ハッピートリック
狭いアパートの一室に、二人は向かい合って
座っていた。
「お前のおかげで、楽しかったよ。
僕の人生、ろくなことが無かったけどさ、
お前と一緒にいた時間だけは、
忘れたくないって、思える」
寝癖の目立つ短髪の頭を掻きながら、
恥ずかしそうに口にした。
「だから、ありがとう。
僕と、これまで一緒にいてくれて。
僕みたいなのを好く物好きは、お前だけだったよ」
握手を求め、手が差し出された。
「俺は、俺のやるべき事を、やれていたか?」
向かいに座る男は、
その手を一瞥し、悔しそうに俯いた。
「結局、俺は、大したことをしてやれなかった。
本当は、もっとやりたいことが、
行きたい場所が、作りたい思い出が、
あったんじゃないのか」
「今更、そんなこと言うんだ」
部屋の中に、じっと熱が舞った。
「お前となら、何だって良かったんだよ。
僕は、幸せだった」
差し出されたままの手を取り、男は目を瞑った。
「なら、良かった」
短い髪が揺れる、軽快な笑みが溢れた。
「全くお前は、シャキっとしてよ。
今日で、僕達のこの生活は、終わるんだよ」
「そうだな」
男は、深く息を吐いた。
そして、真っ直ぐに前を見つめ、口を開いた。
「愛してる」
これまで、何度も何度も耳にしてきた、
単純で不器用な愛の言葉は、
向かいに座る女の心を激しく揺さぶった。
「その言葉、明日も、僕に言ってね。
みんなの目の前で、白いドレス姿の僕に、言って。
今日で、恋人同士の僕達は終わり。
僕にとって、大切な思い出の詰まった
このアパートともお別れ。
だけど、これからも、ずっと、僕達は一緒だよ」
壁掛けカレンダーの明日の曜日の欄には、
結婚式、と書かれていた。