第三十一話 帰還
修羅王邸の空は風雲急を告げ、真っ黒な雲に覆われた。方向を定めない激しい風が吹き荒れ、空で相対する騎馬兵達を慌てさせていた。
「ボダナンラタ……」
「やめろー!」
帝釈天は恐怖に顔を引きつらせ、慌てて金剛杵を阿修羅に向けて撃った。強力な稲妻は阿修羅を直撃する。
「う!」
オーラがその威力を弱めはしたが、阿修羅は文言を最後まで唱えること叶わず落ち葉のように落下していく。天馬がその後を追うが、間に合いそうもない。
飛びそうな意識を必死に留め、阿修羅は文言を続けようとした。そう、これこそ阿修羅の『真言』。今までの誰よりも強力な、おそらく六界最強のマントラだ。しかし、今回はこのマントラを使うことはなかった。なぜなら……。
「阿修羅―!」
問答無用の重力で落ちていく阿修羅の身体を、突如天空に現れた一尾の龍が掬い上げた。
全長20メートルはある、銀色の鱗が光る龍。神々しい身体は優雅に天空を泳ぐ。二本の角に長い髭、鋼鉄の爪をもつ四本脚。竜王ナーガの降臨である。その背に乗った男が落ちていく阿修羅の腕をしっかりと捕まえた。
「お、おまえ!?」
長い黒髪を後ろでに束ねた浅黒い肌の男が、安堵の表情で阿修羅を見ている。阿修羅は男の腕を握り返す。同時に男は阿修羅を引き上げ、龍の固い鱗の上に乗せた。
「リュージュ!」
「待たせたな」
リュージュは右側の口角をくいっと上げてそう言った。
「リュージュはんや!」「リュージュ殿!」「リュージュさん!」
ハラハラしながら阿修羅王の姿を見ていた機関室に大歓声が上がった。大ピンチのところに頼れる男が帰って来た。しかも神龍を伴って。
「よし! しっかりつかまってろ!」
リュージュは龍王の角を力いっぱい握ると帝釈天の軍に突っ込んで行く。すると阿修羅達の背後で雄叫びが響き渡った。背後を振り返る阿修羅の目に映ったのは、空を埋め尽くす鬼の軍だった。
「夜魔天殿!」
先頭には真っ赤な甲冑を付けたナイスミドルの夜魔天が自身の騎馬である二匹の犬に引かれる車に乗っていた。その後ろには天馬に乗るもの、自ら飛ぶものが続いていた。
「くそ! 夜魔天、またおまえか!」
帝釈天がその光景を見て盛大に悔しがる。金剛杵を撃つも、同じ雷の特性を持つ龍王に対しては威力が半減してしまう。
「仕方ない! ここは一旦退くぞ! 撤退だ!」
不利と見た帝釈天は全軍に向けてそう叫ぶ。兵士たちは修羅王邸の空域から亜空間へと戻って行った。最後に残った帝釈天は天馬を阿修羅達の方に向け、
「阿修羅! 必ずおまえを迎えに行く。待っておれ!」
そう言い残すと、軍と共に亜空間へと消えていった。
『黄金の天車』がこの地に降りてから、修羅王邸空域全てを巻き込んだ戦は嵐のように過ぎさった。
龍王ナーガはリュージュの指示に従って、二人を天車の最上階へと下ろし、いずこかへと去って行く。同じように地獄からの軍も夜魔天を除いて跡形もなく消えてしまった。実はあれには実体はなく、数騎の側近以外は夜魔天が作り出した幻覚だった。
「リュージュ、よく戻った。またおまえに助けられたな」
最上階に降り立った阿修羅はそうリュージュに声をかけると、膝をがくんと折り崩れ落ちた。二度のヴァジュラの攻撃に体は満身創痍。気力だけで意識を保っていたが、もう限界だった。
「阿修羅!?」
咄嗟に阿修羅を抱きかかえるリュージュは、そのまま強く彼女を抱きしめる。
――――もっと早く戻っていれば……。ごめん、今すぐおまえを癒すから。
解かれた長い髪をそっと上げ、リュージュは阿修羅の耳朶の下に口づけた。
時を少し戻す。六界転生省で夜魔天と合流できたリュージュは、すぐさま阿修羅達の元へ戻ろうとした。今や修羅王邸が戦場になってると知り、夜魔天に行き方を尋ねる。
「リュージュ殿、この転生省と繋がっているのは天界と地獄界のみなのです。一旦地獄界に行ってから修羅界に参りましょう。私も軍を連れて行きたい」
「だめだ! そんな余裕はない。帝釈天が攻めてくるに決まっているのに!」
焦るリュージュに夜魔天はあることを思い出した。龍王ナーガは実は地獄に住まっている。そいつを叩き起こし、リュージュ殿を連れていってもらえばよい。呼び出し方も夜魔天は知っていた。それはリュージュの龍の痣に彼自身の血を飲ませることだ。聞いたリュージュは迷いもせずに右手の痣のちょうど口の辺りを短剣で刺す。
「いいですか。呼び出しは貴方が痣を持っている間の三度だけです。それと、彼は防御はしますが、攻撃はしません。致死相当の傷を負えば帰っていくでしょう」
「なんか、役に立つのか立たないのか微妙だけど、とりあえずわかったよ」
「役に立ちますよ。彼なら修羅王邸まであっという間に連れて行ってくれるでしょう。それに帝釈天の武器、金剛杵と相性がいい」
リュージュが頷くと同時に、転生省の空にナーガが現れた。リュージュは初めて自分を守ってくれる神獣の姿を見た。銀色に輝く美しい龍。だが、見とれている時間はない。すぐさま飛び乗ると修羅王邸を目指した。
「リュージュさん、中へ入ってください。今から天車を離陸させますんで」
最上階で阿修羅の治療をしていたリュージュにトバシュが声をかけた。見ると下に通じる階段からトバシュが顔を出している。
「離陸? どこに行くんだ?!」
「わからんです。これは阿修羅王のご指示なんです」
リュージュは首を傾げながらも阿修羅を両腕に抱え階下へと降りて行った。無人となった最上階は大きな木擦れの音を立てながら、壁と屋根を形作り、元通りの最上階へとなっていく。全ての階で壁が閉じ、元の『黄金の天車』に戻ると、天車はゆっくりと修羅王邸の地を離れる。
阿修羅と修羅王軍を乗せた『黄金の天車』は亜空間へと船出する。誰からも察知されない悠久の彼方へと、いつ戻るとも知れぬ旅へと向かった。
つづく
次話からは、阿修羅の過去編になります。
彼女に甦る記憶とは……。