1時間半
「枚岡、瓢箪山間で起きた人身事故の影響によりこの電車は運転を見合わせています。」
いつもの無機質な音声案内でなく、戸惑いと焦りを帯びた肉声が弱々しいスピーカーによって車内に響く。お昼を過ぎた平日、月曜日の車内はがらんとしており、まばらに座席を埋めるのもどこか覇気のない婦人や、午前授業なのだろうか、疲労感をうっすら纏っている学生のみである。
ふと顔をあげて車内を見渡すと、誰もが俯いて、つまらなそうにスマートフォンをいじっている。枚岡と言えば2駅先か。歩いて行ける距離で今、人が死んだ事は確かな事実であるがどうにも現実味が無い。
「運転再開の目処は13時50分頃を予定しています。」
再び焦りを帯びたアナウンスが入る。刹那、車内がザワついた。13時50分と言えば1時間半後である。「マジか、歩いた方が早いわ」「どうしよう、迎えに来てもらおうかな」「どうしよう…。」車内にまばらにいた人々は誰に言うでもなくぼそぼそと呟き、電車を後にした。この車両に残るのは、私のみとなった。
溜息を吐く。新学期早々運が悪い。
今日は四月一週目の月曜日であった。新年度、学校始め、仕事始めの月曜日であろう。かくいう私も大学生で、今年の春から四回生になる。四回生となると授業もほぼなく、あるのは月曜日のお昼からの一コマのみ。その為に定期を作り、その為に電車に揺られて来た初日からまさかこんな事になるとは思いもよらなかった。息を着く。
手持ち無沙汰になり、LINEを確認する。付き合っている、社会人の彼からメッセージが入っている事に気付く。彼からLINEが来るのは一日に三回、起きた時、昼休憩の時、退社した後である。そうか、今は昼休憩の時間なのか。
空はどんよりと曇っているが、決して暗いわけではない。春の陽気な青空を、薄ら曇が三層ほどベールをかけている。陽光を受けて雲は仄暗く光っているが、光は地上に差すことがなく、空気もどこか停滞しているようである。
自ら命を絶つというのは一体どれほどの覚悟が要ることだろうとぼんやりと思う。新学期、新年度は確かに変化の著しい季節である。新しい生活に皆が奮起し、どこか希望に満ちた空気を胸いっぱいに吸い込むと、たまに絶望が顔を見せる。生命を力強く叫ぶ花々を見ていると、自身と比較してどこかいたたまれない気持ちになる。今日の空に、春の陽光を遮ってくれる雲がかかっていて本当に良かった。
電車は未だ動かない。節電対策か、自然光のみを光源とする車内は薄暗い。寒くもなく、暑くもない、ぬるま湯のような車内に流れる時間は恐ろしいほどゆっくりで、時が止まっているのではないかとさえ思う。
亡くなった方は社会人だっただろうか。学生だっただろうか。新生活に絶望し、未来を拒んだのであろうか。昼休憩の時間に命を絶つ決断をしたのもどうにもやるせない。午前中は少し歩いてみたのだろうか。
電車への飛び降り自殺がいかに広く影響を及ぼし、またいかに賠償を訴えられるかという事は周知の事実であろう。時間は共通かつ、有限のものである。
亡くなった方はいくつだっただろうか。10代、20代。はたまたもっと高齢だったかもしれない。が、そんな長い年月も、最後はたった1時間半で片付いてしまうのである。大勢の人の怒りをかいながら。それがどうにもやるせない。
人間の生殖活動とは遺伝子を遺すことに他ならない。自分の生きた証を留めたくて、人は命を繋ぐし、文字を書く。自らの思いを何かの形に残したくて他者と関わり、未来を創る。
だからこそ、他人の時間を、社会の時間を剥奪しての自死はどうにもやるせなく思うのである。自ら命を絶つ事を決めてなお、孤独の場を最後に選ばなかった事に、とてつもない未練を感じるのである。たった1時間半、1時間半である。私が、自死の影響を受けた人々が、死を選んだ人のことをどんな形であれ想うのは。
電車が動き出す。現場検証と車体確認が終わったと、安堵を帯びたアナウンスが入る。
時間が動き出す。私も、大学へ行かなければならない。この空白の1時間半は、追悼の時間として捧げようと思い、今、文字を書いている。
人身事故で大学に行けなかった日
暇すぎて車内で書いた
自死は否定も肯定も出来ない それを考えるには私は恵まれ過ぎている