているように感じるんだ。なのに触れようとしても、そこには虚空しかない。……おかしいだろう。そんなこと、あるはずがないのに」
エマはゆっくりと首を横に振った。
「おかしくないよ。とてもよくある自然なこと。村にも冒険中に体の一部を失った人がいるけど、その人も、時々失ったはずのところが痛むって言ってた。誰にでも起こりうる、普通のことよ」
エマは極力穏やかに、安心させるように言った。
ルカが痛みを隠そうとしたのは、信じてもらえないと思ったからなのか、それとも自分で信じられなかったのか。事実はわからないが、きっと不安だったのだろうとエマは思った。
ルカの瞳が徐々に潤んでいく。ルカは顔を見られたくないかのように、エマの肩に顔をうずめた。
エマはルカの体を抱きとめ、子供をあやすように背中をさする。
「……痛いよね。辛いよね。ごめんね、痛みを取ってあげられなくて。あたしの薬じゃ、誤魔化すことしかできない」
ルカはエマの肩に顔をうずめたまま、小さく首を横に振った。
「……エマ」
「ん?」
「いたい」
「……うん」
「痛いと泣いても、エマは怒らないか?」
「なんで怒るの?痛かったら誰でも泣くでしょ」
ルカはそれ以上何も言わなかった。代わりに、エマの肩に濡れる感触が広がっていく。
痛いと泣いたら怒られるような環境で育ったのだろうか。ルカの複雑な出生を思えば、そういうこともあるかもしれない。
ルカの痛みを原因から取り除けないことが、エマは悔しかった。
しかし不謹慎なことだが、エマは少し嬉しさも感じていた。
ルカはこれまで、自分から「痛い」と口にしたことはなかった。エマを頼ろうとしたこともなかった。あるとしたら、髪を切ったときくらいだろうか。
それが今、素直に「痛い」と言い、エマに縋っている。
少しは心を開いてもらえたようで、エマは心が温かくなるのを感じた。




