第三十三話 ~記憶の旅編 2~
阿修羅は姿見の前で鎧を装着していた。上半身を守る鎧は白を基調に華やかなレリーフや宝玉による装飾が施されている。同じように肩当て、すね当ても見事な細工だ。しかし、天界の技術により可動域は普通の衣服のようで軽く、動きを邪魔するものではなかった。
満足げに頷くと、阿修羅は流れるような黒髪をつむじ辺りで束ね、兜代わりの小さなティアラを付けた。
「阿修羅将軍、サティアです。四天王様がおみえになりました。ご準備はできましたでしょうか」
扉の向こうで副官のサティアが声をかけた。そろそろ出陣の時間が迫っている。
「ああ。大丈夫だ」
阿修羅は腰帯に剣を装着すると、扉を開けた。そこには武装したサティアが傅いている。黒光りする防具に身を包んだ彼はすらりとした長身だが、引き締まった筋肉の持ち主だ。背中まで伸びた銀色の髪は癖もなくストレート、眉目秀麗な彼は阿修羅の信頼厚い側近だった。
「いよいよですね。阿修羅様」
「そうだな。久しぶりの戦だ。おまえも腕がなろう」
サティアは顔をあげ、阿修羅の出で立ちを碧色の双眸で見上げると、ほうっと息を吐く。
「どうした?」
「いえ、いつもながらお美しいと……」
「何を言うかと思えば。おまえらしくもない」
「申し訳ございません」
慌てて立ち上がり、頭を下げる。その前を阿修羅は通り過ぎていった。ふわりと桃の花のような香りがする。サティアはその香りに誘われるように背後を追っていった。
「帝釈天様はよくお許しになりましたね。阿修羅様が兜率天に向かわれることを」
その背中にサティアが話しかけた。彼は阿修羅の宮殿内に住んでいる。宮殿内と言っても、棟は別だが、いつでも阿修羅の危急の指示に添えるよう付き従う。権謀術策にも長けている賢い男ゆえ、阿修羅も重宝していた。
「私から戦を取るなど、命を取ると同じこと。いくらあいつでもそんなことはさせん。さあ、今日の四天王のご機嫌はどうかな?」
六界最強の天界軍、実に一億を超える兵士を預かる阿修羅。その軍は四つに分けられ、それぞれを四天王が長となっている。また、それとは別に阿修羅自身は、サティアのような側近で固めた精鋭部隊を持っていた。
「久しぶりの戦です。ご機嫌麗しいかと思います」
サティアはそう答えながら、複雑な心境でいた。彼の諜報活動は常に稼働中。そこに漏れ聞こえてくるのは、主人の婚約者、帝釈天の不実ばかり。もちろん彼女は知る由もない。昔から素行のよくない帝釈天であったが、阿修羅を手に入れてからはその病も収まった態を見せている。しかし……。
――――あの病は治るものでもない。またむくむくと頭をもたげているはずです。実際この出陣、帝釈天にとっては願ってもいない好機。阿修羅様は戦を、帝釈天は色を、各々譲れないものに手を出すということになりかねない……。
この戦が終われば、今のところ二人の間だけで交わされている婚約を広く五界に公表する。その婚約式は五界始まって以来の豪華なものになると言われている。この世界の創始者、梵天はもちろん、天界六天に渡る全ての神、また五界の王達も参列する。だからこそ、兜率天で起こっている内乱を鎮める必要があるのだが。
七日間の戦は終始阿修羅達天界軍の優勢の内に終結した。兜率天で内乱を起こしていた一派は全員天界人としての命を終え、地獄、畜生、人間界へと堕ちていった。
「サティア、工匠のトバシュを呼んでくれないか」
「阿修羅様、剣がどうかしましたか?」
トウリ天の屋敷に戻るとすぐ、阿修羅はサティアにそう命じた。甲冑を脱ぎ捨てると、束ねた髪を解き、首を左右に振る。流れるような長い髪が美しい残像を残して揺れた。
「いや、剣ではない。婚約式で『阿修羅琴』が必要になる。このところ琴を出していないので気になっている」
「なるほど。承知しました。すぐに手配しましょう」
サティアはそう答えながら、まだ何か話したそうに阿修羅の顔を見た。
「なにか?」
目ざとくその様子に気付いた阿修羅が鋭い瞳でサティアを射る。
「あ、いえ、その」
言いにくそうに口ごもっていると、阿修羅は呆れたようにため息をつく。
「身を清めたら、善見城に出向かなければならん。用がないならおまえも戻って準備をしろ」
「申し訳ございません。その、その帝釈天様のことで」
「なに? どういうことだ。話せ」
それから数時間後、真っ白のマントを翻し、濃紺の軍服に身を包んだ阿修羅がサティアや四天王ら将校たちと共に善見城の広くて長い廊下を歩いていた。
阿修羅を頂点にしてちょうど二等辺三角形のように進む一隊を囲み、廊下の両端には城に詰めている役人や使用人が並び頭を下げている。集団はその間をさながら大河を分ける一隻の船のようにも見えた。
サティアは阿修羅の斜め後ろに位置し、馬の尾のように揺れる彼女の長い黒髪とチラチラと見え隠れする細い腰を見ている。阿修羅が纏う軍服はローウェストに襞スカートのワンピースタイプだ。それは阿修羅の抜群のスタイルと美脚を強調する。彼女の背後に控える武将の多くは、知らず知らずのうちに視線を向けていた。
「よく戻った。此度の働き、ご苦労であった。皆、楽にせよ」
玉座には満面の笑みをたたえる帝釈天がいた。明るい髪の色に合わせた様な黄金のマントを羽織り、威風堂々と傅く一団を見下ろしている。兵士たちはゆっくりと立ち上がる。先頭の阿修羅は頭を上げると、切れ長で瞳は宝玉のような赤い双眸を帝釈天に向けた。
「お言葉ありがたく存じます」
抑揚のない声で阿修羅がそう応える。
「おお、将軍。そなたの武勲は届いておる。だが、とにかく無事な顔を見ることができて、私は嬉しく思っている」
大勢の部下、城の役人の前で帝釈天は臆面もなくそう言った。阿修羅はその言葉に顔色一つ変えずに口の端だけで笑ってみせた。それは安堵や喜びの笑みではなく、冷笑に見える。背後でその様子を感じ取っていたサティアは、心胆寒からしめる思いでいた。
帝釈天も違和感を感じたが、それをこの場で披露するわけにもいかない。努めて平静を装い、
「向こうに勝利の宴席が設けてある、早速美酒を味わうがよい!」
そう言うと、阿修羅に目配せをする。阿修羅は半身だけ振り向き、はっきりとした口調で部下達に声をかけた。
「皆、遠慮なく頂け、羽目を外し過ぎないようにな!」
その一声で、場は一斉に盛り上がった。歓声を上げると、足取り軽く宴会が準備されている部屋へと移っていった。サティアも阿修羅を気にしながらそちらへ向かう。玉座の間にいた役人や使用人のほとんどもそちらへ向かい、後には帝釈天と阿修羅、数人の側近のみとなった。
「どうした? なにかあったのか? 阿修羅」
兵士たちが引き払ったのを見届けると、転がるように玉座を降りてきた帝釈天は阿修羅の傍に駆け寄った。マントはすぐさま外され、黒地に銀糸、金糸による細かな刺繍が施された軍服姿ですぐ横に立っている。阿修羅より40センチ以上長身の帝釈天は、自然と見下ろす形になった。
「なにもない」
憮然として応える阿修羅は、帝釈天の方を見ようともしない。彼からはいつもの柑橘系の香りとは異なり、甘い匂いが伝わり鼻をついた。
「そんなことはないだろう。一週間ぶりに会えたのだ。顔をよく見せてくれ」
帝釈天は阿修羅の小さなあごに手をかけようと伸ばす。だが、指先が触れるより先にその手を弾かれてしまった。
「香を……。変えたのか?」
驚く帝釈天の目を阿修羅の赤い瞳が射た。一瞬たじろぐ。
「え、ああ、そうだな。今日のは少し甘いか?」
「その匂いは好かん!」
そう言い放つと、阿修羅は踵を返してその場を去る。祝宴の場にも寄らず廊下へと向かった。
「待て、阿修羅。式の話もある。明日おまえの屋敷に出向く。香は元に戻しておくから……」
背後に慌てたような声が追いかけてくる。阿修羅は振り向きもせず、それを払うように右手を上げてひと振りした。
つづく
次回も~記憶の旅編~です。