第31話 恩義
浪岡という家を発展させるために、こんなことを考えていたのか、あの御所様は。
浪岡の目指す壮大な計画に感心していると、具信は顔をしかめた。
「儂はこの寺社興業に何度も反対してきた。だが、具運も顕範も止めようとはせぬ。あれはいかん、浪岡の天秤を大きく崩す行為だ」
天秤。金浜が言っていたことを思い出す。
浪岡は、微妙なパワーバランスの下に成立する国だ。南部と安東、その天秤を考えながら維持しなければならないのだと。
「これが完成すれば、安東と浪岡の関係は深まるだろう。だが、わしはこれではむしろ安東に浪岡が食われると思う。安東は、南部との関係を軽くして対抗できる相手ではない。それなのに具運たちはこれをどんどん進めようとする。幾ら寺社興業で稼げるといっても、寺社の整備にかかる銭は大量だ。だというのに聞く耳も持たん」
具信は酒をまた呷る。
「秋田は南部と比べれば小国だが、豊かさは勝る。たわわな米、太く良き木材、蝦夷地の富が集まる土地だ。しかも当代の下国安東当主の安東愛季殿は若いながら優秀と聞く。このままでは浪岡は秋田の富と武威に埋もれて、いずれ身動きが出来なくなる」
具信は酔いに任せてぐいっと顔を近づける。酒臭い。
「南部にとっても他人ごとではないのだぞ! 具運が今の南部離れを進めれば、南部が浪岡を御することが出来なくなる。浪岡が安東方になれば、困るのは南部ぞ。石川殿はこのことを知らんのか、であれば随分と緩んでおるぞ!」
確かに、これは南部にとっては他人ごとではない話だ。ただ、親父殿はじめ南部家の人たちがこの事をまったく認識していないだろうか? 少なくとも高信辺りは事情を知ってはいそうだが、後で確認を取っておこう。
具信はこの地図をみて、とんとん、とまた溝城を突く。そこは、具運が進める街道整備の場所から少し外れている。
「儂はこの富の道からすら弾かれてしまっておる」
そのため息に含まれるのは、寂しさだったろうか。
「この地図を見ればわかるだろう。我が領地である溝城は、これらの街道から外されておる。富のおこぼれすら与えられぬという事じゃ。しかも隣の滝井の代官職を外され、今まで管理してきた領地すら顕範にかすめ取られる有様だ」
具信はあぐらをかき、背を丸めた。
「我が領地は痩せ細るばかりだというのに、それを立て直すすべすら思い浮かばぬ」
具信はじっと手の内に収まる杯を見つめていた。一見静かなそのたたずまいのまま、目から一筋だけ、すっと涙が流れる。
「溝城は儂が育てた土地だ。領民が泥にまみれて土地を拓き、儂があくせく富を運んで繁盛させた土地だ。このまま廃れたでは、苦楽を共にしてきた土地の者どもに申し訳が立たんではないか」
「具信様……」
「これ以上、この土地が衰えるわけにはいかんのだ。儂は――」
「具信様!」
これ以上は、言わせたら駄目だし、聞いても駄目だ。そんな気がして俺は口をはさんだ。
「具信様、もし具信様が望むのであれば、俺がこの溝城の地を豊かにする方策をお持ちします」
口からついて出たのは、そんな言葉だ。
「半年、お待ちください。俺が持つ知識と技術で、この溝城の地を豊かにする方策をお持ちします。代金は借金を棒引きしていただければ構いません。まず案をまとめてお持ちします。それを実行していただき、成功すればそれでよし、もし結果が出なければお代はいただきませぬ、この銭も利子を含めて返しましょう。いかがですか?」
「……何が目的だ?」
胡乱な目をこちらに向けて警戒を露わにしていた。こんなタイミングで甘言じみたものを振られれば警戒もするだろう。
目的は、確かにある。
脳裏をかすめたのは、半年後、彼が起こすであろう出来事だ。
浪岡具信は浪岡御所当主・浪岡具運を殺し、彼もまた死ぬ。河原御所の乱の勃発だ。
浪岡家は衰退する。半年後にはそれが起こる。
当主と一族筆頭が共に死ぬ。浪岡という家にとって最悪の顛末が未来に待っている。それを止めなければならない、と今思ったのだ。
具信という人を死なせずに済ますためでもあるし、具運や、具運の妻であるあの明子様に危害が及ぶのも避けたい。
もちろん、未来の出来事を口にする事は出来ない。そもそも、今この時点で具信が何を考えているかもわからない、謀反を心に決めたか否かも分からない。
でも、彼の不満を聞いて、確信に近い何かが心をよぎってしまったのだ。
このままなら、この男はきっと謀反を起こすと。
「儂に取り入っても益はあるまい。それとも、己が野心の為に我が領を使いたいのか?」
野心。はじめて会った時も言われたな。そんな大それたものは持っていないけれども、けれどもやりたいことなら幾つもある。
具信を助けるのも、そのひとつだ。
「己が野望で人を救える可能性があるなら、俺は遠慮なくその野望に他人を巻き込みます。でも、その人が望まなければ巻き込んだりしないですよ」
未来でしか知られていない農業技術の普及なんて、もともと他人を巻き込まなければやっていられない。
でも、無理強いは出来ない。無理にやれと命じたって、人は従わない。農業は特にそうだ。農業が保守的と言われるのは、人の生存と生活に直結しているが故だ。新しい技術は農家も不慣れだし、伝授する側も土地の事情を全て把握することは不可能で、なにがしかのトラブルが発生しやすく、結果失敗することがある。そして農業はやり直しがきかない。新しい技術を拒否することを否定することなどできない。
「やる以上は全力を尽くします。この通り、目に見える実績も上げております。たとえ必要最低限の技術だけでも、今よりも溝城の地を多少は豊かに出来ると確信しています。もしできるなら、それ以上の事も」
保温折衷苗代を導入すれば、来年の天候次第にもよるが収量の増加などは見込めるだろう。だが、それだけでは一領地を豊かにするというのにはきっと不足だ。
だから他に案を考えなければならない。具信が謀反を思いとどまるくらい大きな成果が出せる案を。
「具信様は、たとえ夢想のような話でも、若人がそれを目指すというなら銭を出せますか?」
これも二年前に具信が言ったことだ。
俺はあの時の言葉が嬉しくて仕方がなかったのだ。恩義を感じるから、こうして助けるのだ。
昔と違うのは、具信が当事者になったか否かだ。
具信が俺に銭を貸したのは、しょせん他人事だからだ。それは別にいい、それで助けられたのだから。でも、自分が当事者になるのは意味が違う。
他人に己が領地の命脈をわずかでも預けることが出来るのか。
「……儂を試すか小僧」
「いいえ、試されるのは俺です。この件に関しては具信様は損をすることはないし、責を負う事もありません」
「だが、そなたの案を実行するとなれば多少なりとも我が領の人手を取るという事だろう」
「はい。その責任も、俺が持つという事です。具信様には、大げさな言い方をすれば、一時自分の領地を預ける覚悟がおありかだけ聞いています。俺は無理強いはしません」
正直具体的な案は、まだない。でも、こうでも言わないと、具信殿はきっと刃を御所に向ける。きっとそれほどまでに彼の不満は大きい。
「その覚悟に能うものを、きっとお出しします。ですから、たとえ不満でもしばしの間抑えてくださいませ。不満を形にするのは、俺の案を聞いた後でもよいでしょう」
思いとどまってほしい。そういう願いを込めても、そもそも伝わるとは思わないけど。
具信はこちらをじっと見つめる。淡としたその立ち振る舞いは、普段の彼からはかけ離れて、近づきがたいほど重々しい。
「……ならばその案とやら、見せてもらおう」
ふん、と鼻を鳴らして視線を先に外したのは具信の方だった。
「承知しました。さっそく石川に戻って準備して参ります」
「……入用であろう、持ってきた銭は持ち帰って構わぬ。返済はまだ待ってやる」
「ありがとうございます」
「我が領の為に使ってくれるのだろう。また貸し出すだけだ」
「それでも」
それでも、具信は自分にかけてくれるのだ。本当に優しい人だと思う。
「俺のような者に手を差し伸べてくれて、具信様には幾重にも感謝しております、二年前も、今も」
「……やめい」
具信は眉をひそめて顔を背けた。
事の顛末をかなり隠しながら金浜に報告して、具信への提案についてのみ金浜に話したら、金浜は「本当に勝手なことしますね貴方は」としこたま怒られたのだった。
浪岡大弼具信の家、河原御所は衰えていた。
それは、二十年三十年の長さでゆっくりと進んだものであり、具信が気付いた時にはすでに止められるものではなかった。
その契機は、南部と安東の勢力が日増しに大きくなっていったことだったろう。
具信が河原御所の当主に就いた頃の浪岡は、南部氏との関係がことのほか強かった。
それは、政治的な側面にとどまらず、モノやカネの回りという面において顕著だった。
蝦夷地、そして日本海を通じて送り込まれる幾多の文物・器物・文化が浪岡領の要湊、油川を通じて運び込まれ、その流れは奥大道や浜街道を通じて南部氏――特に宗家である三戸南部氏の本拠・三戸に流れ込み、その三戸との繋がりが浪岡に富を生んだ。
具信の支配する溝城の地も、その流れの一端に食い込み、空前の繁盛を遂げた。
良い時代だったと具信は思う。銭はよく貯まる。物も人も豊か。そんな時代だ。具信はその富の流れを正確に理解し、それに乗る形で領内のみならず浪岡全体を富み栄えさせた。父具永の下で油川の湊を整備し、寺社を勧進して市を開き、人を呼んだ。荷を扱う役人たちを育て、牛馬を、特に牛の数を揃えてどんな土地にでも荷を運べるように整備した。牛は馬に比べて粗食に耐え、野宿も可能で、山間部への荷運びにも強い。
それに陰りが生まれたのは、南部が勢力を拡大したからだと具信は理解している。正確に言えば、南部の勢力拡大によって富の流れが変わったのだ。
きっかけは、天文の半ば頃、三戸南部氏の本城――聖寿寺の御館とも呼ばれた――が火事で焼亡した時からだった。
南部氏は新城建設を始め、その後、三戸南部氏は岩手郡を手に入れた。それは新たな富の流れ――北上川の水運と三戸南部氏が直接繋がったことを意味する。
今まで富を吸い寄せていた城が消え、新たな領地と富の源泉が、今までの領域と繋がったことで、富の流れが徐々に変わり、浪岡と三戸南部を繋ぐ道筋は、相対的にその価値を落としていった。その影響を、溝城の地は大きくかぶってしまったのだ。
人が溝城に来なくなった。富も来なくなった。溝城は徐々に徐々に衰退した。具信はそれに気づいていたが、打つ手がなかった。一度離れた富を引き寄せる方法など、具信には思いつかなかった。人が来ないのは銭になる特産が無いからだ、とわざわざ上方から茶の苗木を持ち込んで栽培してみたり、漆仕事を奨励してみたが、茶はロクに育たずに枯れ、漆もはかばかしい成果を上げる事は出来なかった。
さらに痛手だったのは、代官として治めていた滝井の地も取り上げられたことだった。
滝井の代官職は、父の浪岡具永から与えられたものだ。具運は、それを没収し、露骨に具信の力を削ぎに来た。少なくとも具信はそう受け取ったし、実際として力を減らしたのは事実だった。
自分が日々軽んじられていくことに抗おうとしても、有効な手立てが打てぬままだった。武威を高めようと思っても、無理な軍拡はやせ細ろえた家がさらに弱るばかりで限界があったし、それで警戒され軽蔑されることはあっても浪岡家中での立場は変わらなかった。
家の見栄えをよく見せるための費えもばらまいて見せた。他国との繋がりは家の威信になり、富を呼ぶものともなる。それでも、他国の者を多少だます事は出来ても、内情を知る家中からは笑われた。
具信は焦っていた。そんな時に、少年と出会った。
鶴という、津軽郡代・石川家に生まれた少年は、浪岡家中が居並ぶ中で、『枯れる事のない新しい米を作る』と意味不明の事をのたまった。
少年の言葉を、具信は内心笑った。
「枯れる事のない米、そんなのは夢物語よ」
暖かければ伸び、寒ければ枯れる。草の道理に反するものなど出来るわけがない。それでも銭を出したのは、石川高信の歓心を文字通り買えると思ったからだ。それもいい加減費えとしてつらかったが、見栄で出した。返せなくなったらそれでもいい。石川にここぞとばかりに恩を着せればよい。
それすら家中の物笑いの種になっていたのには気づいていたが。
だが、少年――石川高信の息子・鶴丸は、結果を出してきた。
自分の大言壮語を実行し、新しい農事を提案し、実践し、そして豊作を生み出したのだという。
そして、父親である石川高信、あの津軽郡代にもその事を認めさせたのだという。元服前の身で。
はたと気づいた。自分はもしかしたら、奇縁を結んだのではないか、と。
「鶴殿は客間でお休みになられました」
鶴が出て行った後の部屋に、息子の顕重が来た。
「夜ふけまで子供を付き合わせたのだ、ゆっくり休んでいただけ。明日の朝も丁重にもてなすよう」
「承知しました。……父上、今鶴殿の提案を受けるのは、いささか厄介を抱えませんか」
「小僧の提案を聞くだけの事、何が厄介になるというか」
具信は首を振った。
「やることに変わりはない、感づかれぬように慎重に手はずを整えよ。もう商人には依頼をかけたか?」
「はい、既に上方に向かっているので、来春には戻ってまいりましょう」
顕重は少しだけ躊躇するように目をそらした。
「ここで彼が関わったら、彼に迷惑がかかりませんか? 父上、鶴殿を気に入られておられるでしょう?」
「…………」
否定はしなかった。顕重は正しく父の好む人となりを知っていた。そして、そういう者が自分のせいで不憫を蒙るのも好まないことも。
だが、具信はもう心を決めていた。準備も進めている。それを考えれば、あの少年の提案は確かに不必要だ。邪魔ですらある。このように具信に肩入れしてしまえば、事が起こった時に鶴が関与していたのだとの疑いが(鶴の意志に関わらず)かかってしまいかねない。
だが、彼の言葉を聞きたいと思ってしまった。
そんな風に心躍らせるのは、かつてひたすら領地の発展に心を砕いていればよかった数十年前の事を思い出してしまったからだ。
そうだ、少年の提案はもしかしたら準備の目くらましになるかもしれない。だからその提案を聞くくらいなら良いではないか。農事ひとつで溝城の衰退が解決するとは思えないが、農事が改善すれば自分がいなくなった後も領地が豊かになるかもしれない。
そんな言い訳をするくらい、彼は鶴という少年の事が気になっていた。