第四十六話 代償
「黄金の天車」はゆっくりと天界の領域に入って行く。眼下に梵天の軍勢が張るトウリ天が見える。そしてその前には、全容が全く分からないほどの、巨大な城が迫って来た。それは緑の森に囲まれ、湖や山を配した、一つの国のようだ。
――――善見城。ここに来るのはあの日以来か。
阿修羅は窓を介して見るその強大な城を見下ろしながら、瓔珞を指でなぞる。あの時の記憶を夢で再現したばかりの阿修羅にとって、それはつい昨日の出来事のように生々しかった。苦い記憶を振り切りたいのか、ピンと爪で瓔珞を弾くと、乾いた音が耳を掠めていく。
――――シッダールタは無事に人間界に帰っただろうか。
戦いの中にいても、思わない日はなかった。だが、完全に彼との交信は断絶している。安否すら、今の阿修羅には知る由もなかった。
天車は姿を隠しているため、その姿を誰も見ることはできない。それをいいことに、カルマンは梵天が張る天界軍の陣、最前列に天車を着陸させた。
「一斉攻撃の前に、梵天と連絡を取ろう。それまではクルルのバックアップに集中だ」
機関室は、今や指令室でもある。阿修羅は大きなモニターの前で集まっている幹部達に指示をする。既に準備が整ったクルルがモニターの中、こちらに向かって手を振った。隣にはトバシュがいる。
「クルルさん、ワシらが付いてるから、なんかあったら、すぐに知らせてな」
「うん。大丈夫。必ずシールドを解除してみせるよ。リュージュさん!?」
もう一度クルルが振り返る。意識に直接問いかける、リュージュの声が聞こえたようだ。
『クルル、俺の声をずっと聞いているんだぞ』
「了解!」
クルルはトバシュから便利道具の入った小さな鞄を受け取ると肩に斜め掛けした。そして何かが弾けたような音の後、全身が水色の鮮やかな小鳥が姿を現した。
「ピピピ!」
小鳥は綺麗な声を響かせて、空へと舞う。シールドが張られていると思われる場所を難無く進むと、巨大な城へと飛んで行った。
モニターには相変わらず、シールドに撃ち込まれては弾ける天界軍の砲弾が輝き瞬いている。昼間の今でもそれは肉眼ではっきりと捉えることができた。善見城の周辺は大粒の雨がトタン屋根にぶつかるような音が間断なく響いている。
「なんの役にも立たない攻撃でしょうに。梵天様はどうして止めないのか」
腕を組んでモニターを見つめる白龍が呟いた。
「あれでも中にいる兵士達にはプレッシャーになるだろう。まあ、私達修羅王軍に対するアピールでもあるかもだがな」
そう応えたのは阿修羅だ。前方ではクルルと交信を取るリュージュと双子たちが、もう一方のモニターに映る城内の見取り図を見ている。
「良かったのか? クルルを行かせて」
「え?」
朱色の明眸が己の心を見透かすように視線を向けている。白龍は少し驚いた。自分に向けられた好意はこれっぽっちも気づかぬくせに、人のことはわかるというのだろうか?
「クルルはおまえに行けと言われて、傷ついたのではないか?」
「さあ、どうでしょう。でも私の気持ちに揺るぎはありません。またあの琴を使うのは、最後の手段と思っていますし。いえ、あれはもうお使いにならないでください。あれほどの呪術を使うのは、跳ね返りも強いように思います」
今度は阿修羅が驚く番だった。表情も変えずに淡々と話す銀髪の青年を阿修羅は見上げる。
「さすがだな。気付いていたか」
「王の気持ちは誰よりも承知しているつもりです。あの時、阿修羅琴で、また何かをなかったことにしようとされましたでしょう?」
阿修羅は仕方なさそうに、頷く。クルルかカルマン、トバシュを善見城に行かせるくらいなら、阿修羅琴で解決すればいいと考えたのだ。そうすれば、もう誰も傷つかない。
「帝釈天殿は、また思い出しますよ。それともまた、どこかに転生されるおつもりでしたか?」
阿修羅はその問いには答えなかった。いや、正確に言えば答えられなかった。咄嗟に口を開いたことに、確かな策があったわけではない。だがこの戦は、元々帝釈天と自分の間に起こった痴話喧嘩に過ぎない。それをこんな大仰な戦にして、多くの命を巻き添えにしている。たとえ帝釈天に非があったとしても。それならば、元凶である琴で解決するのが最良なのではと思ったのだ。
「阿修羅琴が代償を求めるのは、いつ気が付いた? 私ですら二日前に目覚めた時、気が付いたくらいなのに」
阿修羅が阿修羅琴を奏でたのは、ただの一度きり。天界だけでなく六界全てで阿修羅の存在を記憶から消した時だ。阿修羅が人間界へ降りたことは代償でもなんでもなく、望んだことであり、転生省がすぐさま実行した。
だが、人間界での死を迎えても、阿修羅の記憶は戻らなかった。それが代償かどうか、本当のところはわからないが、そうとしか思えなかった。
「それは、何となくです。何故、阿修羅王が『阿修羅琴』のことまで思い出せなかったのか。それが引っかかりました」
相変わらず洞察力の高い奴だ。阿修羅は納得いったように頷いた。
「それと、クルルのことですが。彼女にもいい仲間が出来た様なので、私が保護者代わりをすることもないかと思いました」
阿修羅はちらりと白龍を見た。いつになく、声が寂しそうに聞こえたからだ。だが、その表情はいつものように飄々とし、口角をちょっとだけ上げて微笑んで見えた。
「クルル! もう少しや、そこを左に行ったらええ!」
「兄者! 敵がおらんか?」
目の前で、双子がクルルの先導をしている。実際、クルルに話しかけているのはリュージュだったが、手に汗を握るようにモニターを見つめていた。見取り図には、クルルがいるであろう場所に青い点滅が光る。目指す座標までもう少しだった。
つづく