第36話 悪夢と忠義
永禄五年(一五六二)正月一日
その日、浪岡具運は上座で退屈な儀式の主催者として、その行方をじっと見守っていた。
正月はどこの武家でも儀式で大わらわになる。それは浪岡北畠家とて例外ではない。
日の代わりと共に儀式が始まり、重要な庶家や家臣、国外の使者、さらには領民たちとの謁見を受けてお互いの関係を再確認し、酔えぬ酒で宴会を何度も繰り返して、さらに幾つもの寺社へ参詣する。それが半月から二十日ほども続くのが、武家の正月だ。
ひっきりなしに来る人々に対して失礼の無いようにふるまいながら、その一挙一投足を観察する。浪岡具運にとってこの時間は神経を使うが、それでいて興味深い時間だった。
目の前で人々が頭を垂れ、自分に礼を尽くす。それは、浪岡具運という存在を尊んでいるわけでかならずしもない。
彼らが礼を尽くしているのは、浪岡という『家』に対してだ。
浪岡家を背中に抱えた自分に礼を捧げ、寿ぎ、喜ぶ。具運本人を快く思わない人間も首を垂れる。浪岡具運という人間の存在を超えた『家』というものの存在を特に感じるのが、この正月だった。
無論、具運本人に忠節を誓う者たちもいる。だが、その忠義の熱はこの正月においては『家』の持つ魅力と渾然一体となって独特の高揚感に場が包まれる。
(不快よ)
彼らが不可解だった。彼らは、自分たちが具運に忠を捧げているのか、家に忠を捧げているのか、ちゃんと切り分けられているのだろうか。生まれついて忠の対象である具運には分からなかった。
その切り分けが出来ずして、天秤をきちんと操ることが出来るというのか。家への忠義と個人への忠義の矛盾した時の苦しみを知っているのだろうか。
一族が参列した広間には、具信も参列している。上座の方にいる彼をちらりと視線を向ける。
(叔父上はどうなのであろう)
彼こそ家に対する忠はあれど、具運に対する忠は薄かろう。彼の中でそれがどう折り合いをつけているのか、少しだけ興味があった。
具運は具信が嫌いではなかった。具運は具信から多くを学んでここにある。そして彼もまた、このような正月の高揚を厭うているようだったからだ。
具信が気付いて、一瞬、視線が交錯する。
具信は神妙な顔で頭を下げ、すぐに視線を外す。そこには何の感情も読み取れなかった。
目まぐるしい一日を終えて、ようやく寝ることが出来るのは、夜も真っ暗になった後のことだ。
臥所に身を横たえ、浪岡具運はすぐに寝息を立てた。
―――――放り出されたのは、真っ暗な闇の中だった。
すぐに気付いた。これは、夢だ。
だが、夢の中にしては、妙なほど明晰だった。宙をもがく自分の手足も、暗闇を知覚する視覚も、恐怖に弾む息も、まるで真に迫っている。
どちらが上なのか下なのかも分からないままどんどん落ちていく。外聞もなく叫ぶ悲鳴さえも、暗闇に囚われて自分の耳には届かない。
(なんなのだ、なんなのだこれは)
何も出来ずに、彼は唐突に気付く。自分はこれから死ぬのだと。これが自分の末路なのだと。
(ふざけるな!)
そう思っても、闇は具運の心になど取り合わない。戦場でも湧かないほどの恐怖がどんどん吹き出し、具運の心をどんどん苛んでいく。逃げようと思っても、逃げる術すらない。
落下していき、心がすり減るほど時間が経った頃、突然、聞こえるものがあった。
水音だ。
ちょろちょろと、水路を流れるような小さな水音が、鮮明に耳に飛び込んでくる。
恐怖に震えていた具運は、藁をもつかむ思いで音のする方向を探す。どこだ。どこにある。
そして――夢でよくあるように唐突に――具運は野原の上に立っていた。
夢の中の具運は、荒くなった息をゆっくりと整えていき、その景色を見る。
目の前に広がるのは、見たこともない田んぼだった。一面にたわわに実った稲の、金色の平原――それだけでおかしいのだ。水田というのは、様々な稲の種類が植えられ、もっと色とりどりなものだ。
さらに、田んぼ自身もまるで短冊に切ったかのように一枚一枚長方形に区画され、見たこともないほど整然としている。
遠くには、まるで城門の様な大きな鉄の水門を備え、三面を滑らかな石で葺いた川が流れている。あれで水量を自在に調整して田に水を流しているのだと、なぜか具運は知っていた。
具運はふらふらと歩き出し、あぜ道を当て所もなく進む。
彼はやがて、田んぼの真ん中にあるその場所へと進んでいく。
田んぼの一角を木々で囲い、その真ん中には小さな神社が鎮座している。
鳥居をくぐり、小さな社に吸い寄せられるように近づく。そしてまるでそれが正しい所作であるかのように、具運は社の前に跪いた。
次の瞬間、社の扉の奥が、光ではじけた。
「あぁ……」
感嘆の声を漏らすと同時に、具運はその光に呑み込まれていった――。
「御所様! 御所様!」
激しく揺さぶられ、具運は目を覚ました。
「御所様!」
目の前には明子がいる。近習たちもいる。部屋の外には多くの家臣の気配もする。
薄暗いが、自分の部屋だ。灯火がともされ、ゆらゆらと自分たちの影がうごめいている。
滝のような寝汗で体が冷たい。それとは逆に、口の中は干からびたように乾いている。
「……すまん、もう少し、もう少し明るくしてくれ」
心からの恐れが口にも伝染し、まるで病人の様な声になった。
「承知しました。誰ぞ、灯を持ってきなさい! それから水桶と、白湯と、替えの服も!」
明子の声に近習たちがぱっと散る。にわかに騒がしくなる周囲を眺めるうちに、ようやく心に平穏が戻ってくる。
「……何があった?」
不安げにこちらを見ていた明子が、ほっとしたように顔を緩ませた。
「御所様、御所様は突然悲鳴をあげられて、半刻ほどもうなされておいでだったのです」
「そう、なのか……?」
「はい、尋常ではないご様子でした。……何を、見たのですか?」
明子が真剣な顔で聞く。
「真っ暗闇だ。真っ暗闇の中で、儂が終わりなく落ちていく夢だ。ただそれだけなのに、なんと恐ろしきものだったものよ」
「まぁ……」
「だが――」
具運は夢を反芻する。
恐ろしい夢だった。だが、最後に見たあの景色は、あまりにも美しく、とても身近で、だが不可思議だった。
あの景色は、一体なんだったのだろうか。ただの水田の景色に過ぎない。過ぎないのだが、妙なほど目を引いた。
「だが?」
明子の問いかけに首を振る。
「……儂の悲鳴は、ずいぶん大きかったようだなぁ」
具運は困ったように顔をしかめた。
「ええ、私も飛び起きてつい枕元の刀を手に取ってしまいましたわ」
和ませるかのように明子が笑いかけながら、手拭いで具運の額に浮かぶ汗を拭う。
多くの家臣たちが、正月という晴れの時節に、当主が悪夢を見た事を知ってしまった。
口止めももはや遅い。噂はすぐさま広がるだろう。もしかしたら浪岡領内全土に、不吉なものの先触れとして。
人心が動揺する前に、急ぎ祈祷をしなければならない。いらぬ面倒を増やしてしまった。厄介な事だ。この後の事を考えて具運は気分が重くなる。
「御所様、賄い方が、滋養に良いものと」
小姓の一人が気を利かせてか、小鉢に入った食べ物を持ってきた。
蜂蜜だ。灯に照らされたそれが、赤金色にぬらぬらと光っている。
「おお、良き良き」
まず小姓が良くかき混ぜて毒味のひと口を食べた後、安全を確認すると明子が匙を持ち、ゆっくりと具運の口に運ぶ。
口に広がる甘味に、先ほどの金色の野原をまた思い出し、具運は驚くほど優しい気持ちに包まれた。
永禄五年(一五六二)正月十五日
つつがなく永禄五年の正月を迎え、表向きは平和なまま、新年は穏やかに過ぎていった。
浪岡の対応に関する事に関しては、新年の諸儀式を言い訳にして先延ばしにしている。色々な仕込みもしているので、正直少し時間が必要だった。
変わった事と言えば、浪岡御所が悪夢を見た、と噂になった事だ。
「すさまじい悲鳴を開けてうなされていた、という事です」
弘宗は鶴の自室で、顔色も悪くその〝噂〟を報告してくれた。
「館に残っていた者はほとんどその声を耳にしたそうです。凶事であると、即日加持祈祷が行われました」
騒然とする浪岡の館の中で、具運はおした正月儀式を不休で何とか終わらせたという。だが、浮足立った空気は収まらなかったそうだ。
「浪岡が荒れないといいんだがなぁ」
人心が動揺すると、どうしても国内も荒れる。夢はこの時代まさに神託と言うべきものであり、悪夢はすなわち凶事の前触れだ。しかもそれを家の当主が見た、というのは人々を不安にさせるのに十分だ。他ならぬ自分自身が夢を利用して凶事を〝予言〟したのだから、よく知っている。
それにしても、噂が広がる速度が早い。弘宗から細かい話を聞く前に、既に『悪夢を見た』という噂は耳に入ってきていた。相当噂が短期間に広がっている証拠だ。
「鶴様……」
弘宗は、思いつめた顔でこちらを見てくる。
「ん? どうした?」
「……白土の件は、どうなりましたか?」
ああ、と弘宗の顔色が悪い理由を察して納得する。彼は自分の報告が鶴の不利に繋がった事を気に病んでいるのだろう。
「まだちょっと待ってもらっている。ちょっと時間が欲しくてね」
「……もしこの件で浪岡への御用がありましたら、自分にお任せ願えませんか?」
弘宗は固い表情のまま頭を下げてくる。ちょっと心配になるくらい思いつめていないか?
「かならずや鶴様の益になる結果を御所様から引き出してきます。此度の件は自分にも責がある事です、ぜひとも、お願いいたします」
「……どうしたんだ?」
「御所様は、白土を止めるよう八戸様に働きかけました。それを思いついたのは自分が白土の効用についてお伝えしたが故です。お止めしたのですが、聞いてもらえませんでした」
苦しさがにじんだ疲れた声色に、彼が悩んだことがうかがえた。
「二君に仕えているような立場なれば、このようなこともあるとは思っていましたが、そうであればこそ、二君の間で何かがあった時に仲立ちをするのが自分のお役目だと思います。まず御所様のために働いたからこそ、今度は鶴様の為に働かせてくださいませ」
そう思ってくれるのはありがたいのだが……困ったな。
自分が目論んでいるのは、浪岡へ頭を下げる事ではないのだ。
それに、前から考えていた。
「……ねえ弘宗。俺は君の事をかけがえのない家臣だと思っているんだ。君は俺の家臣団の中で金浜の次に書かれる家臣だ」
ま、それ以外に家臣居ないけど。あえて書くなら利助とヨシかな?
「……忝い事です」
「今回、君が浪岡と俺の板挟みになったのは俺のせいでもある。俺と親父殿が二君にまみえる事を良しとしたからだ。けどね」
弘宗に歩み寄る。弘宗はこちらを見上げて、少し怯えたように体を震わせる。ビビるなよこっちの方が年下だぞ。
「俺は強欲なんだ。君が浪岡にも仕えていることにそろそろ不満なんだよ」
彼の顔がまた青ざめる。俺は安心させるように心がけてゆっくり語調も柔らかく言う。
「前も言ったように、君がしたいようにしてほしい。俺はそれに協力するよ。ただ、ひとつ言い忘れていた。俺も君に対して望んでいることがあるんだよ」
「それ、は、一体……」
弘宗の問いに答えようとした時。
「鶴様」
部屋の外から声がした。金浜だ。
「おう、どうしたの?」
「楡喜三郎の用人が参りました」




