第四十話 ~記憶の旅編 9~
過去編完結! 阿修羅の謎が明らかに!
阿修羅はその日をいよいよ迎えた。一人蓮池の横に佇み、白くて細い腕には黄金に輝く竪琴を携えていた。重々しい儀式に備えるためか、ふわりとした白銀の衣装を身に纏い、長い黒髪も今日は下ろされ、肩から背中にかけて風に揺れている。
彼女の一族は、昨夜のうちにこの修羅界を出て、地獄界のそのまた下位の地底に身を顰めている。夜魔天の計らいだ。修羅界に残されたのは、彼女とともに天界を出た兵士や従者だけとなった。
「阿修羅様。本当に実行されるのですか?」
いつの間に背後にいたのか、サティアが尋ねた。細く柔らかい銀髪が阿修羅と同じように風に靡いている。いつもの黒い軍服に身を包んだ碧眼の男は、緊張した面持ちで立っていた。
「そうだな。この不毛な戦いをいつまでもやれるほど、私も強くない。それに……」
「それに?」
阿修羅は裸足のつま先に少し力を入れ、湖へと歩を進める。おのずとサティアも前に進んだ。
「帝釈天に竪琴を諦めさせるには、これしかないだろう。私も、まさかこのような手段があるとは思いつかなかった。この『阿修羅琴』を使うことは避けたかったのでね」
そう言うと、左手に抱えた竪琴を右手で愛おしそうに撫ぜた。なぜ、あの日あの男に一族の宝を見せてしまったのか。いや、そもそもあいつはこの琴の存在を知っていたのか? それは今でも謎だ。あの男は最初からこの琴目当てに私に近づいたのだろうか?
――――いや、今となってはそれもどうでもいいことだ。それともまだ、私はあいつに未練があるのだろうか。竪琴ではなく、私のために禁欲の令を自らに課し、求愛の日を勝ち取ったのだと。そう思いたいのか?
「それこそ不毛というのものだ」
自嘲するように、阿修羅が呟いた。
「はい?」
「いや、何でもない」
耳ざとく、聞き返すサティアに阿修羅は短く切り返した。
「後のことは頼んだ。とは言っても、何もかも忘れてしまうだろうが」
「いえ! 阿修羅様。私も必ず後を追います。貴方の後を追ってお守りします。どうかお許し願いたい!」
サティアは突然膝を折ると、阿修羅に向かってそう懇願した。阿修羅は何事かと長い睫毛を音がするほど上下させた。
「何を言っている。そのようなこと、出来るはずもな……」
「たとえ、阿修羅様のことを忘れてしまっても、次にやることだけは覚えているはずです。この後、自分がすべきことを私は決して違いません。どんな姿になったとしても、必ず貴方の傍へ参ります」
「だが、では修羅界はどうなるのだ? おまえがいなくては、残ったものが困るであろう」
あまりのサティアの勢いに気圧されながらも、阿修羅は心配そうに言った。
「カルラがおります。あいつがちゃんと独り立ちするまではここに留まります。ですから、どうぞお許しください」
再びサティアは深々と頭を下げる。それを阿修羅は呆れたように、そして愛おしく見下ろした。
「好きにすればいい。だが、私も忘れてしまっているかもしれないぞ?」
阿修羅の言葉にサティアは満面の笑みとともに顔を上げた。そして勢いよく立ち上がる。
「阿修羅様がお忘れになっていても、私は絶対に忘れません。お約束します」
「構わないが……。いずれにせよ、長い時間ではない。そんなに心配しなくてもよいと思うが」
「何を仰っているのです。ここ天界にお生まれになり、ここしかご存じない方が……、人間界になど! 未だにあの提案をお受けになったこと、信じられません」
「その話はもう終わっている」
「わかっています。ですから、せめてお守りしたく……」
そこまで言うと、サティアは黙り込み、俯いてしまった。阿修羅はため息のようにゆっくりと息を吐いた。
「ありがとう。サティア」
阿修羅は再び、桃色の華を誇らしげに咲かせる蓮池へと足を向けた。心なしか、蓮華たちが首を揺らしているように見える。阿修羅の琴の音を待つように。
梵天と夜魔天が持ってきた案。それは阿修羅琴の力を以って、この六界から阿修羅がいたという事実を消滅させることだった。
阿修羅琴の力は望みを叶えることではない。奏でる者が願うように人の心を操る。それがこの琴の力だ。阿修羅の一族がいつの間にか天界に住まい、いつの間にか戦神となったか。それは誰も知らない。彼女の遠い祖先が、琴ともにこの地に現れ、それを人々の心に植え付けたのだ。
「私が存在していないことにする?」
思いもかけない梵天の言葉に阿修羅は訝し気に二人を見た。徐に頷いたのは夜魔天だ。
「私がご提案しました。全ての世界の者に、あなたと阿修羅琴の存在を一時的に消し去るのです」
「簡単に言うな……。私自身は何者として生きればいいのだ。畜生界で猫にでもなっているのか?」
ソファーに身を投げ出し、阿修羅は長い脚を組むと嘲笑するように皮肉を言う。また愚にもつかないことを、と半ば馬鹿にしているのが見て取れた。だが、夜魔天はその皮肉を逆手に取るようなさらに驚愕の案を提示してきた。
「いえ、阿修羅殿には人間界に転生していだきます」
「!?」「なんだと!?」
声を出したのは、後ろに控えていたサティアだった。今にも夜魔天と梵天の襟元に食いつきそうなのを阿修羅は右手で制する。
「それは、随分と思い切ったことを。……もしや、あの噂は本当なのか?」
阿修羅が今一度居住まいを正すように脚を戻してそう問うと、我が意を得たりとばかりに二人が頷いた。
「さすがです。戦乱の中にも情報を得られているのですね。そうです。今日は『あの方』が人間界に誕生する日、人間界の4月8日にあたります。この会談の後、私は人間界に祝福の光を与えにいくことになっています」
「私の役目は?」
「もちろん、『あの方』の護衛と導きです」
「そんなことが私にできるとでも? 戦神の私が?」
片や長身で体躯のがっしりした夜魔天、片や風船のようにふんわりした体格の梵天、二人の神は同時に頷いた。
「貴方にしか、できません」
戦うことしかしてこなかった自分が、そんなことができるだろうか? 人間界をしいては六界全ての憂いを救うとされている魂。それは未来永劫の時間を司る、神以上の存在。
――――だが、悪くない。こんなところで帝釈天と不毛な戦いをしているより、ずっとましだ。
「私はその使命を人になっても覚えているだろうか?」
「それはわかりません。ですがその時は、『あの方』が教えて下さるでしょう。阿修羅様のやるべきことを」
人の体はあまりに脆い。病に怪我に飢えに、死はたちどころにその身を亡ぼす。長生きで怪我もほとんどしない天界人とは比べ物にならない。しかも阿修羅が降りる人間界は天界のような科学、魔術もない原始的で野蛮な世界だ。そんなところに生まれ変わるのは、本来なら躊躇するところ。
だが、事態を収束させるにはもはや選択の余地がないのかもしれない。それならば危険極まりないのは事実としても、自分が天界人であったことなど忘れている方が生きやすいだろう。
「人間の一生など、立ったあぶくが割れるごとくに短い。ここに戻った時、帝釈天は私のことを思い出さないだろうか?」
「それは私にお任せください。そのようなことは、させません。そのためにも私の記憶は残していただきたい」
梵天が饅頭のような体を上下させてそう言うと、阿修羅は細い顎をゆっくりと引き頷いた。
「承知した。明朝にも琴を弾かせていただこう」
背後でサティアが納得いかないのか、唸り声を落とすのが聞こえた。
阿修羅は竪琴を左腕に抱えると、右手の細い指で奏で始めた。鈴の音を転がすような、透明な音色が響き渡る。それは修羅界を、天界を、地獄界を、人間界を、畜生界を、餓鬼界を全てに流れ込み、包んでいく。まるでそれは、体中に張り巡らされた血管一本一本を全て網羅し、流れていく鮮血のように行き渡っていった。
全ての詩が終わった時、ゆっくりと阿修羅の姿が消え始めた。竪琴とともに、少しずつ薄くなり、やがては何もなかったように。
蓮池には桃色の蓮華が誇らしげに咲き乱れ、柔らかな風が花びらを掠めていった。
――――白い馬が生まれたぞ。綺麗な馬だ。
――――阿修羅だ。失望はさせないで欲しいな。
――――私ともにこの天下、駆け抜けてみぬか?
――――仰せのままに、シッダールタ王子。
つづく
次回より、現在に戻ります。
「黄金の天車」でようやく阿修羅は目を覚ます。