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一.私

 憧れの上司が産休に入った後から、急に仕事が忙しくなって、休みの日に自分の時間を作る余裕は無くなった。多忙さに負けじと食らいついていくのは苦ではかったが、理不尽さに振り回されすぎてもう無理だと思った時期もあり、気付いたらあの喫茶店の前にいたことがあった。暗い店内、薄汚れた店先の張り紙。数ヶ月前に閉店したということを理解した時、文字通り、膝から崩れ落ちた。次こそはあのコーヒーを飲み干してやろうと思っていたのに。美味しいタルトを三個くらい爆食しようと思っていたのに。溜まりに溜まった言葉達を書き殴ってやろうと思っていたのに…。店の前でうずくまって三秒、もうやっていないのなら仕方ない、明日からまた仕事頑張ってやる、と、立ち上がりの早い自分に、心の中で拍手。育休を早めに切り上げて、もう少しで篠崎さんが帰ってくる。こんなことでへこたれてたまるか。


 駅近のコンビニでコーヒーを買い、一口飲む。これじゃないんだよなぁ、と、空を見上げると、漆黒の夜空に吸い込まれて消えそうになるくらい、心細くなった。


 心細さでぽっかりと空いた穴は、数日後に巨大隕石で隙間もなく埋まった。篠崎さんが復帰したのだ。たちまち仕事が回るようになり、母になっても変わらない上司の姿に、何度惚れさせれば気が済むんだ、と脳内で悶えた。仕事を家に持ち帰らないスタイルも変わっておらず、息子さんを自分の父親に任せて、夜遅くまで千手観音のように働いていた。微力ながら支えになりたい、力になりたい、と思うと、自然とパフォーマンス力が上がっていき、褒めてもらえることが増えて嬉しい反面、もっと厳しくしてほしいだなんて、マゾ願望が暴走気味。自分でもちょっと引く。


 仕事は毎日持ち帰り、休みの日も返上して仕事をしていた日々が、まるで夢だったかのよう。本棚に綺麗に並べられた書物に手を伸ばすと、一番新しい作詞ノートの所で指先が止まった。久しぶりに自分の書いた詞を読んでは、その時々の思い出に浸る。また書いてみるか、と、シャープペンを手に取りノートに向かってみるが、以前のように書きたいという気持ちにはならない。どうやら、あの喫茶店に、創作意欲とか、若い自分とか、たくさんのものを忘れてきてしまったらしい。そのどれもが、もう取り戻せないと分かってしまっていることが、なんともやるせない。


 篠崎さんが新しい部署に異動になり、まさかの後任に抜擢され、再び慌ただしい日々が始まった。最後のページから更新されない作詞ートは、なんとなくいつも仕事用のバッグに入れて持ち歩いているけれど、開かれることのないまま、その存在もいつしか忘れて、仕事に没頭していた。


 十年も経てば、職場での自分の立ち位置にも部下の動かし方にも慣れ、普通に恋愛もして結婚して、何の変哲もない日常に幸せを感じながら生活していた。ある日の仕事終わり、久しぶりに篠崎さんから連絡があり、懐かしいメンバーを集めて飲み会をするからおいでと誘われ、指定された場所に行ってみると、そこは篠崎家だった。唖然としていると、次々と顔馴染みが現れ、テンションは急上昇。家の前で盛り上がっていると、篠崎さんが、お前らうるさいから早く入れ!と一喝。その喝すらも懐かしくて嬉しくて、再会を喜び合いながら楽しいひと時を過ごした。


 明日の午前中までだったら居ていいとのことで、私を含む酒豪三人が篠崎家に泊まることになった。旦那さんと息子さんは父親に任せたらしい。明日が休みの日で本当に良かった。話は途切れることなく宴は夜中まで続き、飲みつぶれてぐっすり眠る二人を眺めながら、やっぱりうちらが残りましたね、と、篠崎さんと私は顔を見合わせて笑った。


 麻生は記事を書くっていうより、文字を紡ぐのが上手だったよね、と、持ったグラスを見つめながら、篠崎さんがポツリと言う。歌が好きだったんですよねぇ、だから作詞もよくしてて、言葉を紡ぐことは自分の得意分野だと思い込んじゃってました、と、作詞をしていたことを今更カミングアウト。別に隠していたわけではないが、なんとなくいたたまれなくなった時、ふと、作詞ノートの存在を思い出した。バッグを漁ると、底の方からくたびれた一冊のノートが出てきて、篠崎さんに手渡すと、散らかった食器やらゴミやらを抱えて台所へ逃避。そこで我に返る。自分の書いた詞を、誰かに読まれる日が来るなんて。ずっと、誰かに読んでほしかったような、知られたくなかったような。どんな顔して部屋に戻りゃいいのやら、と、特大のため息をつきながらも、無意識に手がテキパキと片付けをこなしていく。


 部屋に戻ると、篠崎さんは窓を開けてタバコを吸っていた。くたびれた部屋着で黄昏ているだけなのに、その姿だけで絵になるなんて、雑誌の編集者じゃなくてモデルとか目指したらすごいことになっていただろうに。いやでも編集者としても大成功者だし、だからこそ自分は篠崎さんと出会えたんだし。そんなことを考えながら見惚れていると、唐突に、自分が書いた詞が歌になったら、どうする?と聞かれ、ふぇっ?と変な声が出た。篠崎さんの整った顔を見つめて冷静さを取り戻しながら、少し、考える。分かりません、その夢は叶わなくていいものでしたから、と答えると、篠崎さんも少し考えてから、このノート、うちの旦那にあげてもいい?と、悪戯っぽく笑いながら、ノートをひらひらさせた。その悪戯な笑みにつれられてニヤける顔で、いいですよ、と答えたその時の自分を、数ヶ月後に少しだけ後悔することになるなんて、思いもしなかった。

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