第9話 花の香る街
⑨
花の街に着いたのはその日の昼前だった。宿を探すにもまだ容易い時間だ。
いつものように通行料を払って門をくぐると、アリア達はまず華やかな香りに包まれた。切れ長の双眸が見開かれ、美しい空色が大きく晒される。その瞳に、色彩豊かな街並みが映る。それらは全て街中に植えられた花々のものだった。
「綺麗……」
「だろう? 良い時期に来られて良かったよ」
この時期に咲く花は多いから、と目を細めるセスは、眼前の光景にも特別驚いている様子はない。聞けば、以前にも来たことがあるらしい。
それに花の名前に詳しいようで、歩きながら問いかけると、淀みなく答えてくれる。家事技術といい、ますます不思議な青年だ。
「この辺りは染料に使われる花ばかりだね。あ、あの花はアリアの目と同じ綺麗な空色の染料になるんだよ」
「そ、そう」
不意打ち気味に褒められると頬が熱い。アリアはセスに他意がないからこそ照れているのだが、それはそれで悔しい気もしてくるのだから難しい。これではまるで、自分がセスに恋をしているようではないかと思ってしまう。
――恋なんて、まだしていないはずなのに……。
少なくとも、アリア自身はそう思っていた。いずれ離れると分かっている相手なのだから、どうせ裏切る相手なのだから、恋なんて、するはずがない。そう思っている。だから自分が、まだ、と心の内で呟いたことに気がつけなかった。
その日の宿を決めた後は買い出しと、一部の薬草の換金だ。手分けをすることにして、アリアは薬草を売りに行く。今はまだ懐に余裕があるから、日持ちのしないようなものだけ売るつもりだった。
――それにしても、セスはよく私の単独行動を許すわね。前科があるのに。
信じているからか、また追いつけると思っているからか。実のところは分からない。ただ、今のところはアリアに逃げ出す気がないのは間違っていない。
もしかしたら、アリアが独りの時間をほしがっていることに気がついているから手分けをしているのかもしれない。それくらいの気は利かせてきそうだと、セスに対しては思えた。
その日の夕方、二人の姿は宿に併設された酒場にあった。小汚い板張りの、大衆向けの酒場。アリアが一人だったころは避けていた類いの店だ。
しかしセスが一緒にいる今は、酒場を避ける原因だった類いの人間は寄ってこない。外見で彼に勝ると思える男など早々いないのだから、当然だ。偶に腕っ節自慢で寄ってくる者がいても、セスに軽く捻られて逃げていく。見かけは細身の優男だが、その実、下位の者でもそこらの傭兵よりずっと強い聖騎士を複数人纏めて相手取れる実力があるのだから、酒場のチンピラ如きが相手になるはずが無かった。
「この街は何か食べ物の名物もあるの?」
「そうだな。花の蜜で煮込んだ肉料理かな。猪型の魔物の肉を使ったものが一般的だね」
「じゃあそれにしましょう。あとは、小皿の料理を適当に」
慣れた様子のセスが注文を済ませるのを眺めていると、ふと疑問が浮かんだ。他愛もない、特別興味があるわけでもない話だが、会話の種には丁度良いだろう。いつもアリアが質問されてばかりであるし、バランスをとる意味でもその疑問をぶつけてみることにした。
「あなたってやたら家事が上手だけど、どこで覚えたの?」
「ああ、俺も母に教わったんだよ。万が一に備えて、ってさ」
「へぇ、万が一……」
上流階級の人間が家事をすることなど、無いに等しい。アリアの母が料理下手だったのもそれが理由である。どうやらセスは、中々に珍しい境遇にいたらしい。
アリアとしては、万が一とはいったいどんな状況を想定していたのか、聞いてみたいとも思う。
ただ、それを聞くとセスの正体にも言及することになりそうであったし、仮に教えて貰えても離れづらくなってしまう気もする。
――セスと呼んでほしい、だったものね。
アリアも本来はもっと長い名前を持っていたし、同じように、セスも本来の名前があって愛称で呼ばせているだけだろう。
そうなると、どの道こんな小汚い大衆酒場で聞く話でもないだろう。
「お、来たね」
運ばれてきたのは、大皿に盛り付ける必要がある大きさの肉塊だ。一度焼いてから花の蜜で煮込んでいるようで、表面には良い塩梅に焦げ目が付いている。どうやらこれをナイフで切り分けなければならないらしい。
「切るのは任せて」
任せっぱなしでは本当に駄目になってしまう。そう思っての提案だ。
ただしナイフは手に取らず、無詠唱で魔術を行使する。
「どうぞ」
「こういう時にも使えて便利だね、無詠唱」
呆れたような感心したような、何とも言えない視線が向けられた。セスも簡単な魔術なら使えるが、完全な詠唱が必要な程度の実力だ。感心したのはそういった部分も理由に含まれているだろう。
そうして切り分けた肉を小皿にとっている間に他の料理も届く。二人とも酒は飲まないつもりだが、セスの食事量の意外な多さが理由で卓上の隙間は殆どなくなっていた。
アリアはまず、お腹の膨れないうちに勧められた肉料理へ手を伸ばす。この店も例によって、猪型の魔物の肉を使っているらしい。
「あら、案外さっぱりしてるのね。美味しい」
「だろう? ちょっと変わった花の蜜を使ってるみたいでさ」
予想したこってりさはなく、肉と蜜の甘み、そして焦げ目の香ばしさが上手くまとまっている。一人で頼むには多いが、もう一度食べたくなる味だ。
「あ、これ、俺駄目な香草だ」
セスは別の料理から食べたようだったが、珍しく顔を顰めている。
「意外ね。苦手な香草があるなんて」
「好き嫌いは殆ど無いんだけどね。いくつかの香草だけは食べられないんだ」
「ふぅん」
少し可愛い、と思った自分に気がついた。
その日はアリアに珍しく、少し食べ過ぎてしまった。お腹の苦しさに悶えながら、独りになった宿の一室で考える。こうした食事はセスといる間しかできないだろうと。
セスのことを信じ切れていないはずなのに、都合の良いものだとアリア自身、思う。
もし、もし彼を心の底から信じられたなら。
――……無理ね。そんなの、幻想よ。
魔女の呼び名はあらゆる絆を断ち切ってしまうもの。魔女を受け入れてくれる人なんて、この帝国にはいない。そう結論づけるに十分な旅だったのだから。
暗く重い諦観の中、アリアは意識を手放した。




