第三十二話 ~記憶の旅編 1~
今回からしばらく、阿修羅の記憶の旅編が始まります。
阿修羅が初めて六界に存在した時のこと。舞台は天界。
天界の中心に聳える須弥山を背中にして、トウリ天は広大な土地を広げる文字通りの極楽である。その地の王である帝釈天は善見城に住み、その周りには彼の部下である神々と臣下がそれぞれに館を持ち、暮らしていた。トウリ天には小さな山々や湖、海も存在する、一つの大陸であった。
――――ここは、どこだ? 私は何をしている?
阿修羅は軽い頭痛を感じ、こめかみを押さえながら起き上がる。見たこともない、いや、どこかで見たことのある、天蓋のベッド。その横には白い花瓶に飾られた美しい花々がいくつも部屋に置いてあった。花の香しい匂いにむせ返るほどだ。他にはガラスの丸いテーブルに椅子、ソファーなどの家具が広い室内にばらばらに置かれていた。
ふと横に目をやると、大きな窓があった。その窓から外を覗く。そこには広大な庭に森が見え、右手には蓮池らしき水辺が広がっていた。
阿修羅はベッドから抜け出し、改めて自らの姿を見る。驚いた。今まで着たことのないような、光沢のある薄いブルーのロングドレスを身に纏っていた。真ん中に大きくスリットが入っているので阿修羅の美脚が妖しく覗いている。普段のミニスカートの方が健全に思えるほどだ。
――――ここは……。過去か。私は思い出しているのだな。あの日々を。
「阿修羅様。帝釈天様がおいでになりました」
侍女が扉の向こうから声をかける。今は朝なのか、昼なのか。天界は一日が途方もなく長い。そしてその一日が果てしなく繰り返されていく。いつか訪れるゆるやかな死の日まで。
「今行く。待たせておいてくれ」
「承知しました」
阿修羅は壁に埋め込まれた姿見の前で、髪と衣装を整える。長い髪は背中にかかり、額に金色のカチューシャのようなものを付けている。この金色には、何か意味があったと思い出す。
白い壮麗な扉を開け、広間に通じる廊下を歩いていく。開け放たれた両扉の向こうには、長身で偉丈夫な体をソファーに沈める帝釈天が待っていた。ゴールドブラウンの髪は前髪を作らず額を出し、肩のあたりまで伸びている。ゆったりとした貴族風の衣装に宝玉が埋め込まれた帯を締め、王の風格を漂わせている。自信に満ちたグレーの瞳を阿修羅に投げかけた。
「眠っていたのか?」
「ああ。待たせてすまなかった」
「いや、おまえのためなら何千年でも待つよ」
歯の浮くようなセリフに、阿修羅はまんざらでもない顔をして笑う。
「相変わらずだな。ところで兜率天で起きた内乱はどうなっている? そろそろ私の出番ではないのか?」
「え? 全くおまえも懲りないな。そろそろ戦のことは忘れてはどうだ?」
口元だけで笑う帝釈天の正面に阿修羅は腰を落とす。ふんわりとしたソファーが阿修羅の華奢な体をゆったりと包み込んだ。
「何を言うか。戦神としての職務は全うする。たとえ善見城に入ってもそれは譲れない。そう申したではないか」
流し目でちらりと帝釈天を見ながらそう言うと、細い指先を唇に持って行く。腕に幾重にも巻かれたリングがカラカラと音を鳴らした。
「お茶をどうぞ」
侍女が阿修羅のカップを大理石に似たテーブルの上に置く。帝釈天の空になったカップにはお代わりを注いだ。
女が向こうに行くのを見計らって帝釈天が阿修羅の隣に座ってきた。柑橘系のフレグランスが空気の揺れと共に鼻腔をくすぐる。阿修羅は帝釈天が伸ばす右手を軽くいなす。
「いつもながら焦らすな。私の美しい華は」
「ふふふ、華か。おまえの華は棘だらけだぞ」
「案ずるな。棘も毒もみな平らげてみせよう。それでなければ求婚などせぬ」
帝釈天は阿修羅の小さなあごの下に右手をそえ、上を向かせる。
「透けるような肌、ほんのりと桃色を映す頬。切れ長の明眸に長い睫毛。憂いのある赤い瞳。神の造詣最たるものだな。まさに芸術だ。気の強そうなくっきりとした眉も私好みだ」
「気の強いは余計だ」
「ふふ。そしてこの唇。私を誘ってやまない淫靡な朱色よ……」
帝釈天は阿修羅の唇を右手の親指でなぞる。そして唇に振れる寸前まで顔を近づけるとこう囁いた。
「誰にも渡さない」
ゆっくりと阿修羅の唇の上を這わす。そして両手で顔を包み込むように引き上げるとたっぷりと時間をかけて口づけた。
テラスに抜ける掃き出し窓は、吹き抜けの広間の全てを光で満たす。開け放たれた窓からは新緑の香りを乗せた風がフロアへ通り抜けていった。
つづく
次回、~記憶の旅編 2~に続きます。