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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

垂乳根

作者: 鷹 いつか

赤ん坊の体は、もう動かない。

 この胸に抱いたぬくもりは、ほんの数刻前まで確かに生きていたはずなのに、

 今は、ただ冷たく、静かだ。


 血のにおいが、まだ部屋に満ちている。

 わたしの手にも、服にも、あなたの頬にも──


 「命を奪うのは、一瞬でできるけれど……」


 わたしは、あなたの顔を見て言った。


 「命を誕生させるのには、時間がかかるのよ」


 でも、本当はそんな言葉じゃ足りない。

 この体で育てたの。

 痛みに耐えたの。

 夜も眠れず、ひとりで話しかけたの。

 名前を考えて、服を縫って、未来を想像して──

 たくさん、たくさん、この命のことを、愛していたの。


 どうして、どうしてそんなあなたが、この子を……

 どうして……

 あなたが……

 あなただから、こんなにも、苦しい。


 憎みたい。

 あなたを殺してしまいたいほど、恨みたい。

 でも、あなたを見てしまう。

 まだ、この手を伸ばしてしまう。

 まだ、あなたの声を、どこかで待っている。

 どうして……

 どうして、私はまだ、あなたを──


 わたしの心はぐちゃぐちゃだ。

 壊れた食器みたいに、元に戻らない。

 この子の命と、あなたの愛と、わたしの中でどっちが重いのかなんて、

 そんなの、比べたくもないのに。


 ねえ、教えて。

 わたしは、これから、どう生きればいい?

 この腕に、何も抱けなくなってしまったのに。

 それでも、あなたをまだ愛しているなんて、許されるの?

…………いいえ



あなたの声が聞こえる。

 言い訳のような、後悔のような、何かを取り繕うようなその声が、わたしの耳に届いている。

 でももう、届いてこない。

 心には、何も届かない。


 ──この子は、二度と笑わない。

 それがすべてだった。


 かつては、あなたの声に救われた日があった。

 あなたの手を握って、未来を信じた。

 あなたの笑顔を見て、愛を知ったと、思っていた。

 けれど今、あなたの手はこの子の命を奪い、

 あなたの瞳は、それを悔いることさえ曖昧にしている。


 母であるわたしは、もう知ってしまったの。

 「愛している」だけでは、命は守れない。

 「信じていた」だけでは、何も救えない。


 胸の奥にあった妻としての想いが、

 ふわりと、薄い布のように剥がれていくのを感じた。

 それはまるで、夢から覚める瞬間みたいに、静かで、確かだった。


 ねえ、あなたのことを思い出すとき、わたしはもう、

 恋じゃなくて、恐怖を先に思い出す。

 この子の名を呼べなかった日を、

 わたしは一生忘れられない。


 妻でいるために、母を殺すことはできない。

 あなたを愛し続けるために、この子の命をなかったことにするなんて、できない。


 だから……ごめんなさい。


 わたしは母でいる。

 これからもずっと。

 どれだけ胸が裂けても、この腕が空のままでも、

 母であることだけは、失いたくない。


あなたはまだ、何かを言っていた。

 口元を震わせ、視線を彷徨わせ、涙を流して──そんなもの、今さらいらない。


 わたしの中には、もう何も残っていなかった。

 愛も、言葉も、許しも。

 あるのは、空っぽの子宮と、冷たくなったこの子の重さだけ。

 それだけで、十分だった。


 わたしは静かに立ち上がった。

 腕の中の赤ん坊に、最後のキスを落とす。


 「ごめんね。ママは、これしかできない」


 そして、そっと、ふとんに寝かせた。

 ──あなたの手が届かない、いちばん遠い場所に。


 そのとき、あなたが言った。


 「俺は……悪かった。だけど……戻れないんだ。どうか、許してくれ」


 わたしは、その声に、何も答えなかった。

 ただ、引き出しから刃物を取り出していた。

 薄く光る包丁の刃先に、部屋の灯りがうつった。

 その光はまるで、あの子の瞳のように澄んでいて、わたしの胸を刺した。


 あなたは気づいた。けれど、動けなかった。

 わたしは、もう泣いてなどいなかった。


 「あなたはこの子を、世界から消した」

 「だったら私は……あなたを、私の世界から消すだけ」


 あなたの胸に刃が届いたとき、声も悲鳴もなかった。

 ただ、あなたの目が、わたしを見つめていた。

 その目の奥にあったのは──愛だったのか、それとも恐れだったのか。

 もう、わからない。

 知りたくもなかった。


 わたしはゆっくり、あなたの体を床に降ろした。

 最後に抱きしめるふりなどしなかった。

 だって、これは“終わり”なのだから。


 赤ん坊の眠る布のそばに座り、ただただ黙って、時を止めた。


 母であることを選んだわたしに、もう夫というものは要らなかった。

 これは、罰でも復讐でもない。

 ──ただの、けじめだった。


我が子へ


あなたに、会えるのを、ずっと楽しみにしていたの。

 小さな胎動に気づいた日も、心音を初めて聞いた日も──すべてが奇跡だった。

 お腹の中でくるりと回ったとき、わたし、嬉しくて泣いたの。

 あなたが生きている、ちゃんとここにいるって、何よりも確かに思えたから。


 名前も、たくさん考えた。

 どんな声で笑うのかな、どんな寝顔を見せてくれるのかなって、

 朝も夜も、そればかり考えていたの。

 あなたの服を畳んで、小さな帽子に触れて、わたしは、

 その未来をただただ、信じていたのよ。何の疑いもなく。


 だけど──

 あなたは、何も言わずにいなくなってしまった。

 この腕の中で、わたしを見上げることもなく、ただ静かに、眠るように。


 どうしてこんなに静かなの?

 どうして泣かないの?

 どうして、どうして……私がこんなにも呼んでいるのに、

 あなたは答えてくれないの?


 成長していくあなたを、見守りたかった。

 初めて立った日、初めて「ママ」と呼んでくれた日、

 一緒に歩く春の道、一緒に眠る冬の夜──

 全部、全部、なくなってしまった。


 もう、あなたの体重は増えない。

 もう、あなたは笑ってくれない。

 もう、わたしの手で、何もしてあげられない。


 こんなにも愛していたのに。

 こんなにも、あなたのすべてを慈しんでいたのに。


 あなたは、世界でたったひとりの、わたしの子だったのよ。

 世界でいちばん小さくて、いちばん大きな、わたしの命だった。


 ごめんね。

 守れなくて、ごめんね。

 あなたに、世界を見せてあげたかった。

 きれいな花も、やさしい歌も、あなたのために全部、準備してたのに。

 もうどこにも、連れていってあげられない。


 でも──わたしは忘れない。

 あなたが、この胸の中で生きていた日々を。

 あなたがわたしの中で、育ってくれたことを。


 愛してるよ。

 何があっても、どれだけ時が経っても、

 あなたは、わたしの子。


 ずっと、ずっと、

 世界でいちばん大切な、わたしの宝物。


腕の中にいるのは、もう眠ったままの、あの子。

 だけど、わたしの手はまだ、あの子の背をそっと撫でている。

 何も感じない。けれど、やめられなかった。


 唇が震える。

 音にならない声が、ぽつり、ぽつりとこぼれ出す。


 「……ねんね、ねんね、やわらかい……」


 かすれた声。泣きすぎて、喉が焼けていた。

 それでも、わたしは歌った。

 この子に、聴かせてあげたくて。


 「……白いおふとん、つめたいね……」


 小さな足をくるんと包み、眠るとき、いつも唄ってあげようと決めていた唄だった。

 でも、初めて唄うこの子守唄が、まさか最後になるなんて。


 「……おてて ちいさな つぼみでも……」

 「……ママは ずっと 覚えてる……」


 言葉のひとつひとつが、胸を裂いた。

 でも、唄うしかなかった。

 この子が確かに生きていたことを、この世界に残したくて。


 「……ねんね ねんね 夢のなか……」

 「……ミルクのにおい 知らないね……」


 小さな指を、そっと握る。もう、ぬくもりはない。

 でも、わたしの中には、あの子のすべてが、まだ生きている。


 「……あなたが 笑う その日まで……」

 「……ママは 歌う 眠るまで……」


 声は震え、涙に濡れ、音程はもうバラバラだった。

 それでも、かまわなかった。

 この子だけに聴かせる唄。

 この子のためだけに、紡ぐ祈り。


 「ねんね……ねんね……いとしい子……」

 「ママの心に……生きてる子……」


 そのとき、頬をひゅう、と風が撫でた。

 あの子の返事のように、そっと、そっと。


子守唄が終わっても、

 わたしの唇は、まだ、音にならないことばを紡いでいた。

 あなたに何を伝えたかったのか、もう、よく思い出せない。


 けれど、ひとつだけ確かなことがある。


 ──あなたがいない世界に、わたしはもう、生きられない。


 小さな布団の中で眠る、あの子の頬を指でなぞる。

 冷たくなった肌も、すぐに忘れてしまうのだろうかと、怖くなった。

 だって、世界はひどく残酷で、あっけなくすべてを奪っていくのだから。


 わたしは立ち上がる。

 赤ん坊の隣に並ぶように、そっと横たわる。

 まるで「いっしょにお昼寝しようね」と語りかけるように、優しく。


 あなたの指に、わたしの指を重ねる。

 たとえぬくもりがなくても、

 わたしの中には、あなただけが生きている。


 もう、何もいらない。

 夫も、名前も、明日も。


 手の中にあった、小さな銀色の薬瓶を開ける。

 もう、あらかじめ用意してあったもの。

 こんな未来になるなんて知らなかった頃、

 “万が一”のために、あなた(夫)が隠していたもの。


 皮肉ね。

 この子を奪ったその人が、わたしのために用意していた抜け道を、

 今、わたしは使おうとしている。


 一錠ずつ、舌の奥に落とすたび、

 わたしの胸にあった空洞が、すこしずつ満たされていくようだった。

 毒なのに、救いのようで。

 終わりなのに、帰る場所のようで。


 眠るように、まぶたが重くなる。

 耳が遠のいていく。


 わたしの最後の視界に映ったのは、

 我が子の、かすかに開いたくちびるだった。

 まるで、わたしに何かを言いかけたような、そんな顔で。


 「……すぐに、いくわよ……」

 「待たせて……ごめんね」


 目を閉じる。

 そして、音のない世界へ──


 母であるまま、わたしは、

 あなたの隣に、帰っていった。


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