第25話 独りの町
㉕
不意に聞こえた若い声にアリアは勢いよく振り向いた。そこにいたのは、彼女と同じくらいの歳に見える青年だ。見知らぬ彼は、この帝国では珍しくもない茶色い目に黒い髪で、どちらかと言えば整った顔立ちをしていた。彼も傭兵らしく、隣にはがたいの良い坊主頭の男がいる。二人ともそうとう飲んでいるようで、顔が赤い。
「お姉さん、一人じゃ退屈じゃない? こっちで一緒に飲もうよ」
善意、に見えなくもないが、彼の目の奥にある下心に気付かないアリアではない。隣の男などは初めから隠しきれないそれを顔に浮かべていたし、どう考えてもナンパだ。
せめて隣の男を置いてくれば良いのに、それでも連れてきたのは、青年の自信満々な雰囲気に関係があるのだろう。なるほど、確かにこの青年の顔立ちなら、そうと分かっていても付いていく女性はいるかもしれない。
しかしアリアは元々容姿にさほど興味を抱かない質だ。それに何より、いくらこの青年の顔が整っている方だとは言っても、セスに比べれば雲泥の差。不快にしか思えない。
タイミングも悪かった。セスとの食事を思い出していたときに、多少なりとも柔らかい口調で話しかけてしまったのだ。
「けっこうよ」
その空色の瞳は氷を越え、絶対零度の熱量で青年に向けられる。
「まあまあ、そんなこと言わずにさ。絶対楽しいから」
それでもなお食い下がるのは、それほどまでに自信があるのか、空気が読めないのか。酔っているせいなのかもしれないが、虎の尾を踏み続けていることに気がつけない。
「けっこうと言っているでしょう」
視線を料理に戻し、低くなってしまった声で再度答える。ここまでされたら大抵は諦めるのだが、青年はむしろ表情をむっとさせて、アリアの肩に手をかけた。
「せっかく俺が誘ってやってるんだからよ、いいから来いよ」
彼らにとって幸運だったのは、そこが店の中だったことと、まだそのことを考慮できるだけの分別がアリアにあったことだろう。しかしそれも、不幸中の幸いとしかいえない。
アリアに触れた手がみるみる凍り付いていく。驚愕で声が出ないらしい彼の視線の先で、その氷はどんどん広がって、ついには肩まで到達した。それでもまだ止まらない。首を伝い、脇を伝い、上へ下へと浸食していく。
「お、おい、何しやがった……!」
「襲われそうになったから魔術で反撃しただけよ」
振り返りもせずアリアは答える。白い冷気を放つそれは、彼女の視線と同じくただの氷よりもずっと低い温度だ。恐怖で歪む青年の顔半分を飲み込み、上半身も既に半ばまで氷づけになっている。
「やめろ、やめろよ。まだなんもしてないだろっ……!」
「まだ、ね? あ、触らない方がいいわよ。一緒に氷の像になりたくなければ」
慌てふためく青年は自身の失言に気づけない。彼を助けようとした隣の男は、氷を抑えようとしていた手をさっと引っ込めた。二人とも酔いが醒めてしまったのか、あれほど赤かった顔を青くして振るえている。
「分かった! 分かった、俺が悪かった! 謝るから、助けてくれ! お願いだ……!」
アリアは一瞬だけ、背後へ視線を向ける。本当に後悔しているようで、その場しのぎに言っている風には感じられない。
――ここで止めなかったら私が悪者ね……。
溜め息を一つ吐いて、魔術を解除した。氷にヒビが入って砕け、照明を反射した無数の輝きとなって消える。その下にあった青年の肌は凍傷となっているようで、痛々しい跡が残っていた。顔の半分以上もそれは同様だ。この顔なら、騙される騙されないに拘わらず付いていく女性はいないだろう。
這々の体で逃げていく彼らだが、周囲の客以外騒ぎに気がついた様子はない。
――賑わいすぎも考えものね。
アリアはもう一度溜め息を吐いて、冷たい食事を再開した。
翌朝、身支度を終えたアリアは、所持金をベッドに並べて考える。今の手持ちでも数日旅をする準備に不足はないだろう。余裕があるとまでは言えないが、多少なら不測の事態でも対応できる程度ではある。
もちろん万全を期すなら、今日も傭兵としての依頼を受けるべきなのだが、何しろ仲介料が高い。割りに合わないような仕事がほとんどで、依頼を受けずに狩りや採取に行った方がまだマシだ。
それなら、このまま出発するか、いっそ休息日にしても良いかもしれない。
――次の町までは、二日かからないくらい……。買い出しだけして、あとは休息日にしようかしら。
最近は調子が悪いし、一度しっかり休んだ方が良いだろうという判断だ。タイタンオーガ戦の疲れも抜けきってはいない。
そうと決まれば、もう少し楽な格好で良い。解体用のナイフなどは外してベッドの下に隠し、外へ出る。セスに追いつかれないために移動を優先していたから、買わなければいけないものは少なくない。
――薬類はほとんど置いてきてしまったから、手間の要るものは纏めて買わないと。消毒用のお酒も必要ね。それから、塩と、保存食。
必要なものを指折り数えながら商店の建ち並んでいた辺りへ向かう。仲介所を探して歩き回ったときに何件かは確認してあった。
――あと、香草類ね。こんなものかしら。
少し考えてみるが、他は特に思い浮かばない。仮に不足があっても、今思い浮かべられたものだけで次の町に行くまでの荷物としての必要最低限は揃っているだろう。
軽くて嵩張らないものから買うことにして、通りをいく。帝国のスタンダードな石でできた町は、小さな路地裏でもない限り地面が泥濘んでいることもなくて歩きやすい。小さな町だから人も特別多いわけではなく、快適であった。
その分見える景色は無機質で固く、灰色だ。いや、これほどまでに彩りのないものだっただろうかと、アリアは首を傾げる。前はもっと、多くの色が見えていたように思えるが、気のせいかもしれない。
なんとなくそれが、セスといないからだということには気がついていたが、それを認めるわけにはいかなかった。
アリアが必要なものを全て買い終えたのは、通り沿いの家々から美味しそうな匂いがしはじめたころだった。足下の影はもうしばらく短くなり続ける。予定よりもいくらか早い時間だ。首を捻る彼女だが、セスといたころはもう少し寄り道をしたり、目的以外のものに目移りしたりしていたのを忘れているらしい。
――まあ、とにかく宿に帰りましょう。昼食はそれからでいいでしょう。
抱えた袋の中には、昼食にしようと思って買ったパンが入っている。昼間とはいえ、もうどこかの店に入る気にはならない。よくよく考えると、彼女はセスと旅をするようになるまで大衆食堂や酒場の類いを利用することはなかったのだ。その理由は昨晩と同じようなことが何度もあったからであり、そんなことも失念していた自分に呆れてしまう。
セスとの旅で変わってしまった部分は大きい。それでも、国境を越えるころには元に戻っているだろうと考えていた。その国境にも、あと一つ街を越えれば辿り着く。
「調子が悪いのは、それまでよ」
なんとなしに呟いた言葉は、彼女自身に言い聞かせるようなものだった。




