第七話 「追憶の牢獄」
謎の世界へ吐き出された二人は?
第七話 『追憶の牢獄』
『いいか、リュージュ。おまえに私が修行を付ける理由は二つある』
ついさっきのことだ。リュージュにしごき……ではなく指導をしていたとき、仏陀はこう言った。
『一つはおまえが七百年後、人間界に下りて人々を導く存在となる使命を必ずやり遂げるためだ。ここで出来得る限りのことを授けておきたい』
『はい』
リュージュは神妙に聞いている。彼にとって、仏陀は師であると同時に、最も恐るべき人物だった。暴力で抑えられているわけではない(たまにあるけど)。
智慧と振舞、心の内も外も全てが規格外。自分の器がお茶碗なら、仏陀のそれは海だった。もう存在そのものが勝てない。敵いっこない。
師の教団に入った当初は、その差にあまり気が付かなかったが、教えを知れば知るほど、大きさに愕然とするばかりだった。
自分も何回かの転生を経て、仏陀に近い存在になるという。今のリュージュにはとても信じられないことだった。
『もう一つはな』
ここで一つ咳ばらいをする。仏陀が咳ばらいをして話し出すとき、その話題は決まっていた。
『ここで阿修羅を守って欲しいからだ』
――やっぱり――
と、リュージュは思う。
『修羅界での異変はどうも根が深い気がする。本来なら私が側についていてやりたいのだが、そうもいかない』
――いつでもさっさと飛んでくるのに?――
上目遣いにリュージュが仏陀を見る。
『いつでもさっさと飛んでくるのも難しい時があるのでね』
ひっ、と小さく声を上げて、リュージュは頭を下げた。
『あいつはあれで、脆いところがある。おまえにはもっと強くなってもらわないと困るのだ。わかっているね』
『承知しております。精進いたします』
どこが脆いのか今一つ腹落ちしなかったが、リュージュは再び深々と頭を下げた。
今、リュージュの目の前に結界が張られた扉があった。ついさっき、この扉に阿修羅と白龍が吸い込まれていったのを見た。自分も続こうとしたが、間に合わなかった。無情にも鼻先で扉は閉じられた。
「随分と舐めた真似してくれるじゃないか」
広間では、まだ夜叉族とカルラ達修羅王軍が戦っている。が、リュージュの選択は一つだ。
――大丈夫。こんな結界、俺でも破れる――
リュージュは仏陀がついさっき解放してくれた自らの力を扉に向ける。扉の結界がピシピシと音をたてる。
「よし! 行ける!」
助走を取り、リュージュは扉に向かって体当たりをした。
「なに~!」
扉は開いた。だが、そこに広がっていたのは。
「なんでだよ~!」
眼下に広がっていたのは、針の山だった。
「ていうか、おまえがあの扉の向こう! て叫んだんじゃないか」
謎の地に降り立ち、阿修羅と白龍はとりあえず歩いていた。白龍は人型に戻っている。
「まさか何も考えず突っ込むとは、思わなかったものですから」
しれっと白龍が答える。それ以上は旗色が悪いと、阿修羅は黙った。
それにしても、この世界は不思議だった。暑さ、湿気、そして周りの植物。阿修羅が人間だった時にいた世界に酷似している。
上空から見た時は、全く気が付かなかった。だが、もし人間として生きている間に、大地を空から見る機会があったら、あんな景色が広がっていたのかもしれない。
「蒸し暑いな。懐かしい感覚だが」
暑さにまいったのか、いつのまにか白龍は馬に戻っている。
「王、お疲れなら乗ってください」
「いや、まだいい。肝心なときにおまえが疲れていては困るからな」
しかし、いくら進んでも景色はあまり変わらない。また、不思議なくらい生き物のいる気配がしなかった。
川は美しい水を湛えて流れ、風が木々を揺らせば、甘い果実の匂いがしてくる。だが、そこに住むものは何もいなかった。
「これは、閉じ込められたのかもしれんな」
阿修羅は最悪な事態を考えた。
「王のいない間に、事を起こすということですか?」
「そうだ。こうなると、何が何でもここから脱出しないとまずい」
幹の太さが両手で抱えるよりもありそうな大木の木陰に入ると、阿修羅は深呼吸した。
『シッダールタ……』
いつものように、愛しい人の名を呼ぶ。
しかし、しばらくして頭を振る。
「だめだ……」
「どうしました?」
「シッダールタの思念が全く感じられない。この世界は実在しない!」
どんなことがあっても途絶えることのなかった、仏陀との糸が切れてしまった。阿修羅は今までにない不安を感じた。
「痛ってえ」
剣の山から血だらけになって這い下りてきたリュージュは、自ら傷の手当をする。大した傷でもないので、時間がくれば治る。が、しばらくは痛いのを我慢しなければならない。
「どうなってるんだろう。阿修羅達はここにいるんだろうか」
ようやく痛みが引き、きょろきょろと見渡す。
リュージュが這い出してきた剣の山には、他に膨大な数の人らしきものが痛みに悶え苦しんでいた。そして、山の周りにはおっかない恰好をした鬼がいる。
「おい、おまえここの者じゃないな。どうしてこんな所に来たんだ?」
その一人(一匹?)に声を掛けられる。
「俺は修羅界、阿修羅王の側近、リュージュだ。ここはどこだ?」
「ええ! ここは地獄界だよ! 不法侵入だな!」
「な、なんだと!」
『リュージュ!』
鬼に引っ張られそうになったとき、頭をガツンと殴られる衝撃を感じた。それは声ではなく、脳に直接届いた仏陀の声だった。
「師ですか? どういうことですか?」
『説明は後だ。とにかくすぐにここから脱出する』
「は、はい!」
リュージュは仏陀に首根っこを掴まれるような感覚を覚えた。
輪廻転生を形成する六界なら、どこへでも一瞬にして移動できる唯一の者。それがこの輪から解脱した仏陀である。瞬きもしないうちに、修羅界王邸に戻って来た。
仏陀によると、阿修羅と白龍は彼の思念が届かないところへ行ってしまった。つまり、六界以外の未知な世界に行ってしまったということだ。
これはまさに緊急事態。
そしてリュージュは、何故か六界の地獄界に飛ばされてしまったらしい。
修羅王邸に戻った二人は、各々で阿修羅達の居所を捜索しだした。リュージュは白龍の諜報部隊に調べさせる。密厳邸に出張っていたカルラ達も既に帰還していた。阿修羅達が姿を消した後、夜叉達も三々五々に散らばっていったという。
「師よ。何かわかりましたか?」
仏陀は口を真一文字に結んだまま、万華鏡をくまなく見ている。その表情からあまりいい返事は聞けそうにない。
「何者かが……。強力な術力で張った結界の中に迷い込んでいるように思う」
「結界ですか?」
顔を上げ、リュージュの方を向く。修羅界での仏陀は、長い黒髪を無造作に揺蕩させている若者の姿でいる。だが衣服は何故か彼の祖国、インド風の青い袈裟だった。
「阿修羅やおまえが破った扉の結界は、おそらくわざと弱く張っていたのだろう。罠だよ」
その敵の張った罠にまんまとはまったというわけだ。
「流道や結界、亜空間といった系統の術に長けたものの仕業だろう。その密厳大将というのは、どんな悪鬼神なのだ?」
リュージュはすぐさま仏陀に資料を見せる。今いる部屋は修羅王邸の軍議室だ。欲しい軍事情報はすぐに取り出せる。
「うむ。これではあまりはっきりしたことはわからないな。だが……」
天界、修羅界で言う資料は紙ではない。情報は小さな鏡のようなものに無限に保管されており、簡単な操作で知りたいことが手に入る。
ここに来た当初はリュージュも随分とカルチャーショックを受けたものだ。
「天界にいたころは、帝釈天様の軍にいたようだな。まあ、天界にいる武人はほとんどがそうだろうが」
帝釈天。リュージュは実際に会ったことはなかったが、あまりいい印象を持っていなかった。理由は簡単。阿修羅が帝釈天を嫌っていたからだ。
「どうされますか?」
何の材料もないまま時間だけが過ぎていく。リュージュも徐々に不安が増してくる。
「結界を破る。それしかない」
仏陀はそう言うと椅子から立ち上がり、軍議室の奥へと進んだ。そこは瞑想するにはちょうどいい空きスペースがあった。
「鉄壁の結界など存在しない。必ず穴がある。リュージュ、おまえは密厳邸をもう一度調べろ。なにか痕跡があるかもしれない」
「はっ。承知しました。ご指示有難く!」
仏陀の指示はいにしえの総大将を思い起こせ、リュージュは身が引き締まった。
すうっと息を深く吸って、少しずつ長く吐く。仏陀は印を結ぶ。
「もう行く。話しかけるな」
その言葉を最後に仏陀は深く思念の中に入っていった。
――阿修羅……、待っていろ、必ずおまえを見つけるから!――
「ふふ、ふふふ。迷え、迷え。おまえ達は、一生そこから出られない」
巨体を二つ折りにして、目玉をぎょろつかせた夜叉が四角いテーブルのようなものを覗いていた。くすんだ色の壁に囲まれたその部屋は、天井が高いわりに十畳ほどの広さ。そのテーブル以外には椅子が何脚かあるぐらいだった。
「どうだ密厳、阿修羅の様子は」
ふいに後ろから声がした。
密厳と呼ばれた夜叉は慌てて後ろを振り向き、深々と首を垂れた。巨体の密厳より、さらに大柄な男がそこに立っていた。男は武具ではなく、絹のような光沢のある衣を身に纏っている。
「これは王、わざわざおいでくださるとは、光栄でございます。阿修羅めは、ほら、このとおりです」
密厳夜叉は、王と呼んだ大男に場所を譲る。
「これはおまえの作った『追憶の牢獄』か」
「はい。私が作ったというか、作ったのは阿修羅自身。それに気が付くことはないでしょうけれど」
「なるほどな。前世の思い出の場所か、ここは。あいつも甘いなあ」
二人の悪鬼神は、モニターに閉じ込められた阿修羅と白龍を笑いながら眺めていた。
つづく
頂いたラフ画を見せるPART1 阿修羅
神谷吏祐先生より
ラフでも可愛い!ありがとうございました!