白衣の向こう側
太郎は机に突っ伏していた。周囲には参考書の山。赤ペンの跡が無数に刻まれた模試の答案が散らばる部屋の中、彼は深いため息をつく。「あと一歩だったのに……」
医学部の受験に三度挑戦し、三度目の不合格通知を受け取った日から、太郎は目標を見失っていた。医者になること。それは幼い頃に憧れ、ずっと追いかけてきた夢だった。しかし、もはやその道は閉ざされたも同然だった。
それから数ヶ月、彼はほとんど家に閉じこもり、アルバイトをする以外は無気力な日々を送っていた。そんなある日、近所の公園でチラシを配る中年の男と出会う。
「劇団『光彩』の公演のお知らせです!初心者歓迎!経験不問!」
通り過ぎようとした太郎は、その男に声をかけられる。
「君、ちょっと手伝ってみない? 人手が足りなくてさ」
劇団の裏方として週末だけ手伝うことになった太郎。最初はただの作業だったが、舞台袖から役者たちの熱演を見ているうちに、次第に芝居の世界に引き込まれていった。ある日、劇団員の一人が急病で休むことになり、演出家に頼まれて代役として舞台に立つことになる。
「役は……医者だよ。簡単な台詞だから、ちょっと練習すれば大丈夫さ」
白衣をまとい、医者として患者に声をかける場面を演じる。初めての舞台は緊張で足が震えたが、観客の拍手に包まれた瞬間、何かが胸に湧き上がった。それは、医者になりたかった自分が目指していた「誰かを安心させる感覚」だった。
舞台の上では、太郎は医者になれた。患者の不安に寄り添い、励ます言葉を紡ぎ出す役柄を通じて、彼は医者という存在の意味を別の形で体感していた。芝居を通じて自分の夢の一端を叶えることができる。それは、医者になるという夢を完全に諦めた自分への救いだった。
やがて太郎は劇団の一員として、医師以外の役もこなすようになった。役を通じて様々な人生を体験し、人々と向き合う芝居の魅力に没頭していった。
ある日、演出家が太郎に言った。
「君、本当にいい表情をするようになったね。医者になれなかったことを気にしてたみたいだけど、芝居を通して君はきっと、それ以上に人を助けられる役者になれるよ。」
太郎はふと笑った。白衣の向こう側に見えた新しい夢。その舞台には無数の観客がいる。そして、その一人ひとりに何かを届けることができる。「僕の道はここにあるかもしれない。」
太郎の新しい人生が始まろうとしていた。医師ではなく役者として、けれど、同じように人々を癒し、希望を届ける存在として。