第15話 田植え
永禄三年(一五六〇)三月二十五日
それから、ちょくちょく苗代を確認しながら十日が過ぎた。
油紙の管理は単調だが気が抜けない。天気が良い日だと油紙の中の温度が高くなりすぎて苗が焼けてしまう事がある。その場合は油紙をめくって空気を軽く入れ替えてあげなければならない。こまめな管理は手間だが必要な労力だ。それに、風で飛んできたものに油紙が破られることもある。それがあれば補修する。
その作業は兵六が買って出た。兵六は保温折衷苗代に並々ならぬ興味を持ち、忙しい農作業の合間を縫って俺の借り上げた田んぼの苗代を確認しているようだった。
「鶴様、葉が出てら」
兵六の報告に、小走りに田んぼへ向かう。
油紙の端をそっとめくって確認する。
小さな小さな、爪の先のような葉が出ている。思わずにんまりと笑顔が浮かんだ。
「よし、よし、よし……」
ふつふつと胸に喜びがわく。
この時代で、第一歩を踏み出せた。その実感がわいてきたのだ。
正直言えば不安だった。未来の技術が、この時代で再現できるか。
だが、ここに生えた稲が、きちんとそれを証明してくれている。
「早えなぁ、それにきちんと芽が揃ってらじゃ」
兵六のかすれた声がする。普通の苗代ならもっと遅く播くし、もっと時間がかかる。それでも天候によっては生長が遅延してカビがわいたりするのだが、今年の天候は急に寒くなるようなこともなく、上手に出来たようだ。
「順調順調。一・五葉くらいまで伸ばしたら油紙を外して、五葉か六葉くらいまで伸ばしていこう。多分三・四十日くらいかかるかな」
苗には生長するに従って増える葉の数や大きさで幼苗・中苗・成苗に分けることが出来る。寒さに比較的強いとされるのが五~六葉まで葉が増えた成苗で、育成期間はかなりかかる。今回はなるべくしっかりした苗を作る、という事で成苗を作ることになる。いずれは幼苗や中苗でも植えてみたい。
永禄三年(一五六〇)四月十日
旧暦の四月中旬は“現代”の暦で言えば五月初頭くらいになるだろうか。その頃にはまだ風は冷えるが気温は暖かくなっていく。戦国時代は寒冷期にあたるそうだけれども、それでも陽光が暖かく感じられるようになれば稲の生育には十分だ。
というわけで、今日は苗代から油紙を剥がす日だ。
二重の油紙を丁寧にはがしていく。ひと月近く苗を守った紙はさすがにへたっているが、苗はしっかりと根を張り立っている。
青い稲が外気にさらされ、緩やかな風になびく。
離れた他の田んぼを眺めれば、そろそろ苗代を作りはじめるかはじめないか、という時期だ。やはりこちらの田んぼは図抜けて早い。
田んぼを作るために人が出てくる季節だ。長く閉ざされた冬が終わり、穏やかな中にも人の動きを感じることが出来る、そんな季節。“前世”の事を思い出す。
「……この時期はどこの時代も変わらないな」
水を引き入れて苗代に水を満たす。
まだまだ気の抜けない時期は続く。俗に『苗半作』という。苗作りがその年の米作りを決めるほど重要であることを表現した言葉だ。これから寒さがぶり返して苗の育ちが遅延したり、苗が必要以上に伸びすぎてしまったり(徒長という)と様々なことに注意しながら苗を作らなきゃならない。
そして時期になれば稲作におけるメインイベント――田植えだ。
永禄三年(一五六〇)四月二十八日
数日前に一度水を抜いた田んぼを眺める。
「やあ、雑草が生えてねえな」
兵六が見やるのは冬の間から湛水してきた一区画の田んぼだ。冬季湛水していた田としていない田を比べると、していない方の田はパヤパヤと雑草が生えている。これを放っておくとえらいことになるので、どんどん処理をしていかなければならない。雑草 is 敵。
冬季湛水田の泥を掻く。表面はトロトロの泥状になり、それを掘るとうねうねとたくさんの糸ミミズが掘り出される。
「冬季湛水の効果のひとつだね。あんまり湛水期間が短いと効果ないんだけれど」
冬季湛水すると、本来田んぼの表面近くで発芽する雑草が泥に埋まって発芽しなくなる。雑草の種類によっては普通に発芽するものもあるのでどのみち除草は必要になるのだけれども。
「早乙女たちはそろそろ集まりまさぁ。三反程度ですのでそんなに多くねえども」
この時代、女性の多くは他の仕事に従事していて、稲作に従事する割合は現代人が思うより実は少ない。だが、それでも作業に参加する場面はある。田植えはまさにその代表だ。
田植え機が存在しない前近代の田植えは、苗を一つ一つ手に取ってひたすら田んぼに植えていく、とにかく人手がいる重労働だ。特に慢性的に人手が不足している奥羽地方は、こういう時男女の選り好みなどしていられない。村々はそれぞれ『結』と呼ばれる共同体を作り、田植えの際は一致協力して人手を出し合い田植えを進めていくのだ。
そして田植えが終わればちょっとしたお祭りが行われる。
村での共同作業になるため、田植えは勝手な時期に出来ないのだが、その辺の調整は兵六がやってくれた。それに自分たちの田は他よりも早いため、人を集める事が容易だった。
「じゃ、早乙女がたが来る前に作業しちゃおう」
俺と兵六は、太めのひもを田んぼの端から端ににぴんと持って、田面に沈めて跡をつけていく。縦方向に印をつけ終わったら、今度は横方向に、跡で幾つもの長方形が出来るように跡を刻んでいく。
それが終わるころに、村から数人の女性が来た。
「兵六さ、来たどー」
晴れ着に着替えて華やかな早乙女たちが手を振ってくる。誰もが若い女性たちだ。
「今年はずいぶん早く植えるんだねぇ、苗は枯れてないのかい?」
代表の、三十半ばほどの女性が兵六に来やすく声をかける。
「ほれ、見てみろ」
兵六が苗代を指差す。
苗代から抜かれた稲が、幾つかの束にされてまとめられている。その稲は立派な大きさに育って青々としている。
「あやー、立派でねえの。よく育てられたなこれ」
代表の女はうんうんと頷き、それから俺に目を向けた。
「あんれまあ、この童っこが鶴様ですか? めんけえこと」
ずいぶんにこにこと人懐っこい態度だ。兵六がしかりつけるように言う。
「石川様の御子だ、あんま粗相するでねえぞ。あと鶴様の言う事ばきちんと聞けよ。お殿様からのお指図と思え」
「「「「はーい!」」」」
若い女性が多いからか、元気がありあまっている感じだ。早乙女たちを一目見に来た暇人ども――もとい若い男たちもぱらぱらと集まってくる。
俺は早乙女たちに頭を下げた。
「石川左衛門の息子、鶴と申します。今日はよろしくお願いします。早速ですが、今日の手順は少し特殊ですので解説します」
集まってきた田植え担当を前に、俺は手にした太い縄と田んぼを指し示す。
「まずこの縄で田んぼに線を引いて、それぞれ四角の枠が出来ています。その枠の真ん中に苗を植えてください。苗を二つや三つ植えたり、真ん中からずれて植えないようにしてください」
「はあ……分かりましたども、これにどったな意味があるのすか?」
「それに、四角にひとつだばスカスカにならねえすか?」
この時代は特に決まったこともなく目分量で植える乱雑植が主流だ。それに、ある程度密に植えるのが基本になっている。自分のやり方はそれに逆行する方法なので奇異に感じられるのだろう。
「これは正条植と言います。乱雑に植えるよりも正条植のほうが稲が均等に育ちますし、無駄なく苗を使えます。それに、風通りと光の当たりが良くなり、その分育ちが良くなります。スカスカに感じるかもしれませんが、きちんと植えれば今まで以上に稲が育つので十分なんです」
さらに言えば除草の手間も減る。特に除草具が揃えばその効果は飛躍的に高まる。何とか作期中には本格的な除草具を作っておきたいところだ。
「おめら、鶴様は子供だが稲の事は俺よりも詳しい。きちんと指示に従えよ」
「米作りの上手の兵六さがそこまで言うのか……」
「苗がこったに――いつもならもっと遅くなるのにこれだけ早く植えることが出来たのは、鶴様のおかげだ」
代表の女――タカメと名乗った――が目を丸くする。
兵六が周りを見回して、まるで宣言する様に言う。
「この田は鶴様がこれから儂らの田を豊かにするために色んな事を試すための田だ。ここで出来上がったことが、後々俺たちにも作徳をもたらすことになるかもしれねえから、しっかり働いでけろ」
早乙女たちの歌う田植歌が穏やかに響く。
合計して三反を少し超す程度で、規模としては大きい田とは言えないが、それでも手植えでやるには時間がかかる。
俺と利助とヨシは早乙女たちに束にした苗を投げ渡していく役だ。まだ春先の冷たい泥水の中での作業は体が芯から冷えてくるのだが。
ぺたぺたずぼずぼと泥の中を歩くこの感触。
ああ、久々の田植えだ。
「兵六さ、こっちの田んぼ、あまり沈まんで作業しやすいね。服も汚れんで助かるよ」
タカメさんが笑う。この辺は腰まで沈むような強湿田もある。乾田効果がそれなりに出ているようだった。
「そっちの田んぼはまだ沈みやすいから気をつけてください」
俺は冬季湛水していた田んぼをさす。あちらは特に田を乾かしたわけではないので土壌自体はドロドロだ。
田植えは順調に進んでいく。
「鶴様、ずいぶん手際いいねぇ。本当にお武家の人なのかい?」
「きっと前世は農家だったんですよ」
「前世? なんだいそりゃ」
タカメさんとほかの早乙女たちは冗談と思い笑った。
やがて、田植えが終わる。
一面に植えられた苗を見る。まだ成長していない小さなそれは、広い田んぼに植えるといかにも頼りなく弱々しい。だが、四か月もたてばここは稲穂に埋め尽くされた豊かな景色に代わる。そこまで稲を育てていかねばならないのだ。
「頑張りますか」
俺は曲がった腰をぐっと伸ばした。
不意に、人がざわめいた。
そちらを見ると、年かさの大柄な武士が、供に案内されてこちらに近づいてくるところだった。
その男はこちらを見ると、不敵に笑った。
石川高信。
この地の支配者だ。