第四十三話 帰依
阿修羅が『黄金の天車』で過去を彷徨っていた頃、修羅王邸では夜魔天とその側近たちが、修羅王軍の居残り兵士と共に後始末に追われていた。
「とりあえず、全員地獄界に送ってください。その後の処分はこちらで決めますから」
「大丈夫ですか? 相当な数になりますけど……」
クベーラ王配下の兵士達の処遇について、トップがいなくなった留守番組はどうしたらいいのか途方に暮れていた。夜魔天がその彼らに、救いの手を伸べたのだ。太っ腹な夜魔天に対し、遠慮がちに修羅王軍の事務方が問うた。
「大丈夫ですよ。こういう戦や災害の時は、一度に大勢が地獄の門を叩くのです。ウチの連中は慣れてますから」
そう安請け合いする夜魔天の背後で、頬を引きつらせている彼の側近たちの姿が見える。修羅王軍の事務方は肩をすぼめて、あからさまに彼らから目を逸らした。そして粛々とクベーラ王の兵士たちを地獄へと送っていった。
まるで大企業の引っ越しのように人とモノ(これはつまり、息をしていない骸だ)が引っ切り無しに行き交う向こうで、一人の女が地面にうつ伏すようにして泣きわめいている。
「酷い、なんて酷い奴なんだ! 金剛杵で焼き尽くすなんて! 私のクベーラは骸すらない。これでは生き返ることもできないじゃないか!」
美の女神としてその美しさを誇っていたシュリー。だが今の姿にはその面影のかけらもない。悲しさと悔しさと怒りで顔も髪も胸の中もぐちゃぐちゃ。長く艶のあった髪を振り乱し、人目も憚らず悪態を吐き続ける。真っ赤な中華風のドレスも涙と土ぼこりで薄汚れ、輝きは既に失われていた。
「シュリー。落ち着いて聞きなさい」
そこに一人の男が近寄って行った。豊かな黒髪を肩に揺蕩わせ、袈裟に身を包んだ修行僧、仏陀その人だった。
「仏陀……。なんだよ。哀れみなんかいらないから、クベーラを生き返らせておくれよ。おまえなら、出来るんだろ?」
シュリーはなりふり構わず仏陀にすがる。いつもの美しい瞳は涙で腫れあがり、豊満な胸も邪魔なだけだ。仇敵である仏陀の前であっても、もう虚勢を張る元気もない。仏陀はシュリーに涙を拭う手巾を手渡す。彼女は黙ってそれを受け取ると、汚れた顔を拭いた。
「出来るよ。だがね、条件がある」
「条件?」
仏陀はゆっくりと頷く。そしてシュリーが座り込んでいる地べたのすぐ横を指さす。
「おまえの曇った瞳では見えないかもしれないな。ここに、クベーラが、おまえに気付いてもらおうと必死に叫んでいる」
「え? まさか!?」
シュリーは慌てて自分の脚元を見る。だが、シュリーの目には何も見えない。耳にも何も届かない。キッと見上げて仏陀を睨みつける。
「嘘を吐くんじゃないよ! そんなものどこに……! 痛い! 何すんだよ!」
仏陀が突然、錫杖の棒の部分でシュリーの肩を叩いた。
「心を落ち着かせて、もう一度見てごらん。肩の痛みを自分のものと捉えて、己の心の目を開くんだ。騙されたと思って、私の声を素直に聞きなさい」
訝し気な顔をしながらも、シュリーは心を落ち着かせてみる。クベーラに会えるのならともう一度自分のひざ元を見た。
「あ! あんたぁ。こんなにちっちゃくなっちゃって!」
シュリーの膝のすぐ横に、一生懸命両手を伸ばしている、手のひらサイズのクベーラがいた。
「シュリー、すまん。こんなことになってしまって。おまえの願いを叶えられなかった……」
クベーラは先ほどからずっと、シュリーに謝罪をしていた。すまなかった、すまなかったと。
「いいんだよ。あんたが生きていてくれて。あんたの体があって良かった。それだけで私は嬉しいんだよ」
彼は帝釈天の金剛杵によって消し炭にされたが、その中で残った一番大きな肉片に魂を入れ、人型にした。このサイズが精一杯だった。
シュリーはクベーラを両手に乗せ、目の高さまでもっていった。二人は見つめ合うと、また涙にくれる。
「クベーラ、シュリー。もう争い事に首を突っ込むな。これから私の教えに耳を傾けるのなら、また愛と誇りの日々を過ごせるだろう」
「本当ですか? 仏陀様。私も元の姿に戻れますか?」
クベーラがシュリーの手の上でそう尋ねた。信じていた帝釈天にいとも容易く斬り捨てられ、自分に付いてきた兵士達も全員地獄行きだ。さすがに応えた。
「約束しよう」
「それならば、弟子として仕えさせてください。シュリーともども。いいな? シュリー?」
クベーラは首を一度垂れてから、シュリーの方を振り向く。シュリーは眉をほんの少し顰め、小さくなったクベーラを見た。裏切って、裏切られて、そんなゲームに明け暮れてきた。それももう、疲れてしまった。信じられるものが欲しい。仏陀は、多分、裏切らない。
「あんたの言う通りにするよ」
そう言うと、クベーラとともに深く首を垂れる。仏陀はそんな二人の姿を見て、ゆっくりと頷いた。
――――阿修羅、私は私のやり方でおまえを助けよう。必ず再び心を通わせることができると信じているからな。
修羅王邸の喧騒はまだ続く。森の匂いを背負った一陣の風が仏陀の豊かな黒髪をさらった。
つづく
仏陀はその後、人間界へ戻ります。その話はまた後程。