第三十八話 ~記憶の旅編 7~
まさに修羅場!
善見城の広大な敷地には山も湖もあり、まるで一つの国である。阿修羅は全ての喧騒を避けるように、湖のほとりにあるテラスへとやってきた。手には白銀と宝玉で彩られた竪琴を持っている。城の宴もほぼ終わり、翌日の祭礼の準備に入っているころだ。阿修羅はゆっくりと腰掛けると、湖の上とそれを映して湖面に浮かぶ白月を眺めた。
「まるで二つの月があるようだな。美しいものだ」
阿修羅は心を落ち着かせるように竪琴をつま弾く。すると銀の弦からは、宝玉のごとく音の雫が零れだす。美しくもはかなく消えていく花びらが舞うようだ。
「いつもながら美しい音色だな」
背後から声がする。阿修羅は指を止める。
「だが、何よりも美しいのはおまえだ。湖面の月も天の月もおまえに勝るものはない」
相変わらず、歯の浮くようなセリフを恥ずかしげもなく吐く。阿修羅はゆっくりと振り返る。そこにはまだ酔いが残っているのか、上気した帝釈天がいた。
「何を言っている。帝釈天……。ご機嫌のようだな」
「当たり前だ。待ちに待ったおまえとの婚約式だ。機嫌が悪いはずもなかろう」
帝釈天は阿修羅の隣に座ると、じっと朱色の瞳を見つめた。
「どうしたのだ? 私の顔に何か付いているのか?」
阿修羅は帝釈天が腰をずらしてくるのを察知して、少しずつ後ろに下がる。その帝釈天からは柑橘系の香りに混じって、かすかに甘ったるい匂いがした。阿修羅は自然と眉を顰める。
「いや、前夜祭でもあまり私と話をしてくれなかったから。でも、こうして二人きりで会えて嬉しいよ」
「挨拶でお互い忙しかったから仕方ないだろう。そう言えば、美の女神が何やら言っていたな。貴様と懇意のようだったが」
「え”……」
阿修羅の棘のある言い方に帝釈天がわかり易く固まった。一挙に酔いが覚める勢いだ。
「そうだな。そのおまえの甘ったるい匂いと同じ香がしていた」
畳みかけるように冷水を浴びせる阿修羅。帝釈天は隣で真っ青になって冷や汗が額を伝うのを感じた。
「あ、阿修羅、待ってくれ。違う。違うんだ」
帝釈天はデカい身体を小さくして、今にも土下座をするばかりに膝をつく。そして阿修羅の方を見ると祈るように仰ぎ見た。
「何が違うのかな。私の聞き違いでなかったら、彼女はこの竪琴のことを知っておったが? これをいかに釈明するつもりだ?」
阿修羅はすっと席を立つ。月の光が黄金のドレスを艶めかしく輝かせ、ドレープに光が流れていく。帝釈天はその様子に目を奪われるが、それどころではないと二度三度と首を振った。
「竪琴? あの女! 余計なことを……」
「余計なことを言ったのは貴様の方だろう。この婚約は破談だ。私は一族の元に帰る。後始末は貴様に任せるから、よろしく頼む」
「ええ! なんだと!? ふざけるな、そんなこと!」
思わぬ阿修羅の言葉に、帝釈天は立ち上がり、阿修羅の腕を取ろうと迫った。だが、そこに立ち塞がる者がいた。
「そ、そこから先は、ご遠慮くださあい!」
声が裏返っている。緊張した面持ちで出てきたのは、前夜祭で夜魔天から預かったばかりのカルラだった。
「なんだあ。このガキ、そこをすぐどけ! 阿修羅、待ってくれ!」
阿修羅はちらりと後ろを向くと、鼻で笑ってまた前を向く。腕にはしっかりと阿修羅琴を抱えている。
「阿修羅様。行儀の悪い女神様がこちらに」
そう言って姿を現したのは銀髪を靡かせたサティア。その手には色鮮やかなドレスを身に纏い、甘ったるい香りを辺り構わず振りまく女神が抑えられていた。
「痛い! 離してください!」
「シュリー!? どうしてここに……。サティア! 手荒な真似はよさんか!」
ほんの五メートル四方の中に、帝釈天、カルラ、阿修羅、サティア、そしてシュリーがそれぞれの面持ちで睨み合っている。
「サティア、女神さまの腕を放してやれ。なにか御用でしょうか?」
落ち着いた声で、しかし明らかに怒りを込めて、阿修羅はシュリーに声をかける。シュリーはその言葉にきっと目をやるが、それには答えず帝釈天に向かって言った。
「帝釈天様。はっきり仰ったらどうですか? おまえのような小娘に用はないと。破談ですって? どの口がものを言うのでしょうか。帝釈天様にもらってもらえるなんて、おまえの一族全部が全財産積んでもあり得ないこと。その竪琴のおまけだとしても……」
「良さないか、シュリー! 阿修羅、私の話を聞いてくれ」
阿修羅は小刻みに震えていた。いかに自分より位の高い女神とはいえ、これほどに愚弄されたことに耐えられなかった。
「聞く耳は持たん。帝釈天、全てはおまえの身から出た錆だ。阿修羅琴が欲しかったのか? 残念だな。貴様には指一歩触れさせるつもりはない。もちろん、私の身も」
帝釈天はそこで息を飲む。最後通牒のように放たれた言葉は、どんな詫びもどんな甘い言葉も届かない、強い拒絶が全身から伝わってくる。十三年もかけてここまで来たのに。柄にもなく禁欲までしてようやく手に入れたのに。明日は婚約式だったのに。帝釈天は絶望のなか、膝を折った。
膝を折る帝釈天の前に女神シュリーが駆け寄り、手を取り訴える。
「帝釈天様、何をしておられるのですか!? 私がいるではないですか。美と豊穣と愛の神である私が。あの竪琴を奪うのです。そうすれば、何もかも想いのままなのですよ!」
どうしてここまでこの女神は、帝釈天を唆そうとするのか。阿修羅は不思議そうに彼女の顔を見る。それほどにこの女は帝釈天を愛しているのか? 私もあの男を愛していたと思っていた。だが、あっという間に気持ちは萎えてしまった。王とは言え、あんな傲慢なだけの男をなぜそこまで?
「思いのまま……?」
帝釈天がゆっくりと頭を上げる。
「そうですよ。帝釈天様」
見上げた先に、汚物でも見るような冷たい目をした阿修羅がいた。帝釈天はその目を睨みつけ、決して離さず体を起こす。大きな体が再び阿修羅の前にその姿を現した。
「寄越すのだ、阿修羅、その竪琴を。それさえあれば、思いのままだ。おまえも私のものになる!」
「帝釈天、気でもふれたか? おまえがこれを持っても……!」
阿修羅が竪琴を無意識に背中に隠すと、それを奪おうと帝釈天が阿修羅に迫った。カルラは突き飛ばされて尻餅をついている。その俊敏な動きに驚いたサティアが阿修羅を庇って飛んだ。
「どけ! ええい、邪魔をするな!」
「この先には行かせません!」
帝釈天は立ちはだかるサティアをかいくぐろうとする。それをサティアが体いっぱいを使って阻止をすると、二人はもみ合いになり地に倒れた。だが、ふいにサティアの動きが止まる。阿修羅が悲鳴にも似た声を上げた。
「サティア!! 帝釈天、貴様!」
サティアは血の気の引いた姿のままだらんとして動かない。顔を上げた帝釈天の手には金剛杵が握られていた。
帝釈天はゆっくりと立ち上がると阿修羅を見据え、金剛杵を掲げた。
つづく
記憶の旅編はあと二話です。