第四十四話 歪な愛
トウリ天の中央に座する善見城は、それが一つの国であるかのように巨大な建造物だ。広大な敷地内には森、湖、庭園が城の主を癒してきた。だが、今そこには、城に入りきれない兵士たちがテントを張って次なる戦に備えている。その数は優に一千万は越えていた。
そしてここ一週間ほど、この善見城の空には絶えず激しく光るものがあった。梵天率いる天界軍の攻撃だった。阿修羅との初戦に破れた帝釈天は、すぐさま善見城に入り、己に与する天界軍兵士を迎え入れると同時に強固な防御壁を張った。そのシールドを破らんと梵天は絶えず攻撃をかけているが、ヒビすら入ることはなかった。
「阿修羅達の『黄金の天車』は見つかったのか?」
「いえ、それがまだ」
四天王の一人、ヴィルータガ(増長天)が申し訳なさそうに答えた。平素は南門を守る守護神だったが、帝釈天直属の部下であった彼は、梵天に付くことはなかった。ただ、同じ四天王のクベーラだけが先に従っていたことには、思う所はある。
彼は炎の使い手であることから、赤を基調にした武具防具を付けている。髪の色も燃えているように真っ赤だった。
「そうか。引き続き探索を頼む」
謀反を知ってから付き従った残りの四天王に対しては、帝釈天も無下に扱うことをしなかった。余裕の戦いと言っても、気分的には追い詰められている。前回の長期にわたる戦とは違い、今回は孤立無援。自分は天界を始めとする六界に反旗を翻した反逆者なのだ。兵の数は最も多いとしても反逆者である以上、一枚岩でいなくては危なっかしい。力のある四天王に一目置くことは避けられないことだった。
「奴らは一体どこに隠れているのか。カルマンやトバシュを取られたのは痛かったな……」
帝釈天は玉座のひじ掛けに頬杖をつき、独り言ちた。
――――あの時、阿修羅は確かに真言を唱えていた。あんな状態で詠唱したらどうなるか、わかっていたのか? 彼女は記憶を取り戻したのだろうか?
天車の上空で、ボロボロになりながらも詠唱しようとした阿修羅に、帝釈天は金剛杵を撃った。だが、それは攻撃ではなく、阿修羅を守るつもりだった。強大な真言を放てば、詠唱した体の負担は計り知れない。力が漲っているときですら、立っていられないほどだ。金剛杵による打撃どころではない。それは同様に強大な真言を持つ帝釈天だからこそ身をもって知ることだった。
『帝釈天、雷を呼びたければ呼べ』
数千年の昔、この善見城の湖畔で繰り広げられた痴話げんかとも言える諍い。それがあの二千年に及ぶ戦の発端だった。しくじったとは思っている。阿修羅を手に入れるために十三年も禁欲したのが、最後の最後で響いてしまった。あの美と豊穣の女神、シュリーにころっといってしまった。
もちろん、あんな愚かな消耗戦、さっさとやめてしまいたかった。だが、帝釈天はどうしても諦めきれなかった。阿修羅琴はともかく、阿修羅を手に入れたかったのだ。逃がした魚は大きいということか。そのためには、阿修羅琴が必要だったのだ。離れてしまった彼女の心を取り戻すには絶対に。心を操る琴だと、帝釈天はとうの昔に知っていた。
――――なぜ……。阿修羅は私のことを思い出さなかったのか。私は再びまみえた時、すぐに思い出したと言うのに。仏陀のせいか? あんな奴を本当に愛しているのか? 阿修羅。おまえは私だけのものだ。どれほどにおまえを愛しているか、どうしてわからないのだ。
屈折した思いではあったが、帝釈天は阿修羅と不毛な戦いをしている間もずっと阿修羅を思っていた。届かぬ月を欲する子供の様に、ずっと彼女を追っていたのだ。
その想いは今も変わらない。いや、さらに気持ちは増している。人の物には俄然欲望を掻き立てられる帝釈天だ。あの聖人面した(というか、マジな聖人なのだが)仏陀から阿修羅を奪うなんて、想像しただけでも血が滾る。命に代えても惜しくない狩りなのである。
天界の神は多かれ少なかれ、長い命を持て余している種族なのだ。帝釈天もこの世界に存在して早くも百万年を超えている。だが、トウリ天に住む神々の寿命はその30倍以上ある。まだまだ死は遠く遥かだ。平坦な毎日を帝釈天は何よりも嫌っていた。
ただし、天界と言えど、必ず死を迎える。それを誰よりも恐れているのも天界人。だからこそ、輪廻の輪から解脱した仏陀の存在は尊く、彼らが目指す導師なのだ。
帝釈天はその仏陀から阿修羅を奪おうとしているわけだから、規格外の神と言えばそうなのかもしれない。
――――あいつのことだ。ここで待っていれば、向こうからやってくるだろう。この鉄壁の牙城、善見城にどうやって攻めてくるのか。まずはお手並み拝見といこう。
帝釈天は黄金のマントを翻し、玉座から降りる。ゆっくりと壁全体に張り巡らせた掃き出し窓に歩いて行った。既に夜を迎えた空では、絶えずシールドにぶつかる梵天の攻撃弾が弾けて光り輝いている。
「まるで新星が生まれる宇宙のようだな。眩い光とともに生まれては弾け散っていく。見事なものだ」
ふと、この情景を阿修羅と共に眺めたいと帝釈天は思う。
――――おまえと同じ側で戦うことは、この先もないのだろうか。
絶え間なく砲火が光り続ける空を見上げながら、帝釈天は思いを馳せる。そして小さなため息を吐くと踵を返し、固い床に足音をたてて玉座の間から去って行った。
つづく