王の選定者
ただ、勢いと性癖と趣味で書きました。
――麦畑の上を、心地よい秋風が通り過ぎてゆく。
「アンバー! そろそろ休憩にしよう!」
離れたところからイアンにそう呼びかけられ、アンバーは農作業していた手を止めた。
農婦にしては華奢な体つき。
野良仕事などしたことのないような白くて細い手足を持つアンバーは、まるでお仕着せられたみたいに作業服が似合っていなかった。
それもそのはず。
アンバーはもともとこの家の人間ではなかったし、今は単に住まわれてもらっているお礼にこうして家の仕事を手伝わせてもらっているだけなのだ。
――そもそも、アンバーという名前さえ、自分のものではない。
記憶を無くした自分に呼び名がないと不便だからと、自分を拾ってくれたイアンが、「君の瞳の色は琥珀色だね」というところから付けてもらった名前だ。
ここに拾われてから二週間弱。
いまだ記憶がもどる片鱗もないが、青空の下、イアンとその母親と農作業をしながら三人で慎ましく生活する暮らしも、悪くはないなとアンバーが思い始めていた頃のことだった。
「――あれは」
帝国軍だ、とイアンがつぶやく。
麦畑での作業を止め、イアンと母親と三人で休憩しながらお茶を飲んでいるところに、帝国軍の旗を掲げた一団がこちらに向かって歩みを進めてくる。
「母さん、アンバー」
イアンが二人に向かって声をかける。
「――皇帝旗がある。あの中に皇帝がいるんだ」
そういうとイアンは、二人にこちらに向かってくる一団に向かって平伏すように指示を出す。
――最近即位したばかりの若い皇帝は。
もともと皇室にあって位の低い妃から生まれた皇子で、成り上がりで即位したと聞いたことがある。
噂に伝え聞く新しい皇帝は、どちらかというと平民に寄った考えを強く持ち、平民にとっては賢君を期待させる人物だという。
そのため、農民がいちいち頭を下げない程度でめくじらを立てることはないとは思ったが、それでも古くからの慣習というものもあり、皇帝一行が通り過ぎるまでは頭を下げておくに越したことはない。
そういった理由から、母とアンバーに平伏するよう指示を出したイアンなのだったが。
「――そこの女」
そんな――頭を下げていたイアンたちに向かって、馬上から声をかけてくる者があった。
「娘の方だ。面をあげろ」
娘の方――――。
ここにいる三人の中で、若い娘はアンバーしかいない。
アンバーは、言われた通り恐る恐る顔を上げると、皇帝一行には視線を向けないようにしながら静かに次の沙汰を待った。
――しかし。
「ティア……」
愕然としたような声で、馬上の男が誰かの名を呼ぶのが聞こえた。
それが波紋するように、ざわりとざわめきが男を中心に広がっていく。
ざっ……、と、馬上から人が降りてくる音が耳に入る。
そのままその人物が目を伏せたままのアンバーのすぐ目の前にやってきて、その顎に手をかけ、よく見えるように自分の方へと顔を傾けさせた。
「……お前、こんなところで何をしているんだ」
アンバーが目にしたのは、若い――整った容姿の、精悍な男の顔。
「……不躾ながら申し訳ありません! その者は……、記憶がないのです……!」
目の前の男の、吸い込まれそうな美しい瞳に見惚れていたアンバーの耳に、緊張に張り詰めたイアンの声が聞こえてきた。
「……記憶が、ない?」
イアンの言葉に、男が訝しげに答える。
「……はい。今から、二週間ほど前。この者が近くの川べりに倒れているのを見つけ、わたくしどもで助けて手当を施しましたが、意識が戻ったときにはもう記憶はありませんでした」
頭を下げたままそう告げてくるイアンの言葉を耳にし、男は黙考する。
この男。
先ほど、アンバーに向かって「面を上げろ」と馬上から声をかけ、その姿を見て自ら馬から降りてきたこの青年こそ――、この国、バズル帝国の皇帝その人であった。
「川というのは、フラニー川のことか」
「はっ……、左様でございます」
なるほど。
時期的にも場所的にも、ティアの行方が知れなくなった内容と一致する。
そうするとこれは間違いなく――記憶を失いはしたが――ティアなのだと、皇帝は確信した。
「すまないが、この者の身柄は我々が貰い受ける。これは――私がずっと探し求めていた者なのだ」
倒れていたところを助け、今日まで身柄を預かってくれた謝礼は十分にしよう、という皇帝の言葉に、イアンは震えた。
(……アンバー)
アンバーとの関係は二週間というわずかな期間のことではあったが、そんな中でもイアンは、彼女のことをとうに好きになっていた。
このまま記憶を思い出さなければ。いや――思い出しても。
願わくば、嫁に貰い受けて、二人で幸せに暮らせたらという淡い夢を抱いていたのに。
「……イアン」
アンバーの――、いや、ティアの、こちらを労わるような声が頭上に注がれるのを受けて、イアンは恐る恐る顔を上げる。
そうして、イアンがあげた顔の先に見えたティアの表情は。
こちらに救いを求めるでも悲しみを見せるでもなく、ただイアンを気遣う思いと、どこか諦念に似た憂いた表情を向けるだけだった。
「ティア」
ティアは自分を呼びかけてくる青年の声に、黙って首を向ける。
「……お前の名はティアだ。そしてお前は――、俺の選定者だ」
選定者、という言葉が何を指すのか。
ティアの持ちうる記憶では、それを引き出すことができなかった。
代わりに、というわけではないが、黙ってこちらを見つめてくる青年の、その瞳の奥にあるものを見定めるかのようにじっと見つめ返す。
「来い」
それは、人に命令することに慣れた――、絶対的な王者の声。
来い、と言われた言葉に反射的に応えたのか。
それとも――身体の内にある自分の何かが反応したのか。
ティアは皇帝から差し出された手に、考えることなくすっと手を重ねた。
そのまま――、ぐっと力強い腕に引かれて、その腕に抱きしめられた。
「ティア……」
吐息のように吐き出されたその声が、痛いほどの切なさを持ってティアの耳に届いたので。
(――私は一体、この人の何だったのだろう――?)
そう思いながら。
ティアはただされるがままに、皇帝に抱きしめられ続けた。
◇
そうして王宮に連れられたティアは。
そのまま、流されるままに皇帝に抱かれた。
――『王の選定者』と呼ばれる存在。
それは数百年に一度現れる、天から遣わされた、この国の王を選ぶ存在なのだと。
王宮に着いたティアに、教えられたのだった。
◇
「――つまり、天から遣わされた選定者が選んだ者がこの国の王となり。そして王は、選定者と交わることで強大な魔力を得ることができます」
王宮に連れてこられた翌日。
朝方まで皇帝に囚われていたために、まだ気だるさの残る体をぼんやりとやりすごしながら、ティアはロスと名乗った若い家令から聞かされる説明をじっと聞いていた。
「ティア・ラ・アリアドネ。我が王の選定者。それが貴女です」
「…………」
それが本来の自分の名前であるはずなのに、まだ馴染みのないその響きを、ティアは黙ったまま頭の中で転がしてみる。
ティア・ラ・アリアドネ。
今朝方までの情事で、自分が『ティア』という名前なのだということは嫌というほど聞かされ知らしめられたが、フルネームで聞くとまだどこか借り物みたいな気持ちになった。
「そして同時に、宰相としても辣腕をふるっておられる傑物でした」
「――私が?」
「はい」
それを聞かされて。
ただの夜伽相手の女なのだと思っていた自分の立場が全く違うものに聞こえて、思わずぽかんとした声で問い返してしまった。
「貴女様は。陛下にとっても我が国にとっても、得難い人物であったのです」
二週間前。
視察に赴いた先で襲撃者に襲われ、川に落ちて流されてしまったために、今こうして記憶を失ってしまったけれども。
有能な女宰相の突然の悲劇に、王宮中に――誰よりも皇帝に、大きな動揺が起こったらしい。
皇帝が自失から立ち直るまでの数日間は見ていられない有様だったと、家令が教えてくれた。
「記憶を失われてしまったとはいえ、無事にご帰還なされて本当に何よりです。まずはお体をゆっくりお休みになられて、それから記憶を取り戻す術を考えましょう」
ロスがそうティアに告げてくるが、ティアにはまだ、釈然としない疑問があった。
「あの……、ひとつお聞きしたいのですが」
「なんでしょう?」
「陛下には、お妃様はいらっしゃらないのでしょうか」
先ほどロスからは、『王は選定者と交わることで強大な魔力を得る』と説明を受けた。
それはいい。
だから――、ティアは昨夜から今朝に至るまで、皇帝に執拗に求められたのだという答え合わせにもなった。
だが、今の説明を聞くと、自分の立場はあくまでも『選定者』であり『宰相』である。
『選定者』であり『妃』なのであればなんとなくまた関係性が見えてくる気もするが、そうではなく『宰相』という立場にあり続けているということは――。
別に妃がいる、もしくは娶る予定があるのではないかと思ったのだ。
「……お妃様の候補はいらっしゃったのですが。先日、廃されてしまいました」
「……? 廃される……?」
「ティア様の襲撃事件の首謀者が、そのお方だったことが発覚したからです」
「…………」
それはつまり――。
「その方が、私のことを面白く思っていなかったために手をかけられた、ということですか?」
「……私の口からは何とも……」
何とも、とは言っているが、とどのつまりはそういうことだとしか思えなかった。
宰相と行為に至る皇帝。
そしてその宰相に害をなそうとした妃候補。
――なんとも不毛で、歪んでいる。
瞬間的にティアはそう思い、背筋に冷たいなにかが走った。
◇
皇帝がティアを求めるのは、それからほぼ毎夜続いた。
焦燥感に追われるようにティアの名を呼び、避妊することなく己の欲望をティアの中に放つ。
その様子があまりにも痛々しく切なくて、それがティアに、皇帝が己を愛しているのではという錯覚を覚えさせる。
ある日。
自分にも立場があるために、さすがに避妊はしてもらえた方がよいのでは、とおずおずと告げたティナに、皇帝はどこか自嘲気味な表情でティナにこう告げた。
「選定者には――子をなす機能がない」
それ故に、選定者が王の妃となることができないのだ――と。
「天の遣いである選定者には生殖機能がない。ある一定の年齢になると、歳をとることもなくなるそうだ」
王の全盛期を支え、王が別の女に産ませた後継者が成人に達する前に静かに息を引き取るのだと、彼が説明してくれた。
「――お前を、失うのが怖い」
情事の後の、月明かりだけに照らされた寝室の中でぽつりと漏らすその姿は、今は皇帝ではなくただの一人の青年に見えた。
「ちゃんと妃を立てて、己の役割を果たさなければと思った。だから実際にそう努めようとした。でも――、実際にお前を失いかけて、そんなのは詭弁だと気付いた」
――俺は、お前以外欲しくないのに。
神様はどうして、こんな残酷なことを俺に課すんだろう――と。
青年が寂しげに微笑んだ。
「選定者に選ばれた皇帝としての立場よりも。ただお前のことを愛していられるだけでよかったのに。何もかもが歪んでしまって、こんな歪な形でしかお前に触れられない」
それでも――。
大義名分を持ってお前に触れられることに喜びを感じている自分を。
お前はどう思う――? と。
そう言われながら、優しく頬に触れられた瞬間。
ずくりと、ティアの心臓が痛んだ。
そうして。
ティアの頬を熱いものがつうっと伝い落ちていった瞬間。
――思い出したのだ。
これまで忘れていた感情や何もかもを。
――この人のことが、誰よりも好きだった。
『選定者』だから、という理由で抱かれたことも。
後ろめたさの影には昏い悦びがあった。
そんな葛藤を押し隠し、日中は清廉潔白な『選定者』として、宰相として。
彼の隣に立つにふさわしい自分であるように勤め続けた。
彼が、後継者を残さなければいけないと言って妃候補を選ぼうとした時。
「いいんじゃない? 遅かれ早かれ必要なことだもの」とことさらに何気なさを装ったが。
本当は、彼が自分以外の女性と行為に至るということを考えるだけで、胸が苦しくて痛くて仕方がなかった。
私が、『選定者』でさえなければ。
子供を、産むことができれば。
もっと純粋に、寄り添い続けることができただろうに。
だから――。
彼の妃候補が送った刺客に襲われて、とうとう終わりを迎えるのだと思った時。
――ほっとしたのだ。
ああ、もうこれで、私は解放されるのだと。
彼に――、会えなくなるのは悲しいけれど。
自分の中の醜い自分と向き合うことから、逃れられるのだと。
願わくば――、彼のこれからの人生が、幸せに満ちた者であってくれたらいい。
そう願って。
「……ティア?」
表情を変えず、静かに涙を流し続けるティアを訝しんだ皇帝が、彼女の頬を撫でる。
「……思い出したのか?」
「……いえ」
嘘をついた。
本当は思い出していたのに。
でもこれはきっと、思い出さない方が良かったことだ。
そうしてきっと自分は、あのまま彼の前から消えてしまっていた方がよかった。
私がいなくなったことで彼は哀しむだろうが、人の哀しみはいつか癒える。
あそこで――、見つかるべきではなかったのだ。
――その夜。
初めてティアは、躊躇いながらも自ら皇帝を求めた。
最後の思い出に――。
そんな気持ちがあったかどうかは、本人にしかわからない。
翌朝、皇帝が目を覚ますと、寝台はもぬけのからだった。
ティアがいた痕跡は王宮のどこからも綺麗に消えていた。
誰かに攫われたのか、なにか事件にあったのかと、帝国政府が総力を尽くして彼女を探したが、結局見つかることはなかった。
――選定者は、役目を終えて天に戻ったのだ――。
選定者失踪後も衰えを見せない帝国の繁栄ぶりに、いつしか誰かがそう口にするようになった。
◇
「さよなら、アーサー」
それは、久しく彼女が口にすることがなかった皇帝の名前。
誰に共なくつぶやき、朝靄の中ティアは、王宮をそっと後にした。
愛する人のために。
私はこの先ずっと、彼から逃げ続ける。
――これは、とある国の皇帝と、その選定者の話だ。




