第35話 浪岡の仕掛け
永禄四年(一五六一)十月一日
弘宗は足早に石川を出立し、二日で浪岡に到着し、その日のうちに浪岡城に直接報告するために伺候した。
本来は書状でのやりとりで済ませている。だが今回は、弘宗が浪岡城下に戻ってくるのを機に、具運が直接――直答まで許され――話を聞くことを望んだ。
「ふむ……」
浪岡御所、浪岡具運は弘宗の語る報告にじっと耳を傾け、それが終わると一息吐いた。隣には奥方――明子が侍っている。
弘宗は緊張しながら、無事に報告を終えられたことに安堵した。鶴の動向で謁見することはあったが、有力一族とはいえ庶家の二男坊に過ぎない立場では、本来ならばこうして直接顔を合わせて話すことなどほとんどできない存在である。さらには隣に奥方の明子がいることも緊張を否が応にも高めた。
「左様か。鶴殿は、叔父上に同情的であったか」
「直接救済をしたい、と言ったわけではありませんが、その計画を考えているようでした。金浜様は、今の浪岡家中の状況を理解してそれを止めておいででしたが」
「金浜は直截なお方ですもの、主君が危ういとなればきちんと止められる男です」
明子が頷く。
「浪岡の家中を荒らす子どもの火種は、石川の方でしっかりと消してもらわねばなりません」
辛辣な物言いに弘宗がぴくりと震える。
「石川の叔父様にも、少しこちらの事を考えてもらわなければ困ります。津軽郡代とはいえ、浪岡家中に手を出されるのであれば迷惑千万の至り。石川叔父様は息子に少々甘すぎます」
「そう申すな。鶴殿は我が家に介入しようとしたわけでもないし、儂と具信叔父上の対立も元々はこちらの事情。事態が進展したからとて、その責を鶴殿に負わせるわけにはいかんよ」
「津軽郡代の息子が河原御所に手を差し伸べている、という状況そのものが危ういのです」
取り成す具運に、明子は決然と言った。
「確かに二年前であれば銭の貸し借り程度の付き合いに目くじらを立てる事もなかったでしょう。ですが、浪岡御所と河原御所が対立していると露わになったこの微妙な時期に、そのような手助けがあれば、邪推する者が出るのです。そしてその邪推を、真の事に仕立てようとする輩が出る」
明子はため息をつく。
「まさか戦になるとは思いませぬし、先日具信様も裁定を受け入れました。これでようやく事が終息するかもしれないのに、ここで石川が手を差し伸べては余計な風聞がたちましょうし、具信様やその周りがいらぬ邪心を起こすやもしれませぬ。石川の権力は、それほどの魅力があります」
明子の懸念するところも正当だった。
具運と具信。浪岡御所と河原御所の対立は、具信の敗北という形でようやく終わろうとしている。そこに今、石川高信の息子が具信に手を差し伸べるのは、政治的に波風を立てかねない行為だ。
津軽の南部氏権力の頂に立つ石川殿の、その息子が具信に肩入れしている、という構図は、外から見れば石川が息子を使って具信に気脈を通じている、と見えるのだ。これが今でなければ、問題にはならなかったかもしれない。ひとえに『時期が悪い』のだ。
「例え風聞でも、その風聞を真にしようとする輩がでるかもしれませぬ。そうなっては浪岡にとって良い事にはなりませぬ」
具運は明子の言葉に頷き、椀の白湯を呑む。
「鶴殿は確かに稲の申し子であった。その力量をちゃんと知っておれば、叔父ではなく儂が銭を出すべきであった。そうすれば鶴殿が叔父上に気脈を寄せる事もなかった。このことに鶴殿に罪はないよ」
具運はニコニコと弘宗に話を振る。
「森宗、そなたの報告は大変良いものであった。叔父上が欲しがるのも分かるよ。鶴殿が持つものの一端、それを知ることが出来た」
「……ありがとうございます」
弘宗はその賞賛を素直に受け取るべきかどうか、迷いながら頭を下げた。
「森宗、そなたは鶴殿に仕えてどう思った?」
思いがけない問いかけに、森宗はしばし沈黙してしまった。
「かの御仁はどんな人間であったか。森宗弥次郎が側で見た石川鶴を知りたいのだ」
「……奇妙な方でした」
思案して弘宗から出てきたのは、そのような言葉だった。
「私は稲の技術に詳しいわけではありませんが、あの方には何をどうすれば自分の目指すものが達成できるのか、その筋道が見えているようでした。目指すべきものの為に道を切り開いているかのような、そんな風に見えるのです。そしてそれが、決して幸福が訪れるばかりでないことも知っているのです」
「ほう、どういうことだ?」
「千歯こきという、脱穀を数倍にも早める道具を作り上げた時、鶴様はこう言ったんです。『この道具によって、脱穀を行っている貧しい者たちが職を失う』と。ただ便利な道具を作るだけでなく、それが広まった時に世に及ぼす影響にまで考えをめぐらせられる方に、私はいまだ出会ったことがありません」
弘宗はあの時感じた体の震えを思い出す。まるで未来を見たかのように語る目の前の子どもが、得体のしれない物の怪のように見えた。それは正しく畏怖だった。
「……そなたから見て、鶴殿は神力を持つように見えたか? それこそ未来を見えているかのような」
具運の問いに、弘宗は首を振った。
「……いいえ、彼は何でも出来るわけではありません。むしろ手段が見えていても、それを成す方法が手元には無くて悩んでいるように見えます」
そう、鶴は確かに少し大人びていて、弘宗が思いもしない思考を広げる。明確な目的があって事を成している。だが、その立場は一介の武士の子で、ただの少年なのだ。
石川という、それなりに大きい家の子ではあっても、今石川家を率いているわけではないし、仮に石川家を継承していたとしても、彼が成そうとしていることには、それでも足りない。おそらくはそういう事業だ。
(そうか、だからこそ……)
弘宗はふと気づいた。自分に力が無いと知っているからこそ、鍛冶の技術を持つ自分が来てくれたことは、本当に喜ばしい事だったのだと。
そして、そんな利点を捨てることになっても、彼は弘宗の希望を聞いた。鍛冶の道に悩む弘宗の行く末を考えていたのだと。
「鶴様は様々な施策を進め、着実に成果を上げています。自分にはその筋道は見えませんが、その手助けとなり一助となるのは、思った以上にやりがいがあるのは事実です」
農具という、本来刀鍛冶の打つべきではない道具を作るのも、やってみれば存外面白いのだ。
鶴が要求する農具には刀とはまた違う複雑さがある。稲や条間に合わせて刃の形や大きさを変えたり、人が使うにあたっての設計が刀とは違う塩梅がある。それを考えるのは、弘宗にとって新鮮だった。
気づいてしまえば単純だった。弘宗は、鶴に仕えるのがそれなりに楽しかったのだ。
「そうか。鶴殿は、良き主人であるか」
「はい」
具運は、なぜかホッとしたように頷いた。
「鶴殿が良き主であっても、その所業で浪岡が迷惑を蒙るなら避けねばなりません」
明子は話を戻した。
「鶴様には、こちらから警告くらいはするべきです」
「そうさのう……」
具運は頷いた。彼からしても、具信に今近づかれるのは確かに困るのだ。
「……ああ、ひとつ案がある。聡い鶴殿の事じゃ、これをすればこちらの意図を確実に理解するじゃろうて」
良い案を思いついた、と声を弾ませて具運は笑みを浮かべる。
「鶴殿は少々迷惑を蒙るかもしれんが、これから冬であるし、今の時期であればまだ大丈夫であろうて」
「あの、何をされるのですか?」
「なに、ちょっとした嫌がらせよ」
不安げに問いかける弘宗に、具運は楽しげに笑った。
「そなたの報告で思いついたのよ、確か鶴殿は八戸殿の領内から白土を買い取っていると」
その言葉を意味するところに気付いて、弘宗は動揺した。
「そ、それは! いけませぬ!」
顔色を変えた弘宗に、具運はにこやかに笑った。
「そなたはそなたの仕事をするがよい。しばらくこちらにいるのだろう? 鶴殿からの頼みもきちんと終わらせねばならんぞ」
――今回の件を先んじて伝えてはならない。
言外に言われた事に、弘宗は逆らうことが出来なかった。
半月後、根城八戸家から石川家に対して、白土の出荷停止が通達された。
永禄四年(一五六一)十月二十日
鶴はその通達を館の広間で高信から聞かされ、座ったまま目を覆った。
まず脳裏を駆け巡ったのが、来季の防除をどうしようか、というものだった。
石灰が無い事で一番影響が出るのは害虫防除だ。
保温折衷苗代で早植えした稲にはカメムシなどがたかりやすい。単純に折衷苗代をやっていない周りの稲よりも生長が早いので、餌を求めた虫たちがその圃場に集中するのだ。これが『保温折衷苗代の稲は虫がたかりやすい』という誤解混じりの風評になってその普及が遅れた。
それを防除するために、今手に入る防除剤として石灰が必要なのだが、それが無くなると痛い。かなり痛い。まだまだ生産量が限られて品質が安定しない木酢液に頼り切るわけにもいかない。
虫だらけになって、斑点どころか中身が無くなるほど食い荒らされた米が、そよそよと揺れる田んぼが脳裏に浮かんで慌てて脳裏から打ち消した。
そりゃね、石灰は万能な防除剤じゃないけど、あると無いとでは雲泥の差が出てしまう。特にこの時代においては。
「八戸側の名目としては、『神域にある土を出すのは障りがあると抗議があった』とのことだ。あそこは一応菩提寺の大慈寺の寺領だからな」
高信は鼻穴をぴくぴくさせながら笑った。
「掘り出していない白土が銭になると前のめりでおったくせに、ずいぶんと神妙な事ではないか。八戸の生意気小僧がそんな殊勝なことをするものか」
「……ほぼ確実に、浪岡からの申し出があったのでしょうね」
側にいた金浜はため息をついた。
「浪岡の近隣には八戸新田殿の御一族がおられます。そこを伝手に八戸殿を説得したのでしょうね」
浪岡氏領と千徳氏領の境目の二双子辺りには、根城八戸氏の飛び地領土がある。そこには八戸氏の直轄領が存在するとともに、八戸氏の庶流・新田氏のさらに庶流である馬場・飛内・目内沢田の各氏が領地を成している。彼らは浪岡北畠氏との関係も深く、半ば両属という関係を築いている。
「浪岡殿はあの辺の領地に関しても便宜を図っておられる。ちょっとしたお願いくらいは聞いてくれるのだろうな」
「やられたー!」
俺は外聞も気にせず天を仰いで叫んだ。
弘宗に具信の事を漏らす事で何か反応があるとは思っていた。だが、ここまでピンポイントに急所を突いてくるとは思わなかった。
「俺は助けんぞ」
高信は先手を取って言い切ってきた。
「これは浪岡からお前への言づてだ。『鶴が浪岡具信を手助けするのを止めろ』というな」
分かっている。これは明確な警告だ。
「浪岡の御所殿は具信殿を潰したいと思っている」
高信は淡々とした口調で呟いた。
「具信殿は浪岡家中でも一族筆頭の大身だ。その力を削ぎたいのだろう。家まで潰したいのか、家中での影響力がない程度に身代を減らしたいのかまでは分からんが、ともあれその具信殿をお前はわざわざ助けようとしている。そしてその意思を森宗殿に漏らした。浪岡が過敏になるのも仕方あるまい」
御所殿のやり方ははなはだマズイがな、と高信は苦笑する。
「俺は浪岡との関係を悪化させてまで具信殿を助ける気はない」
「……分かっております」
高信の立場からはこう言うのは分かる。
彼は津軽郡代だ。そして浪岡は郡代としてもそして南部氏全体としても重要な友好勢力だ。津軽を安定させ、その平和を維持するために不可欠なパートナーと言ってもいい。
そのような相手と、鶴ひとりの為にもめるわけにはない。
――浪岡が考えている領内整備が、安東と繋がっている可能性が高いことを知らなければ。いや、鹿角が近い将来陥落すると知らなければ、浪岡に介入しようなどと思わないだろう。
「お前が明確な態度を示せば、恐らくだが買い付けの再開は出来るだろう。冬のこの時期に止めたのは、逆に言えば早めに誠意を見せれば、稲作が始まる春には輸入が再開できるだろうよ」
高信は立ち上がってこちらを見下ろした。背の高いこの男がまるで壁のようにこちらを圧する。ぎょろりとした目が、こちらを捉える。
「この件はお前が解決しろ。お前がまいた種はきちんとお前が終息させるんだ。どうしようもなくなったら俺が出張ってやる」
「……承知しました」
「金浜も良く補佐するように」
「ははっ」
高信はそのまま広間からさっさと出ていった。
「……鶴様、どうされますか?」
「そうだな、少しだけ待つ」
「待つ? 早めに解決すべきと思いますが。この手の問題は長引けば長引くほどこじれる類のものです」
金浜のいう事はもっともだけれども。
「気になっている事があるんだ。それが到来するまで、ちょっと時間が欲しい」
金浜は怪訝な表情を浮かべたが、最後には了承した。




