第32話
先輩が浮気のことを知っている?
どうして浮気のことを知っていて、浮気するやつとまだ付き合っているんだ。
先輩、どうして……
「いつから知ってたんですか……」
「蓮と付き合って一ヶ月経ったころかな……なんか怪しかったからスマホ見たら浮気してた。真絃こそ、よく知ってるね。浮気のこと」
先輩が床を見下すように見ている。
「僕はたまたま浮気しているのを見かけたんです。先輩の彼氏が最低なことしているのを知って、先輩のことが心配で……今日先輩を傷つける覚悟で話したんですけど、すでに知っていた……どうして付き合ってるんですか? 何で浮気するようなやつと付き合えるんですか!」
つい強い口調になってしまった。
先輩は表情を変えない。
「だって、誰と付き合ったって一緒でしょ? みんな当たり前のように浮気や不倫をするんだよ? ……知ってた? 私の母親も不倫してたの。しかも、母親のほうが先に不倫してたらしい。ダブル不倫なんて笑っちゃったよ。私の家族は最初から壊れてた。あの時の私バカだったなぁ。家族を取り戻すために色々頑張っちゃって、無駄な時間だった。あーあ、世の中浮気や不倫が当たり前なんだよね。だから私は誰でもいいの、どうでもいいの」
知らなかった。まさか先輩のお母さんまで不倫をしていたなんて。あの頃の先輩がどんな気持ちだったのか考えただけで胸が痛い。先輩の心はまだ癒えてなかったんだ。ずっと苦しんでいるんだ。
「先輩……どうでもいいって言ってるのに、何で泣いてるんですか?」
先輩の目から涙がとめどなく流れていた。涙を流して、苦しそうに笑いながら僕を見た。先輩の瞳を見ると、色がないように見えた。何もかも希望を捨てたような目をしていた。
「泣いてないよ」
「泣いてるじゃないですか! どうでもいいとか強がって、どうでもよくないから泣いてるんでしょ!」
「どうでもいいの! ……何で真絃も泣いてるの?」
自分の目の下に触れると濡れていた。目から涙が次々に出る。涙を止めようとしても止まらない。
「泣いてないです」
「泣いてるじゃん……」
「先輩が……苦しかったり悲しかったりすると、僕も苦しいし、悲しいんですよ。先輩には笑って幸せになってほしいんですよ……」
「幸せになってほしいとか言わないでよ。幸せになれないよ。私も浮気してる人のこと悪く言える立場じゃないから」
「……どういうことですか?」
「蓮から何回も告白されて、好きじゃないけど付き合った。付き合ってみたら蓮のことを好きになれるかもって思ったの。でも好きになれなかった。私は……蓮と付き合いながら違う人を想ってた。これ、浮気と一緒でしょ?」
高校の時の僕と一緒だ。付き合いながら凛華先輩のことを想っていた。
先輩の目が赤い。涙を止めてあげたい。
「先輩。僕、高校生の時、付き合ってた人がいたんです。その人と手を繋ぎながら僕も別の人を想っていたんです。僕もこれは浮気だ、と思った。でも違う。心の中で想ってるだけで、裏切るような行為はしていない。僕達の親や、先輩の彼氏は裏切る行為をしたんです。先輩は裏切る行為をしてない。だから浮気とは違う。違う人を想っているなら彼氏と別れてください。今すぐ別れたら大丈夫。浮気じゃない。正当化してるだけかもしれない。でも浮気じゃないと僕は思ってます」
先輩は僕が貸したタオルで顔を覆って泣いている。
僕は先輩に向かって手を伸ばしたが、その手を止めた。
今は触れるべきではない。
「先輩、もうどうでもいいとか思えないでしょ?」
先輩が大きく頷いた。
僕は話し続ける。
「彼氏と別れて、先輩の想ってる人に気持ちを伝えたらいいんですよ。幸せになってくださいよ」
「無理……」
「何で無理なんですか」
「だって、祝福されない。嫌な思いをする人が必ずいる」
「どういうことですか?」
「それは言えない。ごめん、言えない。それに私は自分も人も信じられない。自分もいつか誰かを裏切る行為をしたらどうしようって思う。それに、人は絶対裏切る。信じられない。信じて裏切られて傷つきたくない」
「まず、先輩は絶対に人を裏切ったりしない」
「何でそんなに言い切れるの?」
「先輩も僕も親の不倫で傷ついてきたんです。辛い思いをしてきたんです。こんな辛い思いを人にさせますか? 先輩も僕も絶対に人を傷つけない。裏切ったりしない。人が信じられないのは……仕方ない。だって僕達は傷ついてきたんだから、信じろって言われたほうが無理なんです。僕達はこの先、一途な愛なんて信じられないと思う。でも、自分のことだけは信じませんか?」
「自分のことだけ?」
「自分は絶対に人を裏切ったりしないし、自分だけは人を一途に愛するって。人のことも、自分のことも裏切らないと信じるんです」
先輩はもう何も答えてくれなかった。ただ泣いていた。僕もずっと泣いていた。別の部屋から聞こえる歌を聞きながら泣いた。
僕が言えることはもうない。あとは先輩がどうするかだ。先輩がどんな選択をしようと僕は受け止める。
僕は徐々に涙の量が減ってきた。先輩はまだ肩を振るわせながら泣いている。先輩の涙の蛇口が壊れてしまったのかもしれない。止めようとして蛇口をひねってもひねっても涙が止まらないんだ。
「もう帰る」と先輩は泣きながら震える声で言った。
会計を済ませて、カラオケ店を出ると、まだ小雨が降っていた。
「送って帰ります」と僕は言った。
でも先輩は、「ごめん。一人になりたい」と言って走っていった。
僕は追いかけず、雨に打たれる先輩の背中を見つめた。先輩の姿が見えなくなって僕も雨の中に飛び込んだ。上を向いて雨を浴びる。泣きすぎて熱を持った瞼が雨で冷やされていく。涙で失った水分が補給されていく気がする。
先輩。どうか苦しまない選択を。幸せになる選択を。
僕は前を向いて歩き出す。




