第三十七話 ~記憶の旅編 6~
ついに阿修羅と帝釈天の婚約式、前夜祭が始まった。
前夜祭には五界の王を始め、名だたる神が集まり祝杯を挙げる。その中には、阿修羅の一族も含まれる。明日の本番は、祭事とパレードとなるため、一堂に集まり騒げるのは今日だけである。これが結婚式ともなると一週間にわたり行われるのだが。
阿修羅の一族は代々戦を取り仕切る部族だ。だが、今は四天王を始めとする天界軍に押され、天界の下部で静かに暮らしている。既に戦える力を持ったものは少なくなっていた。サティアは代々阿修羅一族に使える家系だが、サティアの家ももう没落寸前だった。
阿修羅は、この婚約式が今や狂言に過ぎなくなったことは敢えて知らせていなかった。だが、来訪者のリストに手を加えたことで、その意図は十分に伝わっただろう。
「阿修羅様、いつもながらお美しゅうございますな」
サティアを供に阿修羅が客人たちの挨拶を受けていると、朱色の髪と同じ色の瞳に合わせるように衣装も朱色でまとめた紳士が阿修羅の前に立った。長身で威風堂々としているが、その表情は柔らかかった。
「ああ、夜魔天殿。良く来てくれた。元気にしていたか?」
今まで対応していた他の相手とは明らかに違い、阿修羅は素直な笑顔を夜魔天に向けた。
「この通り、元気にしております。……時に阿修羅殿、このような席で失礼を承知で申しますが……」
夜魔天は、周りを静かに見渡し、声を顰めた。阿修羅も笑顔を蓄えながらも自然に夜魔天の声に耳をそばたてた。
「あまりよくない噂を耳にしております。大丈夫ですか?」
「ふふ。さすがに地獄耳だな」
阿修羅は結い上げた黒髪から零れている後れ毛を指に絡めると、妖しい瞳を投げかける。同じ赤い瞳をした夜魔天とは何故か気が合う。夜魔天は阿修羅の心が帝釈天への想いで鈍っていないことに安堵した。
「それでは、今日は役に立つ者を連れてきました。腹心がサティア殿だけではこの先何かとご不便でしょう。信頼だけは置けるものです。私との連絡係としても使って頂きたい」
「ん?」
夜魔天は、一緒にいた若い兵士を阿修羅とサティアに紹介する。サティアは阿修羅の背後から半歩歩み出て、その若者を品定めするように見た。
「名をカルラといいます。まだ若いですが、名門ガルダ族の一派です。修行のつもりですので、思うように使ってやってください。ほら、カルラ」
「お、お初にお目にかかります! カルラと申します。阿修羅様に忠誠をお誓い申し上げます」
夜魔天に紹介されたカルラは、その場に跪き、阿修羅に礼を取った。頷く阿修羅とアイコンタクトしたサティアが前に出る。
「初めまして、カルラ殿。それでは早速仕事をしてもらいましょうか」
「はい、よろしくお願いします!」
カルラは精悍な顔立ちをした若い神だった。スリムで均整のとれた肉体は鍛えられており、短い茶髪に同色の瞳は大人しそうにも見える。だが、きりっと結ばれた口元からは意志の強さを感じられた。
ガルダ族というのは、怪鳥ガルーダの一族だ。と言っても彼は獣人ではなかった。変化もできないという。もしかするとガルダ族の派生なのかもしれない。だからこそ、夜魔天が面倒を見ていたのか。
再び阿修羅と目を合わせ、夜魔天に頭を下げると、サティアはカルラを連れてどこかへ行った。夜魔天はカルラがサティアの後を走っていくのを目で追った。
「夜魔天殿。前夜祭が終わったら、動きがあるかもしれぬ。ご留意願いたい」
「承知しました」
長い挨拶が終わると、夜魔天は赤い衣装を翻してその場を去る。入れ違いに既に出来上がっている帝釈天が杯片手にやってきた。
「うん? 夜魔天殿か。何をじっくり話していたのだ?」
「いや、大したことではない。一人若いのをもらった。今後忙しくなるからな」
「なんだ、人が必要ならいくらでも回したのに」
帝釈天は不服そうに阿修羅を見た。夜魔天と阿修羅が親しいのは帝釈天も知るところだった。彼が13年の禁欲をしていた時も、最も気になったことだ。阿修羅は頻繁に地獄の王と会っていた。彼女にその気がないとしても、夜魔天に下心がないとは思えない。帝釈天は側近にずっと見張らせていた。
「そうか。では次はおまえに頼もう」
阿修羅の言葉に帝釈天は相好を崩した。油断ならない男だが、上機嫌な今の彼は扱いやすかった。
「それより、この宴が終わったら湖畔のテラスに来てくれないか。話がしたいのだが」
阿修羅は誘うように帝釈天を上目遣いで見た。このような仕草を阿修羅はあまりしたことがない。人に媚を売るとか絶対にしないのが信条だ。だが、今宵ばかりはそうも言っていられない。
「もちろん。おまえの願いなら何でも聞こう」
酔いのせいなのか、上気した頬をより一層朱色にして帝釈天が応じた。鼻息荒く、今にも阿修羅に触れんばかりだ。
「ふふ、困った奴だな。酔いつぶれるなよ」
精一杯の芝居をして阿修羅は笑顔を帝釈天に向けると、足早にその場を後にし、都合よく挨拶にやってきた女神の対応をした。
「お初にお目にかかります。シュリー・マハディーヴィと申します」
阿修羅の目の前に現れたのは、主役の阿修羅よりも色鮮やかなドレスに身を包んだ、世にも稀なる美しさと見事な体を持つ女神だった。襟元から惜しげもなく晒された胸の谷間は容赦なく人の目を奪う。
「噂にはお聞きしておりました。美の女神とはこれほどにお美しいものなのですね」
阿修羅は作り笑顔を貼りつけて美の女神に話しかける。その時、彼女から漂ってきた甘ったるい香りに阿修羅は一瞬青ざめる。
――――この香り……。間違いない。
「帝釈天様もお幸せですね。阿修羅様のような美しく、それ以上に強いお方と縁を結ばれて……」
美の女神は阿修羅を上目遣いで見つめる。その瞳にはどこか人を馬鹿にしたような自信に満ちたものがあった。真っ赤に染め上げた口元を歪め、笑いをこらえているようにも見える。
「さあ、どうでしょうか」
それに対抗するでもなくさらりと受け流し、阿修羅は踵を返してその場を離れようとした。その時、
「竪琴の……、ご披露を楽しみにしております」
阿修羅の後れ毛がわずかに揺れる。黄金のワンピース、ふんだんに蓄えられたドレープを翻し、振り返りもせず歩を進めた。
――――許さん……。
阿修羅は今まで味わったことのない屈辱に全身を震わせていた。その形相はまさに鬼のもの。誰に見せることもなく、阿修羅は足早に大広間を後にした。
つづく
次回はまさに修羅場となるか。