第14話 篤農家たちの知恵
永禄三年(一五六〇)二月二十八日
そろそろ日が暮れようという頃やっと城に戻ると、金浜が渋い顔で声をかけてきた。
「鶴様、楡喜三郎の書状を持った男が、鶴様を訪ねてまいりました」
久々に聞く名前に目を丸くする。楡――利助とヨシを売っていたあの人買いだ。
「どんな人間だった?」
「なんというか、恰幅のよい職人風の男でした。楡のお付きの牢人と一緒に来たのですが。いったん帰らせました」
職人風、という事は見つかったのか。
翌日、さっそく男が待つ城下の宿に急ぎ飛んでいった。
「おー、御曹司様」
市の入り口で、背の高い武士が手をあげる。楡のお付きをしていた牢人だ。
「久しいな、権四郎殿。楡殿は?」
「旦那は今西国で人集めしてるさ」
「手広いな」
「人の居る所から人の居ない所に人を売る仕事だからな」
「あんまりあなたたちが稼げないことを祈るよ。で、依頼のは見つかったのだな」
先日、利助とヨシを買った時に依頼したものだ。もっと時間がかかると思っていたが、ずいぶんと早く見つけてきてくれたようだ。
「ああ、腕は保証するぜ」
「奴隷じゃないだろうな?」
「それでもよかったんだが、違うぜ。旦那が仕事にあぶれた奴を探し出したんだ」
おいおっさん、と見張りの武士が呼ぶと、のっそりとした寸胴の男が顔を覗かせた。腕も足も太く、ダルマのような体に、男臭い顔つきの頭が乗っかっている。
「……なんだぁ、本当に子どもなんだな」
胡散臭い風体の男は、胡散臭げに眼を細めた。
まあ、子供が自分を雇うなんて言うのであれば、怪しんでも仕方ない。
「はじめまして。この地の領主、石川高信が一子鶴と申します。元服前の若輩者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
なるべく丁寧に対応する。彼は俺が今一番欲しい人材だ。
「崎部藤八郎、生国は山城。紙職人だ。あんたが俺を雇ってくれるっていう奇特な方か」
紙職人。これこそが楡喜三郎に頼んだことだった。
「ええ、ちゃんと自分の懐から雇い代は払います。この土地はちと寒いかもしれないが、厚遇は約束するし、作ったものを適正に買い取ることも約束します」
自分が手持ちのなけなしの銭をこの男に使うことになる。それくらい重要な仕事だ。
「わざわざ陸奥くんだりまで来たんだ、今更仕事をしたくないなんて言わないが」
崎部は首をかしげた。
「紙職人が必要なんて、武家さんにしては珍しいな」
「紙は武家にとって必需品だよ」
「それにしたって、最初は武具を欲しがるもんだ。紙職人なんて二の次だ」
「俺の場合、作ってほしい紙は少し特殊な用途だからな」
「特殊? そんなに特殊な紙が欲しいのか?」
「ああ、いや違う違う。紙の種類自体は別に特殊じゃない」
「それって、別口で買い付け頼んでたやつか?」
権四郎が口を挟む。
「ああ、買ってきてくれたか」
「買ってきたぜ、依頼の通り、出来るだけ大きくて色んな種類のをな」
よかった、とため息をつく。実のところ、当座で必要な分は既に買っていたのだが、それとは別に実験用に使うものが欲しかったのだ。
これで自分が望む事がひとつ、出来るようになる。
崎部に自分のオーダーを告げる。
「油紙を作ってほしい。大きくて、丈夫で、保温がきく油紙を、出来るだけ多く」
永禄三年(一五六〇)三月十日
この時期になると雪深い津軽でも平野部は雪が消えてくる。そうなると冬の間に壊れた畦の補修や用水路の清掃、さらに苗代田の整備が進められることになる。特に自分の田んぼは他よりも早く植えることになるので、それらの作業は他よりも早く急ピッチで進めなければならなくなる。
今回は銭で人を雇って自分たちの分の代掻きは済ませてしまう。幸い、他よりも早め早めの作業だったため、石川城廻りの村から若い衆を雇うことが出来た。田んぼの漏水を防ぐため、かなり念入りの代掻きだ。
畦に泥を塗り塗りするの、結構楽しいのだけれどもさすがに機械も使えないこの時代、重労働だ。
手はマメだらけになって、すぐに潰れて痛いこと痛いこと。
田から重い泥を持ち上げ、ひたすら畦に塗っていく。旧暦三月半ば、徐々に雪は融けてきたとはいえ風はまだまだ寒く、泥は冷たく重い。筋肉痛に蝕まれる体に容赦なく染みてくる寒さに耐えながら、延々と作業を続けていく。
畦や用水路の補修を終えれば、次は苗代田の準備だ。肥料となる大豆粕を撒き、鍬で荒く土を砕いた後に水を流し込み、平たく長い板が横につけられた農具――柄振で代掻きをして土を均し、畝のように少しだけ苗床を高くし、周囲に溝を掘る。
「珍しい形の苗床ですな」
兵六が首をかしげる。
「この形が必要なんだよ。種もみを播く直前にまた一度代掻きする」
これが終われば、後は種もみを蒔く準備だ。
「苗を作るには、ずいぶん早くないですかい?」
兵六が眉を下げた。時期的にまだ寒い。今催芽をしてもせっかく出た芽が寒さにやられてしまう可能性がある。さすがに不安になったらしい。
「大丈夫だよ、ちゃんと方法はある」
永禄三年(一五六〇)三月十五日
催芽を行った種もみは、俗にハトムネ状と呼ばれるふくらみを持つ。発芽した本当に直後、という感じの状態だ。
「おお、今回は綺麗に発芽したな」
見たところ、九割方は綺麗なハトムネになっている。今回はうまくいったようだ。
催芽に限らず稲作は、ちょっとしたことが失敗の要因になる。なかなか気の抜けない作業だ。
「ほとんどの種もみが発芽している……」
兵六が驚きの顔で種もみを凝視している。塩水選など種もみの選別しなかったり、あまり冷たい温度で浸種すると、発芽率はどんどん落ちていく。この時代は冬の冷水で長時間浸種することが多いので、これほど綺麗に発芽するのはなかなか見られないだろう。
「立派なもんだな。さ、持っていくぞ」
種もみをまとめて持っていく。
兵六・利助・ヨシらと共に田につくと、崎部が荷物を抱えて待っていた。
「持ってきたぞ」
「鶴様、この方は?」
「紙職人の崎部殿だ。今回の苗代づくりに必須のものを持ってきた」
崎部が、背丈ほどの長さの棒に巻物状に巻きつけられたそれを見せる。
「……油紙?」
それは、油紙だ。しかも伸ばして広げるとそれは畳のように大きい。
「油紙を、一体全体どうやって使うんですか」
「種もみを播いた苗代の上に、この大きな油紙を張っていくんだよ」
兵六たちは目を丸くした。
これが今回の技術のキモだ。
「なんでか、わかるか利助?」
利助に話を振る。今まで様々な稲の話をしてきた利助にならたぶん伝わるだろう。
「……稲は寒さに弱い。まだこんなに寒い時期に苗代を作っても枯れる可能性がある。けど、鶴様はこれで苗代を作るという。ってことは……」
利助が挑むように言う。
「……この油紙は、苗にとっての、寒さをしのぐための服みたいな物じゃないかと思う」
「正解!」
俺は納屋からあらかじめもみ殻を燻蒸して作った黒い炭――もみ殻燻炭を持ってくる。
「これを種籾を蒔いた苗代の上に撒く、そうするともみ殻燻炭は熱を発する。上に油紙を覆いかぶせると、油紙の中は温度が少し高くなる。その分だけ苗はどんどん成長を促されて伸びていき、早く植えられるんだ」
畑を作る時に、作物を早く育てるために土壌を発酵させると熱を発する。いわゆる温床というものだ。この育苗はそこからアイデアを得たものだ。
「なるほどなぁ、理屈はきちんとあるんだな」
崎部は感心したように言う。
「崎部殿、貴方にはこの苗代に張る最適の油紙を追求してもらいたい。それが出来れば津軽の、いや、この奥国の田んぼすべての苗代が貴方の紙を必要とするようになる」
「はは、ずいぶんと大きく出るな」
「それだけ将来性があるってことさ」
さすがに大言壮語ではある。けど、今後紙の需要が高まるのは必然なのだ。その需要を満たす、安価で丈夫な油紙が絶対に必要になってくる。
「……本当にうまくいくんだべか」
不安そうなのは兵六だ。
一見すれば油紙を張った程度のもので、いかにも頼りなく感じるかもしれない。
「兵六、まずはこの苗代がどうなるか見ていてほしい。その上で判断してくれればいいから、今は手伝ってほしい」
「そりゃもちろん、あんなこと言った手前手伝いますよ」
兵六はぎこちなく笑った。
初めて見る技術に不安になるのは自然な心理だ。どんな技術でも、それを導入する時は抵抗がある。誰だって新しいやり方をして損をしたくないし、特に米作りは失敗したら自分たちの生存にも関わってくるのだ、不安に思うのは当然だ。
自分はそれをひとつひとつ実績と言葉で払拭していかなければならない。
「じゃ、はじめようか」
「あまり厚く播くと成長が遅くなる。薄播きでいいからな」
利助とヨシに播き方を指示していく。この時代は、比較的厚播きする傾向がある。だがあんまり厚播きにすると根の広がりが弱くなり良くないこともある。播きの厚薄はその目的に沿って決めるが、今回はこの時代にしては薄蒔きの傾向で行くことにした。本当は均等に撒けるような道具も作っておくべきだけれども、今回は時間が無かったので次回に回しておく。
苗代に種もみをまき終わり、上から柔らかく軽く押しつけ、その上から薄く土をかぶせる。その後、もみ殻燻炭をこれもあまり厚くならないようにさっと撒いていく。
苗代が燻炭で真っ黒になる。その上に畳のように大きな油紙を広げて苗代を覆っていく。紙の端は泥と木の枝で留めて、苗代が袋状に覆われるようになるよう加減していく。その後、さらに笹竹の枝を苗代の上に半円状になるよう渡していき、その上にも油紙を張っていく。本来はビニールを張るのだけれども、この時代にそんな便利なものは無いので仕方ない。ああ、透明なビニールが恋しい。
それが終われば、田舎でよく見るトンネル状の苗代の完成だ。
全部張り終わったら、畝の横に掘った溝に水を流し込む。
「これをやるとスズメに種もみを食われることも少なくなる」
「こんな苗代、見たことないぞ」
利助がへぇー、と面白いものでも見るかのように――そしてそれは実際奇妙に見えるだろう――苗代を見ている。
「まずは溝にだけ水を貯めて、ある程度生長したら灌水させて生育させる」
「だども、こんな寒い時期にやったら苗が腐れねえですか?」
「腐れない。油紙の中は暖かくなるから、寒さに根がやられることも少なくなる。生育した後は稲が水につかるくらい灌水させれば、外気より水温のほうが暖かいからそのまま水が稲を保護してくれる」
あまり水が多すぎたり、油紙の中が蒸れすぎたりしても失敗するのだけれども、そこは経験だ。
「どれくらい生育が早まるんで……?」
「その年の天候や油紙の保温がどれだけうまくいくかによるけど、恐らく半月、うまくいけば二十日くらいは早まると思うよ」
「二十日も……」
兵六が震えた。その意味を正確に理解したゆえの震えだった。
門外漢から見ればたった二十日と思うかもしれない、だが、稲を作る者にとってそれだけ早く稲を植えられることの重要性を、兵六は知っている。
俺は先人の発明に感謝する。
これがあれば、飢饉にあっても犠牲はほんの少し減る。収穫も増えるだろう。
「保温折衷苗代。寒冷地で米を育てるのに必須の技術だ」
東北地方を含む北日本においてよく言われる言説に『北日本は稲作の北限であり、そこで無理に稲を作ったために飢饉が起こった』というものがある。その言説は一部正しい、が、正確でもない。
また、『寒さに強い稲の品種が誕生するまで、東北では飢饉が起こり続けた』という言説もある。これも正確ではない。
様々な対冷品種が誕生した“現代”においても、地域によっては稲が全滅するような冷害は起きている。にもかかわらず、何故東北地方の収穫量は格段に増え、北海道のような稲を作れなかった寒い地域にまで稲作は北進したのか。寒冷地である東北や新潟、あるいは北海道は全国トップクラスのコメどころとして君臨しているのか。
それは、決して品種改良に留まらない、技術と流通の発達ゆえに他ならない。
そして、この保温折衷苗代はその発端となるもののひとつだった。
昭和十七年(一九四二)、長野県の篤農家・萩原豊次らが発見し確立したこの育苗法によって、北日本、いや、日本中の稲作は劇的な変化を遂げた。
江戸時代の東北、とくに津軽を含む北東北の稲作は、端午の節句後――新暦に換算すれば六月中旬頃から末にかけて田植えを行い、寒さが到来する十月のぎりぎり、場所によっては十一月まで稲を育てて、あわただしく収穫をしていた。
明治になっても、田植え時期は多少しか変わらなかった。少しでも気候がずれて寒い日が続いたり、早く寒さが到来すれば、稲はダメになってしまう。もっと早く植えようにも、寒さが長く続く気候では苗を育てるのも遅くなる。農民たちは綱渡りのような稲作を続けていたのだ。
保温折衷苗代や室内育苗などの早植え技術の発展によって苗を早く育てられるようになり、二週間から一か月の早植えが可能になった。これによって、稲の生育が遅れることによって起こる遅延型冷害をある程度避けることが出来るようになった。
さらに、稲の生育期間が延びる事で収量が向上した。
保温折衷苗代は『稲作の革命』とまで呼ばれることとなった。それほどまでにインパクトを起こした技術だった。
そしてその原理自体は、この戦国時代でも再現可能なのだ。
温室ハウス育苗など、技術がさらに発展した“現代”では使われることも少なくなった技術だ。だが、温室ハウスが簡単には作れないこの時代にあって、これは一番素早く再現することができる最新技術となる。
広げた油紙をじっと見つめていた利助が、ぽつりと聞いてきた。
「なあ……この技術があれば、冷害で稲が枯れなくても済むのか?」
切実で真剣な響きだった。
だから俺も真剣に応えた。
「いいや、無理だ」
「おい!」
「この技術が広まれば、今までよりは遅延型冷害を多少避ける事が出来るし、収量だって増えるだろう。でも、これだけで冷害がふせげるわけじゃない」
早植えを実現できれば、成長期に冷害が発生する時期を避ける確率は高まり、成長する分だけ、冷害への耐性も強くなる。だが、それだけでは自然の脅威には対抗できない。
現代においてすら、稲作は冷害を克服“できていない”。いかに対冷品種が発達しても、ヤマセがあまりに長期間に渡れば成長は遅延するし、受粉障害を引き起こす障害型冷害も起きる。技術は万能じゃない。
実際に冷害が起きた時に、どれだけ稲を成長させることが出来るか、その時に取れる対策がどれほどあるか、それが稲の命運に関わってくる。保温折衷苗代は、冷害対策としては、数あるうちの一つに過ぎない。
「でも、被害を減らす事は出来る」
そもそも、この時代この地方の田植えはあまりに『遅すぎる』のだ。植え付けが遅いし、生育期間も短いから稲がひ弱なまま寒さに晒される。
それを平常程度まで早め、伸ばすこと。これがまず必須なのだ。
冷害で全ての稲が枯れ果てるのと、一割二割でも生き残るのとでは、意味が全く違ってくる。
「この技術だけじゃない、色んな技術と対策を積み重ねた上に、冷害に負けない稲が出来るんだ。お前にやってもらう稲の品種改良もそのひとつだ」
俺は利助の目を見る。
「俺はそれを生み出していく。だから、お前も、協力してくれ」
やることはたくさんある。今からそれを揃えていくのは大変だけれども、やると決めたのだ。
「……分かった」
利助は俺に挑むように見返し、頷いてくれた。