第30話 森に二人
㉚
セスの瞳に、アリアの不安げな空が映り込む。しかし全身を包む熱は優しくて、温かい。心臓のバクバクと鳴る音が耳に煩くて、セスに聞かれてしまわないか心配だ。もう早鐘を打つ原因がなんなのかは、彼女自身、分からない。
「どうしては、こっちのセリフだよ」
彼女を抱き留める力が強くなった。よく見ればアメジストの下にはいつかよりもずっとハッキリした隈ができている。その隈へ無意識のうちに手を伸ばそうとして、彼の腕に阻まれた。
「ねえ、アリア。どうして、逃げたんだい?」
優しくあろうと努めた、悲しげな声だった。
「……だって、私が魔女だって、知られてしまったから」
彼を慰めるように、自分に言い聞かせるように、アリアは告げる。こうなってしまった全ての原因を。
「あなたは、この帝国の第三皇子よ。だから、あなたにその気が無くても、魔女は殺さなければいけない。そういう立場でしょう?」
「それは……」
セスは否定しない。否定できない。嘘を吐いてしまうことになるからだと、アリアは知っていた。
自身を抱き留める腕に、そっと、両手をかける。
「あなたにはそんなこと、させたくなかった。私自身死にたくなかったのもあるけれど、それ以上に、あなたに苦しんでほしくなかった」
思い出すのは、家族との最後の記憶だ。アリアを抱きしめ、愛してると言った母の声は、涙を堪えているときのそれだった。
「……離して、セス。私は、行かなければならないの。あなたが追いかけなくていい、遠くへ。他の国へ」
両手に少し力を込めて、セスの腕を外そうとする。しかし彼はむしろ力を強めて、拒否の意思を示した。
「……お願い、セス」
その気になれば魔術を使って脱出できる。できるが、したくはない。できる限り感情を殺して、もう一度、お願いする。
それでも聞いてくれなくて、アリアも、次の言葉を継げなくなる。世界から一切の音が消えたようだった。
「アリア、君は――」
沈黙を破ったのは、セスだった。ようやく、絞り出したような声だ。
「君はたぶん、勘違いをしてる」
「勘違い……?」
アリアには彼の言っている意味が分からない。セスは自分の立場を否定しなかった。それなら、何を勘違いしているというのか。
両手の力を緩めて彼の顔を伺おうとするが、先程よりもしっかり押さえ付けられているせいで振り向けない。
「いや、たぶん俺の言い方が悪くて、勘違いさせてしまったんだ。前に教えた俺の夢を覚えているかい?」
「……ええ、もちろんよ」
魔女への偏見で苦しむ人のいない町を作る。それがセスの夢だ。忘れるはずがない。アリアも良い夢だと心の底から思っているし、彼がそれを願ってくれていることが何より嬉しかった。しかし、それは魔女と疑われ濡れ衣を着せられた人たちの話のはずだ。本物の魔女は、関係ない。
「俺が助けたい中には、本物の魔女も入っている。当たり前のように魔女がいて、笑って暮らしている場所。そんな町を作りたいんだ」
アリアは一瞬、彼が何を言っているか分からなかった。その言葉の一つ一つを思い出して、反芻する。何度かそうして、ようやく彼の言っている意味が分かった。
「全部、私の早とちりだったってこと……?」
「……うん」
「……っ」
泣きそうな声が漏れた。あれほど思い悩んだのが馬鹿らしくて、セスを信じ切れていなかった自分が許せなくて、同時に、これからも彼と一緒にいられるかもしれないことが嬉しくて。玉虫色の感情の波に襲われて、胸が張り裂けそうになる。涙を我慢したのは、彼女自身も無意味と分かっている意地からだった。
「でも、それでも、皇子のあなたは……」
溢れそうになった嗚咽を飲み込み、僅かばかりに残った理性が発した疑問をぶつける。もう思い込みですれ違いたくなかったから。彼を裏切ってしまいたくなかったから。
「そうだね。でも、そんなことはしない。夢の叶う時が来るまで、一緒に抱え続ける。君の秘密は、俺の秘密だ」
抱きしめられる力がまた強くなったのを感じた。苦しい、けれど嬉しい。離してなるものかと言っているようなたくましい腕を、アリアもずっと掴んでいたい。もう二度と、裏切りたくはない。
顔の僅かに緩むのを自覚する。彼に包まれているのが心地よい。木々と土の湿った匂いに彼の匂いが混ざって、彼女の胸の内を温かいもので満たす。いつの間にか戻ってきた鳥の囀りは自分たちを祝福しているようだ。
「ありがとう」
「……うん」
恥ずかしげに零したアリアの礼を、セスは優しく、何でもないことのように受け止めた。
しばらくそうしていると、もう一つ、疑問が湧いた。
「ねえ、セス。どうして、魔女まで助けようとしてくれているの?」
魔女は災厄を呼ぶ存在。帝国においてそれは、もはや常識のように語られる。魔女と疑われた人の中には、魔女そのものに恨みを持った者もいるだろう。それなのに、彼はどうして魔女を悪しき者と限らないと受け入れられたのか。
返事までは、少し、間があった。
「……母もね、魔女だったんだ」
納得した。それと同時に、彼の母がアリアの母を助けられなかったことをずっと悔いていた理由も察した。本物の魔女である自分が何不自由なくのうのうと王の横で生きているというのに、親友は、魔女でもなんでもないはずのウルハは魔女として石を投げられ追放されてしまった。そんな風に思ってしまったのだとしたら。
――その気持ちは、凄く、分かる……。
遠い昔に数えるほど会っただけのセスの母。彼女を思い、アリアは目を伏せる。その視界でセスの腕振るえているのに気がついた。亡き母親のことを思い出しているのだろうか。あまり心の奥底を見せない彼が、アリアには見えない体勢でとはいえ、泣いている。自分が彼をそこまで追い詰めてしまったのだと気がついて、胸が苦しくなった。




