読書嫌いの競馬ファンが活字を好むようになった話
勢い任せに書いたので、散らかった感じになってしまいました。
それでも良ければ、お読み下さい。
十代のころからの競馬ファンです。
誤解しないでください、法律は守っています。
漫画やゲームが好きだった私は、競馬漫画や競馬ゲームに触れたのをきっかけに、実際の競馬を見るようになったのです。
同時に、私は読書嫌いでもありました。
おそらく、社会的に偉いとされている人たちと読書感想文のせいだったのかもしれません。
そのころの私は、学校の先生は大学を出ていて頭のいい人だという認識がありました。
しかし尊敬の対象ではありませんでした。
なにしろ、ちょっと失敗しただけでも、嫌な顔をしたり、怒鳴ったりするなどしていたのですから、立派な人が少なかった記憶があります。
気弱な私は、びくびくしながら顔色を窺っていたものです。
そんな先生方が読書感想文の課題を出したところで、私は素直に取り組む気に慣れませんでした。
嫌々ながら本を読んで、感想文を書いて提出する。
挙句の果てには、誰々さんの感想が良かったと言われる始末。
感じたことに優劣をつけられた気持ちになりました。
自分の感覚が間違っていて、本を読む能力がないのかと思い込んでしまいます。
さらに先生方だけでなく、世の中の立派だと言われる人たちが、漫画やゲームはくだらない、活字を読んで勉強しろと居丈高に言うのですから、反感を持つなという方が無理です。
むしろこんな人になるぐらいなら、読書なんてしない方がいいとさえ思っていました。
ただし、好きなことに対する知識欲に関しては旺盛だったのもあり、競馬関係の書籍なら嫌悪感なく読めました。
『優駿』や『サラブレ』を毎月購入し、小遣いに余裕があるときは『週刊競馬ブック』も買っていました。
さらに図書館から『伝説の名馬』という本を何度も借りて繰り返し読むようになりました。
競馬に関しては読書という意識がなかったのです。
なんとも都合の良い思考回路をしていたな、と今でも思います。
しかし、私が競馬に興味があると知ったある人は、
「そんなもんで本を読んだ気になるな、純文学や学術書を読んだ方がよっぽど勉強になるし、知的だぞ」
と言ったのです。
そのときの私は、苦笑いをしてやり過ごしました。
――好きなことをして何が悪い、お前に迷惑かけたか?
と、腹の中で文句をまき散らしました。
それ以来、勉強、読書、ひいては知的をいうものを嫌ってしまったのです。
人の好みにケチをつけてなにが知的か、そんなものが偉いのかと。
――読書を嗜むのは、高慢ちきの似非エリートぐらいなもんだろ。
悪しき経験を積み重ねてきた私は、そう考えるようになりました。
勉強だとか知的だとかが、ものすごく下らない俗物的なものだという偏見を持つようになったのです。
ところが、そんな私の愚考を転換させる機会が訪れます。
とある競馬雑誌の記事に、こういった記述がありました。
競馬ミステリーシリーズで有名な作家ディック・フランシスは、元障害レースのリーディングジョッキー。
ちょっと待ってくれよ、と私は思いました。
そんなピンポイントなジャンルがあるの? それに元騎手が作家?
と、混乱したのを今でも覚えています。
それならちょっと読んでみようかと、とある大型書店に足を運びました。
競馬関係なら活字嫌いの自分でも読めるだろうと思ったのです。
今まで漫画フロアと競馬コーナーにしか行かなかった私は、どこにディック・フランシスの本があるのかわからず、案内板を見て文学フロアにあるのではないかと見当をつけます。
ようやく文庫本の棚でディック・フランシスの作品を見つけると、今度はどれを読んだらいいのか迷ってしまいます。
『本命』『興奮』『大穴』『利腕』『重賞』『度胸』『配当』『帰還』『侵入』『飛越』等々。
二文字のタイトルがずらっと並んでいて、内容が予想できません。
数分間背表紙を眺めていた記憶があります。
――たしか、イギリスって平地より障害の方が人気なんだっけか。それにディック・フランシスは元障害レースの騎手だったな。
ようやくそのことを思い出した私は、『飛越』を手に取りました。
タイトルからして障害レースを扱った作品なのではと推測したのです。
自転車を飛ばし、家に帰ると早速『飛越』を読み始めました。
すると、時間を忘れるほど読み耽りました。
――へえ、結構面白いじゃん。
率直な感想です。
もし、『飛越』が駄作だったら、二度と小説に触れることはなかったかもしれません。
以来、私はディック・フランシスの作品を次々と読みました。
今まで小説の世界を知らなかったので、非常に新鮮な気持ちで読み進めていきました。
なにしろ、純文学やミステリーの違いすらわからなかったほど、小説に関しては無知だったのですから。
ディック・フランシスの作品を全部読み終えたある日、他の作家が書いた競馬小説はないものかと、文学フロアで探し回っていると、ある作家の名前とタイトルが私の目を惹きました。
松本清張『馬を売る女』。
小説のことを知らなかった私でも松本清張の名前は知っていました。
それぐらい有名な作家の作品なら読んでみるのも悪くないと思い、その場で購入しました。
そしてここから、様々なジャンルの本に手を伸ばし始めたのです。
松本清張を面白い作品を書く作家だと感じ、他の作品も読むようになりました。
やがて、他の作家にも興味を持ち始め、ジャンルを問わず、様々な作家の小説を読み漁りました。
この経緯を書くと長くなるので割愛させていただきますが、とにかく小説というものが面白いと感じるようになったのです。
純文学、ミステリー、時代小説、歴史小説、海外古典文学、さらにはライトノベルなど、広く浅く、色々なジャンルの小説を読み漁るようになりました。
やがて、私の中から活字アレルギーが完全消失し、読書の幅が広がりました。
時代小説や歴史小説を読んでは、歴史に関する本を読むようになり、海外の古典文学を読んでは当時の時代背景を調べたりもしました。
そのような感じで様々な本を読むようになると、私はとんでもない思い違いをしていたと反省しました。
――勉強だとか知的だとかじゃない。読書は娯楽なんだ。
そうです。
いつの間にか読書を、勉強や知的だとかいう虚飾を剥いで娯楽の領域に引き込むことができたのです。
今までの日々を後悔しました。
読書というものを蔑んでいた自分がとんでもない愚か者だと気づかされたのです。
思い返せば、趣味がどこへつながっていくのかわからないものだと痛感します。
もし私が競馬をやっていなければ、読書の世界を一生知ることはなく、こうして小説家になろうで色々な小説を読んだり、投稿することもなかったでしょう。
私の矮小な経験から学ぶことがあるとすれば、他人の言動で物事の好き嫌いを決めてはならない、ということでしょうか。
お読みいただきありがとうございました。
一つ弁解させていただくとすれば、現在、懸命に働いていらっしゃる先生方を貶める意図は、作者にはありません。
私の運が悪く、たまたま良い人に出会えなかったというだけです。