第41話 浪岡具運の天秤
この後の事。
この約定は浪岡にも伝達された。浪岡としても寝耳に水だったろう。領域を侵犯したことに抗議じみた言葉が寄せられたが、逆に言えば表立った反発はその位のものだ。石川と河原の間で結ばれた表向きの約定――石川による河原御所への援助――に関しても、浪岡の頭越しに結ばれたことに対しての批判が寄せられたが、大きな声になることは無かった。
浪岡御所との交渉はきちんと手続きを通して行った分、ずっと時間がかかった。まあそもそも今回のようにいきなり押しかけていきなり約定を締結するほうがおかしいのだ。
使者があわただしく往復し、まず石川高信が事情を説明するため、浪岡城に参上する段となった。
永禄五年(一五六二)三月十日
「――という事で、これらはやらせてもらうぞ」
「石川殿……」
浪岡御所――浪岡城の一角。
浪岡具運は珍しく渋面を浮かべてみせ、目の前の男――石川高信に相対している。
「こちらとしては迷惑な事ばかりだが……」
「迷惑とは失礼な。我らは鹿角衆の内通が知れたため、津軽を安定させるために藤崎の城と町を修築して備えると言うだけの事。道の整備も、浪岡との協力のための提案ぞ」
高信が楽しそうに言う。そう、表向きはそういう事になっている。
高信が要求しあるいは通知したのは、具信に要求した内容だ。
藤崎城の修築と兵の駐屯、藤崎内の古寺・興福寺の再興、藤崎から浪岡に至るまでの街道の整備。そしてその街道上で藤崎の隣にある浪岡具信領の振興だ。
その裏に、具信への支援を含めた、南部側による浪岡への牽制があるのは明らかだった。
ただ、浪岡がこれを拒否するのは少し難しい。
藤崎とその周辺は南部氏の直轄領だ。これに抗議することは出来ても、止める権力は浪岡にはない。興福寺の再興についても口をはさめない。寺社の整備など、同じことを浪岡自身がやっているからだ。
藤崎—浪岡間の街道整備が、有事の際の進撃路という事情は浪岡側も分かっているが、これは逆も同じ事が言えるし、街道を整備して回っている浪岡からすれば程度の問題だ。平時なら浪岡の利にならないわけではないし、この整備も具信と石川の銭で行われるとなれば懐も痛まない。それ単体を見れば浪岡にとって悪い話でもないのだ。
ただ一点、石川と河原御所――具信の協力、という点だけが浪岡としては受け入れがたい。
今回、『鹿角地方の危機』という情勢を背景に、河原御所に石川という〝後ろ盾〟が登場した。
武家としては悩ましい。鹿角情勢に関してはあくまで南部氏の事情であって、浪岡にとっては直接的には無関係だ。それを理由にされるいわれはない。
だが、浪岡とて石川と敵対したくないという思いもある。石川と敵対すれば南部本国も敵に回る可能性もあるし、たとえ南部本国が出てこなくても、武で鳴らす石川高信を破るのは労苦がかかる。
しかし、ことは武士の体面の問題であり、浪岡御所の威信にも関わりかねない。一戦交えるのも覚悟して石川の非を鳴らし抵抗すべきだ、という意見も多い。
だが、彼に対抗するには、浪岡にはまだ、力が足りない。
それに。
「難しく考える必要は無かろう。儂は河原御所の進退を保証し、かつ浪岡を盛り立てる。河原御所は身分の保証を得て、ますますの忠誠を浪岡に誓う。浪岡は河原御所を幕下に置き、石川から援助も得られる。良い事ばかりではないか」
(都合の良い事を囀りおるわ)
高信の一方的な言葉に辟易するが、確かに、落としどころとしては悪くないのがまた憎らしい。
ここで石川と本格的に対立すれば、街道整備どころではない戦さになる。浪岡と好を通じている津軽の南部諸家も、今の段階ではまだ浪岡側には就かないだろう。
それに。
高信の最後の言葉に首をかしげる。
「援助とな?」
「我が息子、鶴が、浪岡御所にも技術の幾つかを提供したいと申し出ておる」
高信は笑った。
「浪岡も共に繁栄するべき、と抜かしおる。あやつ、誰の味方なんだか分からんわい」
高信の苦笑に具運もつられて笑ってしまった。
石川鶴の持つ技術。それは確かに魅力的だった。それが一押しだった。
「……藤崎の整備は承った。叔父上の懐でやる事なら文句は言うまいよ」
深く深くため息をついて、具運は高信の提案を呑んだ。
天秤の重りを考え、具運は無事を選んだ。石川の読み勝ちだった。
「儂としては十三湊の再興にも手を貸したい所よ。あそこが再興成れば、藤崎から岩木川を下り我等も船を出せるからな」
「勘弁してくだされ。十三湊を使うは構わぬが、なまじ兵など置かれたら安東殿に睨まれます」
十三湊再興に南部氏が関わったら、それこそ安東氏が黙ってはいまい。蝦夷地に繋がる航路の途中に準敵国が兵を置いて嬉しい国などいない。
「……まったく。やってくれましたな」
「何、その方らが言う天秤が少々安東に傾きすぎるようなのでな。南部のことも考えてくだされ」
「考えておりますとも。今後とも明子は重用しますし、南部殿との友誼をないがしろにする気はありませんぞ」
「それを形にしてくださればいう事はありませぬ。今後ともよろしくお願いいたしますぞ」
南部からすれば最高の形の落着であり、浪岡からは苦い負けだった。
「はぁ、今回は負けじゃ。……具信叔父は、何と言っていましたかな」
「余人を交えず、一度酒を飲みたいと仰せでしたぞ」
高信は懐から書状を二通取り出し、恭しく具運の前に差し出した。
「具信殿と儂からの起請文だ。具信殿は、浪岡御所に一層の忠誠を誓う旨を。儂からは浪岡との関係を重んじる事を誓ったものを。受け取ってくだされ」
具運は差し出された書状を手に取り、ほっとしたように目じりを下げた。
「具信叔父は酒癖が良うないのであまり付き合いたくはないがのぅ」
「具信殿からはあわせてご子息に贈物がされるとのことだ。宇楚利の山奥で採れた元気な鷹ですぞ」
「かたじけないことよ」
起請文の提出は、この一件において浪岡が絶対に要求したものだった。具信が具運に逆らわないと改めて誓約を交わし、併せて石川からも浪岡との協力を一層深める旨の起請文があれば、家中で変な動きをする者たちをある程度黙らせる効果を発揮するだろう。
そして、具信が御所の子息――明子との息子だ――に贈物をするという事は、次期当主に対しての臣従も意味する。鷹も高信が準備したものだ。
屈服しつつ立場は維持する。具信は自家の保全に成功したと言える。
「具信殿は良き領主ぞ。排除するよりもきちんと使う事を考えるとよろしかろう」
具運は姿勢を正す。
「……此度の件は、やはり鶴殿が?」
「そうですな、鶴が口を挟まなければ、このような形で収めることはなかったろうよ。いや、もしかしたら鹿角に注力して河原御所など放置していたかもしれんな」
高信は本音を言っていた。
石川としては優先度はあくまで鹿角だ。浪岡が津軽領で勢力を伸ばすのは多少は不快だが、彼らが安東氏と繋がっても、鹿角と石川が健在であれば、南部氏は津軽を維持できる。浪岡具信がどうなろうが、正直構わなかったのだ。
だが、鶴は具信の件を織り込んだ、浪岡に対しての牽制案を引っ提げてきた。
高信から見ると、鹿角の情勢が悪化し、津軽での力関係が崩れかねない状況で、浪岡家中に食い込めるのは悪くなかった。藤崎城の修築や拠点化なども、津軽支配の為には有利に働く。具信を南部側に引き込むことで、藤崎領の安定にも繋がる。
浪岡御所を敵に回すかもしれない不利と天秤にかけて、高信は鶴の提案を受けた。
「あの小僧、鹿角衆内通の情報を独自に得て、それを使って浪岡の進める街道整備とそれが結び付く危険を語り、その上で具信殿の件をねじ込んできおった。よう考えるものだわい」
「それはそれは……」
具運は嬉しげに笑った。鶴が政事に疎いなどと考えていた自分の不明を突きつけられた気分だ。
「あれは周囲をしれっと振り回す類の人間だぞ、大人しい振りをしてまわりが手綱を取らねば危ない悍馬だ」
「まるで石川殿のようですな」
「ははは、そう言ってくださるか」
と高信が嬉しそうに笑う。
「そこまでして叔父上を助けたかったのでしょうな。叔父上は果報者よ」
具運はため息をまたついた。
「……叔父上には、やりすぎたと思いますかな?」
今までの浪岡側の対応の事だろう。高信は頷いた。
「御所様がやりたかったことは分かる。家中で力を持つ具信殿をどうにかして御したいという気持ちも分かるし、安東と好を通じて家を強化したいという狙いも分かる。拙者自身、南部家にとっての出る杭ですしな」
高信は苦笑した。三戸南部家においてもっとも権勢を持つ一族である石川家は、宗家との関係を常に意識しなければならない立場だ。
「だが、それ故に必要以上に具信殿を軽んじる事になりましたな。軽んぜられた側を追い詰めすぎるといつか牙を向きますぞ。やるなら武を持って滅ぼすべきでありましたな」
「叔父上は強すぎた。浪岡を良く運営するには邪魔な石であったのですよ」
「それで暴発されては意味がありませぬ。幸い、代官地を取り上げ、境目も奪って具信殿は十分弱った。これからは具信殿を相応に遇することですな」
いや、説教くさいですな、と高信は笑う。具運は苦笑した。南部の後ろ盾を得た以上、具信はもちろんちゃんと遇さなければなくなった。ため息しかない。
「さて、御所様。お聞きしたいことがある。……鹿角衆が安東に内通していたこと、知っておったか?」
具運は首を横に振った。演技だ。
――鹿角衆が安東と通じているのは、幾つか好のある鹿角衆の口から、それとなく伝わっていた。それを知っているのは、自分とごく限られた口の固い側近のみだ。
それを使って、勢力の拡大を狙っていたのも確かだし、街道の整備がその一環であったのもその通りだ。だが、具運は決して安東氏の味方をするつもりではなかった。
安東や南部に比べれば、しょせん浪岡は弱小だ。大国の意向をいつも伺いながら、それに振り回される勢力でしかない。
だが、鹿角郡が陥落すれば、勢力拡大の絶好の機会が生まれる。孤立した親南部側の勢力を取り込み、浪岡は勢力を拡大できる。さらに、安東や南部も、浪岡という勢力を無視できなくなる。だから具運は安東氏の鹿角への伸長を黙視した。
安東は浪岡を味方にすることで南部氏を窮地に追い込めるし、南部氏は逆に津軽を維持するために浪岡との協力が不可欠になる。南部も安東も、浪岡の動向を無視できなくなる。それに乗じることが出来れば、浪岡は津軽諸勢力の上に立って、大国に振り回されなくても済む、いや、逆に大国を操ることが出来るような勢力になれる。鹿角の危機は、浪岡にとって絶好の機会になるはずだった。
具運は、浪岡を大なる天秤にしたかった。
安東も南部も浪岡の一挙手一投足に右往左往するような、そんな国に。
それを見抜かれ、見事に楔を打ち込まれた。他ならぬあの鶴という少年によって。
「石川としては、浪岡の威勢が大きくなることは望むところだが、鹿角がこのような状況である時に安東側に転ばれても困るのだよ」
「浪岡は南部と協力する間柄、それは崩れませんぞ」
「明子殿の御子、下国安東殿から娘を嫁がせないかと話が来ているそうだな。まだ六歳なのにずいぶんと早い打診ではないか」
高信が振ってきた機密に属するはずの情報に、具運は穏やかに笑った。
「まだ話の段階にすぎませぬよ。浪岡はこの奥国の果てにあるとはいえ御所、その血を得たいという話はいくらでも来るものでのう」
「御所様、天秤にかけるということは天秤にかける両方に疑われる危険があるという事でもある。そこをゆめゆめ忘れなさるな」
返す言葉もない。失態だ、と具運は嘆息した。
「もうひとつ聞きたい。……安東殿は、どんなお方かご存知か」
高信の問いに具運は思案する。
「石川殿、儂は安東の新しい御当主に会うたよ。あれは魅力的な御仁ぞ」
「人の審美眼に対して厳しい浪岡御所様をしてそう言わしめるか」
「かの御仁は勢いがある。知もある、策も勇も。あの若造はいずれ、安東を大国にするよ」
具運は笑った。
「石川殿、気を付けなされ。彼は南部も喰らおうとするし、津軽など真っ先に欲しがりましょう。津軽は往古、安東の御領分であった。そこに対する執着は、だいぶ強いですぞ」
「今回の藤崎修築も安東殿を刺激しますかな」
「面白くはないかもしれませんな」
藤崎は元々安東氏の生まれ故郷――本貫地とされている。その後、そこから離れて十三湊という湊町を本拠としたが、南部氏に敗れてさらに秋田に逃れたのが、現在の安東氏だ。
安東氏の故地を南部氏が整備する――安東からすれば不愉快かもしれない。
「――さて、儂はそれそろ行くわい。明子殿にもよろしく言っておいてくだされ」
「こちらも、鶴殿にはよしなに言っておいてくだされ。それと」
具運は頭を下げた。
「森宗弘宗をよろしく頼むとお伝えくだされ」
「承った」




