第16話
いつの間にか、紙を握りしめたまま寝てしまっていた。しわくちゃになった紙を広げ、綺麗に折りたたんでカバンにしまった。
シャワーを浴びずに寝てしまったので、とりあえずシャワーを浴びに行く。
まだ朝の五時で誰も起きていないだろうから、なるべく物音を立てないように移動した。
脱衣所のドアが開いている。中を覗くとお母さんがいた。
「おはよう」とお母さんから言われたが無視をした。
「夜、洗濯回し忘れちゃってね〜」と無視をされてもお母さんは一人で喋り続ける。
早くシャワー浴びたいから出て行ってくれないかな。
「真絃、今日も帰ってくるの遅い?」
うるさい。どうせ先輩と別れたのか気になっているんだろ。
「シャワー浴びるから早く出てくれないかな」
「……分かった。ごめんね」
はぁ、とため息をついて、服を脱ぐ。脱衣所は凍えるほど寒く、浴室に入ってシャワーを出し、お湯になるまで待つ。湯気が上がり出した。頭から一気にシャワーをかけ、徐々に体、足、つま先まで温まっていく。それと同時にさっきまで体を巡っていた黒い感情が流されていくようだ。
僕とお母さんは一生このままの関係なのかもしれない。早く大人になって、この居心地の悪い家から出ていきたい。
学校に行くと湊が、「今日は先輩と喋れる〜」と一日テンションが高めだった。
放課後になり、僕と湊は校門で先輩が来るのを待った。
何人もの生徒が校門に向かってくる中で、僕はすぐに先輩を見つけた。赤いマフラーを巻いて、今日は口元を隠していない。
僕が頭を下げると、先輩が胸の前で小さく手を振っている。
「先輩来た」と僕が言うと、湊が、「どこどこ?」と言う。
「赤いマフラー巻いてるよ」
「ん? あーあれかー!」と湊が大きく手を振り出す。
僕は咄嗟に湊の手を止めた。
「やめろ! 恥ずかしいだろ。先輩恥ずかしがり屋なんだよ」
「あ、そうなんだ。ごめん!」
「お待たせしました」と先輩が険しい表情で言う。
やっぱり先輩は慣れていない人には緊張して怖い顔になるんだ。
「初めまして、真絃の友達の湊です! よろしくお願いします!」
僕は湊に見えないように、自分の口を指差しながら先輩に向かって、「え、が、お」と声を出さずに口を動かした。
「凛華です。よろしくね」と言って先輩が笑った。
いつも僕に向けてくれる笑顔を、僕以外に向けている。また心臓に棘が刺さったみたいな違和感がある。
「じゃあ、帰りましょうか!」と湊が言う。
三人で歩き出し、駅に向かう。
僕の横に湊、湊の横に先輩という並びで歩く。先輩、駅まで頑張れ。
「先輩、せっかくなんで、何か食べに行きません? なぁ、真絃!」
「はっ?! 帰るだけって言っただろ!」
「私は別にいいけど……」
「先輩がいいって言ってるぞ!」
湊が目を輝かせている。
「分かったよ。どこ行く?」
「俺ハンバーガー食べたい」
「ダメ」
先輩が豪快にハンバーガーを食べる可愛い姿を湊には見せたくない。
「私はハンバーガーでいいよ?」と先輩が首を傾げながら僕を見る。
先輩がいいよ、と言ってもダメだ。ハンバーガーだけじゃない。食べる姿を見せたくない。
「いや、食べるのはダメ」
「え〜何でだよ〜」と湊が言う。
「とにかくダメ。カフェでコーヒーでも飲みに行こう」
湊は不満そうな顔をして、先輩は不思議そうな顔で僕を見ている。
「そういえば私、お腹空いてないからカフェラテだけでいいかな」
「そうなんですね! じゃあカフェラテ飲みに行きましょう」
先輩がお腹空いてなくて良かった。僕のわがままだけれど、先輩のあの姿は僕だけが知っていればいい。
カフェに行くまで、湊が案の定、先輩に小説のことを訊いていた。
先輩は昨日読んでいた小説が好きとか、書いている小説の内容はまだ秘密とか、上手く受け答えをしていた。
男子と話しているのは初めて見たので新鮮だった。先輩が楽しそうに話しているのを見て嬉しいはずなのに、嫌だった。
心臓の棘がどんどん増えていっているような気がした。
カフェについて席に座り、湊と先輩を二人きりにさせたくなかったが、どうしてもトイレに行きたくて僕は席を立った。
湊に、先輩に変なことするなよ、変なこと聞くなよ、と伝えたが心配だ。
急いで席へ戻って、「何話してたの?」と聞くと、湊と先輩が、「秘密〜」と言って笑っていた。
席について、メニューを見ながら何にするか迷っていると、「俺、テイクアウト頼んで帰るから、お二人でごゆっくり〜」と湊が言って帰っていった。
「アイツなんだったんだ……。先輩振り回してごめんなさい」
「私は大丈夫だよ。緊張したけど、どうにか喋れたはず」
「うん。完璧でした」
僕達はカフェラテを飲んでお店を出た。
先輩から、「今日はまだ明るいから一人で帰るよ」と言われた。
でも、まだ一緒にいたかった。
「いや、送って帰ります」
僕の言葉に、先輩が困っていそうだった。
電車を降りて、先輩の家に向かっている途中で、「何で今日食べるのダメだったの?」と先輩から訊かれた。
「せ、先輩の食べ方が豪快すぎて湊には見せられないと思ったからです」
「えっ? 人に見せられないくらい私、豪快なの? 私、真絃にそれ見せてたんだ……」
先輩が俯いている。
また変なことを言ってしまった。どう言えばいいんだ。
「すみません。嘘ではないですけど、嘘です。豪快なのは本当です。大きな口を開けて食べる姿が可愛いかったから……。そんな可愛い姿を湊に見せたくなかったんです。僕だけが知っていたかったんです」
今日の僕はどうかしている。気持ちを制御できない。こんなこと言ったら先輩は困るだけなのに。
「……そっか」と言って先輩が黙った。
先輩のほうを見ることができない。先輩が今どんな表情なのか知りたくない。僕はひたすら前を向いて歩いた。
トン、と僕の手に何かがぶつかった。先輩の手だ。
「すみません」
「いや、ごめん」
また軽く手がぶつかった。
「本当すみません」
「ううん……」
今日はよく手がぶつかる。
また手がぶつかった。咄嗟に先輩の手を掴んだ。そして、手を握った。冷たくて小さくて折れそうな手、破けてしまいそうな柔らかい皮膚。僕はできるだけ先輩の手を優しく握った。
今日の僕は本当にどうかしている。
「手をつないだら、手がぶつからないです」と言わなくてもいい言い訳をした。
先輩が、「そうだね」と言って握り返してくれた。僕の心臓が跳ねるようにドクンと鳴った。小さな手で、僕の手を包むように握ってくれた。
僕達はそのまま無言で歩き続けた。時々手が離れないように、お互いに握り直した。
家に着く頃には先輩の手は暖かくなっていた。
「送ってくれてありがとう。……言い忘れてたけど、今週の日曜日空いてる? パパが日曜日は家にいるから彼氏連れてきていいよって言ってたの」
「はい。日曜日大丈夫です」
「良かった」
先輩の手がゆっくりと僕の手から離れていった。手に暖かさだけが残っている。
先輩が自分の赤いマフラーを首からはずしている。
「今日寒いからマフラー貸してあげる」と言って僕にマフラーを渡してくれた。
「でも、先輩が明日の朝寒いですよ?」
「大丈夫。黒色のマフラーもあるから。真絃が黒似合うって言ってくれたから、明日は黒のマフラーで行く」
「そうなんですか。じゃあ借ります」
「うん。じゃあまた明日ね」
先輩が今までで一番優しい目をしていた。




