第29話 浪岡の変化
永禄四年(一五六一)九月四日
久々に向かう浪岡への道中は、冬が来る直前の穏やかな秋晴れだった。
返却分の銭と、あとは献上と売却予定の蜂蜜を荷車に積んで、麗らかな街道を進む。今回は前回通った街道ではなく、奥大道――奥州街道のさらに先に伸びた津軽の主要幹線を使っての旅路だ。こちらの道の方が道が広いため、荷車などが多いという事でこちらを選んだ形だ。
二十数人の護衛と荷駄を引く人足と共に街道を進む。今日のお付きは金浜信門と森宗弘宗だ。
「人が多いなぁ」
街道を行き来する人の多さは、前に通った街道と比べても差が見えた。
「今年は新屋八幡宮の御成りがありましたからな、貴賤が一目見ようと出かけておるようですな」
金浜が答える。新屋は街道の途中にある要所で、新屋氏という大光寺氏旗下の武士が領主を務めている場所だ。
「新屋殿も先年の飢饉で大変だろうに、よく造営したね」
寺社の造営というのはそれなりに銭がかかる。よく思い切ったものだ。
寺社の造営は経済効果も高いが、それなりに銭もかかる。色々な準備も必要になるので、有力とはいえ一土豪がなかなかすぐに手を出せる事でもない。
「何でも浪岡殿からの援助があったとか」
「ふ―ん、そうなんだ弘宗?」
「あ、はい。そうらしいです。最近、御所様は寺社の振興に力を入れているようでして」
「信心深いことだなぁ」
何も考えていない感想をこぼす。新しくなった八幡宮に参っておきたい気持ちもあるが、一応使者という立場なので寄るにしても後だなぁ。
「浪岡様は近年、大光寺氏の旗下とも良い御関係を築きたいのようで。このようによくご支援をしているのですよ」
金浜が穏やかにうんうんと頷く。なぜか弘宗がちょっと顔をこわばらせていた。
「近年は新屋殿のみならず浅瀬石と田舎館の両千徳殿、尾崎殿とも懇意であられるとか。様々な贈答を繰り返して好を通じているともっぱら噂になっております」
あー、つまり浪岡が最近大光寺に従う領主との関係を強化しているのか。石川としては気になる動きだろう。
弘宗は少し気まずそうにしていたが、やがて気を取り直したかのように話を変えた。
「……鶴様、何故借金を返すのに鶴様ご本人が行かれる必要があるのですか?」
まるで伺うような問いかけだ。
「? そりゃあ、直接顔を見て返した方が話が進むだろ? それに、農業技術を披露して協力を得たいって希望もある」
「……しかし、具信様ーー河原御所様は気まぐれな方です」
どこか心配げな、けれどもそれを言い出しづらそうな弘宗に首を傾げる。
なんというか、奥歯に物が挟まったような感じ、というやつだ。
何か口に出せないことがあるのかもしれない。彼は浪岡御所――浪岡具運から直接送り込まれた家臣だ。俺が知らない浪岡家中の事情を何か知っているのかもしれない。
考えられるとしたら……やはり具運と具信の対立に関することだろうか。だから具信と会う事を懸念しているとか?
その辺、問題ないなら素直に話してくれると助かるのだが。
「なんだ、何か言いたいことでもあるのか?」
弘宗を促すと、彼はやはり躊躇するように下を向いた後。
「実は最近、顕範様と具信様との間の境目争いに裁定が下りまして」
ほう、と俺と金浜は耳をそばだてた。
話によると、顕範――浪岡御所・浪岡|具運の弟さんだ――と具信の領地は隣り合っており、数年来、その境目で争っていたそうだ。それが顕範側の主張が認められ、具信は敗訴したそうなのだ。
よくある話だ。そして深刻な話だ。
武士の領地は命と名誉で得た財産だ。それをどんな形であれ寸土でも奪われるのは、武士が大事にする面子を傷つけるのと同義だ。
(もしかして、これかなぁ……)
今から約半年後に浪岡で起こるとされている事件がある。
河原御所の乱。
浪岡具信が浪岡城を襲撃し、浪岡具運を殺害する事件が起こる。浪岡北畠氏衰退の原因となった大事件だ。
その事件の理由は不明とされている。だが、この境目争いが原因の可能性はないだろうか――。
そんなことを考えつつ、自分の口は別の事を紡いだ。
「弘宗としては浪岡様と対立する具信様と会ったりしたら、心証を悪くすると思ってるわけだ」
「……はい。それに、家中の空気も少し粟立っているそうです」
弘宗は言いづらそうに少し躊躇してから、言葉を選ぶように言う。
「誰もが口には出しませんが、今回の件は具信様の〝敗北〟と受け取られています。これで具信様は家中で埋没するだろう、と。そんな相手に手を差し伸べるのは、どうしても目立ってしまいますし、浪岡家中の目を集めるでしょう」
負けた相手に手を差し伸べるのは、余計に事を荒立てていると見られる、ということか。
……嫌な話だ。ああもう、本当に嫌な話だ。
「今のところ、具信様に何か動きはあるのか?」
「いえ、今のところ裁定を受け入れ、領地を明け渡したという事です」
「なら問題ないだろう。浪岡の御所様は具信殿を訪ったとて気を害するような狭量な方ではなかろう。具信様とてその辺は分かっておられるはず」
他家の家中の状況など知った事ではない。人間が旧知の人間を訪って何の不都合があるというのか。
「そうですが、あと、その……」
「ん? なんだよ」
「……あと、鶴様と話が弾んで、何やら大きな話を鶴様が請け負ったりしないか、少し心配です」
「あのなぁ」
「確かに。鶴様ならあり得ますな」
金浜まで同意する。おいこら。
「森宗殿、何かあれば我らが止めましょう。頼りにしておりますぞ」
「そうですね」
金浜にそう言われて、弘宗は晴れない顔のまま苦笑した。
何事もなく浪岡につくと、その足でそのまま浪岡御所を訪問した。
目的は借金返済のための非公式の挨拶伺いとはいえ、御所を差し置いてその下にいる具信のほうを先に訪問するのは、さすがに相手に対して失礼にあたるし、いらぬ憶測を呼びかねない。珍しく強めの口調でそう主張したのは弘宗だ。
「表敬だけでもするべきです」
もとより挨拶回りはするつもりだったけれども、その言葉に従い、まずは浪岡御所を訪れた。
先触れを出していたため、金浜・弘宗と共にすぐに浪岡城内に通され、俺は二年ぶりに浪岡具運と対面した。
「鶴殿、活躍されておられるようだな」
浪岡具運は以前のように底深さを感じさせる柔和な笑みで鶴を出迎えた。
「活躍などと。まだ始めたばかりで形になっていないものをほめられるのは困ります」
前も思ったが、具運殿の前にいると見透かされている気分になる。まあ、実際弘宗を介してやっている事の大部分は知られているのだろうけど。
「だが森宗からも聞いたぞ、自分の田で平年の倍の収量を上げてみせたというは見事というてかまわんのではないかな?」
弘宗が浪岡にも報告をしているのは仕事だから当然としても、なんか変に書かれてないかが気がかりだ。
「この程度は学べば誰でも出来る事です。私の望みは、その技術を持続可能な形にして広める事、そして枯れぬ稲の基礎を作ることです。この程度で褒めるのはご勘弁ください」
「ほっほ、鶴殿はなんとも欲深い方であらせられる」
具運は笑みを深くした。
「鶴殿は世の理を見通せるのみならず、それを秘することなく広めようともするのだな」
なんかずいぶん褒められるんだけど逆に怖いんだが……。
「昔の具信叔父に似ておられるよ」
「具信様に?」
唐突に出てきた名前に首をかしげる。
「あの方も、この世の理に気付くのがとても上手であった。そしてその理を活かそうと奮闘しておられた。それを理解する者は少なかったがな」
まるで懐かしむような、独白のような言葉だった。どういう事なのか。
「鶴殿、世の人間というのは、自分の手の回りのことくらいしか理解が及ばないものだ。この」
具運は手元に置かれた白湯の入る椀を取り上げた。小品ながらツヤのある中国陶磁だ。
「これは唐国で作られ海を越えて運ばれてきたものだが、これがなぜはるばるこんな日ノ本の果てにたどり着くのか、その理を理解できる者は中々いない。具信叔父は、その流れを理解しておったよ」
何が言いたいのかよく読み取れないが、つまりは流通という概念を理解していた、という事なのだろうか。単なる気のいいおじさんにしか見えなかったが、だいぶ意外だ。
「だが、理を活かすのは難しいし、今までの理を変えようとするのはもっと難しい。叔父はそれで苦労していた。上手くいかなければ、すぐに別の道を探すこともきちんと考えねばならんぞ」
「……ご忠告、謹んで受け取ります」
「忠告などではないよ、前途ある若者が潰れるのは見たくないのでの」
目をすがめてそう言う具運に居心地の悪さを感じる。年長者が下の者を見守る時の視線だ。
「この後具信叔父の元にもいくのかな?」
「はい、今年の結果を報告しに。なにせ、私は銭を借りた身なので、借金取りに説明する義務があります」
あけすけな物言いに金浜の咳払いが入る。具運はくつくつと笑った。
「左様か、具信叔父も喜ぶであろうよ。叔父は鶴殿を大層気に入っておられるからな」
具運は、ふいにため息の様なものを吐いた。妙に気弱に感じられるその仕草が、少しばかり印象に残る。
「あまり強くは言えぬが、具信叔父との貸し借りは早めに精算されるとよろしかろう。銭の貸し借りは長引くといらぬいざこざに巻き込まれたりするでの」
妙な言葉だ、と思う。具信からの借財を認めたのは具運その人だというのに。
弘宗から聞いた、浪岡の内情を思い出す。どう言葉を返そうか迷って、結局何を言うでもなく俺は頭を下げた。
河原御所の館は浪岡から少し外縁に行った場所にあり、あの具信の屋敷らしく堂々とした構えをしていた。
門から館に入ると、だだっ広い野原の様な曲輪の中に、立派な建物がぽつぽつ立っている。荷運びのためだろうか、牛が何頭も見えたのが特徴的だった。
「久しいの、鶴殿!」
具信は自分の屋敷で鶴を出迎えた。
「ちょうど暇しておってな、話し相手が欲しかったところよ」
そう言って彼はさっそくこちらを謁見の間に案内する。既に少ないながらも酒肴が壁際に並べられており、宴会する気満々だった。
「さ、今回も何か酒を持ってきてくれたか?」
「では、まずは堅苦しい話を先に済ませてしまいましょう」
逸る様子の具信に苦笑しながら、まず木箱に金浜を通じて差し出す。
その中身は、百文の銭を紐に通してひとつづりにした、いわゆる緡が三十本分、三貫文だ。それを十緡ずつ布にくるんで箱に納めている。これだけの銭になるとなかなか重い。一番上には、銭の金額が書いた返済証書が入れてある。
「まずは借財を幾ばくか返させていただきます」
「銭か、これは御身が言っていた農事の成果か?」
「はい、お納めください」
具信は布をめくり、それから証書を読んで、あからさまに渋い顔をする。
「なんだ、たったの三貫文か。これでは利子分にもならんぞ」
あけすけすぎる態度にさすがに金浜が顔を少ししかめる。まあ、ここからが本番、そういう態度はむしろ望むところだ。
「ええ、実のところを言えば、これの他に三十貫文ほど持ってきております」
「なんだ、先にそれを言わんか」
「ですがこの三貫文、ただの三貫文ではありません。ですから別にこれを差し出すのです」
「どういう事だ?」
「この銭は、俺が直接耕して取れた水田の、増収分の米を売り作ったものです。今年は一町――十反で合計十七石ほどの米が取れました」
「十反で十七石! それはまたよほどの上田だな!」
「いいえ、上田ではありません、せいぜい中田です。平年は一反一石採れればよいほうでしょう。赤米も作りましたので、これでも少ない方です」
「……どういう事だ?」
「つまり、中田で上田以上の収穫を得たのです、私の考案した方法によって」
うわー自慢してるなぁ、と気恥ずかしさすら感じたのだが、実際に成果は出たのだから胸を張って言う。それに、スポンサー相手には多少成果を誇示する必要だってあるだろう。
具信は目を丸くしていた。
「その作徳分でこれほどの銭を手に入れたのです、たった一町の田んぼで」
「まさか……」
「お疑いなら物成の台帳をお見せしましょうか?」
「いや、偽りを申しておるとは思わぬが……いや、しかしにわかには信じがたい」
「以前言ったでしょう、俺は新しい米を作ると。そしてそれは米の作り方も変えるものです。米の作り方を変えるだけでも、これくらいは増収するんです」
まあ言いすぎだけど。
もちろん米の作り方も大事だけれども、実際にはその田んぼの土の状態だったり品種だったりというのもかなり影響してくる。うちの品種は比較的対肥応答性が高い――多く肥料をあげても徒長しづらく、健全に生長するタイプの稲が多い。それが今のところ上手くいっている、という事だ。これを持続させることこそが重要なのだ。
「私は今年から石川領内の蔵入地(直轄領)の農業指導を任されています。我が父、石川左衛門にも成果を認められ、既に幾らかの農家からも問い合わせを受けています。以前より大規模に農法を試すことで問題を洗い出します。そしてさらなる増収分のうち、作徳の幾分かと年貢の一部は私が使えるよう父に取り計らってもらっています。来年が平年通りの天候ならば、それなりの収穫増を見込めます。その分で具信様への借銭を返すことが出来ましょう」
まだ収穫を得ていない時から来年の見通しを語るというのも正直採らぬ狸の皮算用だし危険ですらあるのだが、それだけの自信があった。
この時代の品種であっても、適切なインフラ整備をして適切な育て方をすれば、安全な増収は可能――それを確信したからだ。
具信は、茶化すような態度をひっこめ、盆に置かれた銭を凝視した。
「……本当に、これだけの収穫を上げたのか」
「はい」
俺はさらに言いつのる。
「石川領は全体で四百町ほどの広さがあります。これが全て同じように三貫文分増収したとしたら、千二百貫文もの増益になります。もちろん、全ての田んぼに自分のやり方が適用できるわけではないし、土地土地によって向き不向きは必ずあるので、そんな単純な話ではありませんが、それくらいの将来性があることなのです」
あまりに大言壮語が過ぎる。けど〝スポンサー〟相手にはそれくらい大げさに語るくらいじゃないと。
「……将来性、というが、しかし、それは持続可能なのか? そんなに採れるようになったら、土が痩せて将来的にダメになったりしないのか?」
そこはよく懸念される部分だった。
稲は成長すれば成長するほど、土から養分を求める。稲が栄養を増えれば増えるほど、土は痩せる。中世どころか化学肥料の施肥が常識となった現代の農家にとっても、土痩せは悩みのひとつだ。
農家、とくにこの時代の農家には、収穫量よりも安定した収穫のほうを求める傾向がある。いつ何時、危難があるか分からない戦国の世では、それは正しい態度だ。
そんな彼らを納得させるためにも、田をなるべく痩せさせることなく増収を目指す方法を追及しなければならないのだ。
「きちんと肥料を与えて土を作れば大丈夫です。もちろん、その田んぼによって必要になる肥料、不足する肥料は違います。それを見極めながら土を作っていかねばなりません。それは時間のかかることですが、幾つか準備を整えていけば、たとえ増収しても土が駄目にはなりません」
この時代の肥料は刈敷や藁などの草木やそれらを焼いた灰、それにいわゆる糞尿を発酵させた人肥などが、いわゆる農家が自前で確保できる銭がかからない肥料だ。もちろんそれだけでは養分は不足になりがちなのだが、そういった肥料を投入するだけでもやはり違う。他にも自前で生産できる肥料は幾つかある。自活できる肥料の生産を増やし、さらに金肥――有償での肥料の生産も増やしていき、出来るだけ持続可能な農業生産を目指すのだ。
〝現代〟のような量の化学肥料を投入する事は出来ない。あれは〝現代〟の技術と経済規模によって初めて達成できるようになったことで、中世ではそれを再現するなど望むべくもない。
だからこそ、この戦国の肥料事情を少しでも改善することには意味がある。
まあ、言うは易しだが、手段はあるのだ。それをこの時代で出来る方法で確立するのは意味のあることだろう。
「……それを含めて、新しい米を作る、という事か……」
具信はわずかに押し黙って、銭の金額が書かれた紙と銭を見比べる。
「……いや、素晴らしい成果だ。事実であれば、とんだ豊作ではないか、鶴殿は、凄いな……」
そう言う具信の姿は、なぜか動揺しているようだった。
「……なあ、この技術、我らにも教えてもらう事は出来ぬか」
重たそうな口を開いて、具信はそう漏らした。
「この農事の術があれば、常よりも豊作になるのだろう? この技術、教えてもらうことは、出来んか?」
陽気で剛毅を装う男には似合わぬ、気弱げな態度だ。ふと思う。
(探れないか)
具信は将来、謀反を起こす。その理由や動機は記録には残っておらず、何故謀反を起こしたのか、というのは分からないのだ。
農事の話にかこつけて彼の内情を聞き出し、それを知れれば、謀反を止められるかもしれない。
こちらが押し黙ったのを拒否と受け取ったのか、具信殿ははっとしたように顔を上げた。
「いやいや、埒無い事を言うた、聞かなかったことにしてかまわぬぞ」
「具信様」
俺はニコリと笑って荷物に入れていた酒瓶を取り出して振った。
「何やら事情があるのでしょう、せっかくですから、気楽に話しませんか? 口外は致しませぬゆえ」




