第三十話 決別
天界を構成する六天の一つ、忉利天は須弥山の最も高い位置にある。帝釈天の住む善見城はその忉利天の中央に位置し、壮大さは国のごとく、荘厳さは天界一を誇っていた。
湖を臨む真っ白なバルコニーからは、揺蕩う湖面が広がり、青い月が輝いていた。
「まるで二つの月があるようだな。美しいものだ」
端麗な顔立ちに切れ長の明眸を持つ女性が椅子に掛けて独り言ちた。流れるような黒髪が風に揺れている。華奢な腕に竪琴を携え、世にも稀なる珠玉の音を奏でる。金色のドレープがふんだんにあしらわれたロングドレスからは、長い手足が白い輝きを覗かしていた。
「いつもながら美しい音色だな……」
その背後にゆっくりと大きな影が被さった。逞しい腕をそっと彼女の肩におくと優しい声で囁く。
「だが、何よりも美しいのはおまえだ、阿修羅。湖面の月も天の月もおまえに勝るものはない。」
その言葉に阿修羅は振り返る。明るいゴールドブラウンの髪を肩まで垂らした長身の男が、流麗な衣を纏って立っていた。端正な顔立ちを一層美麗に引き立てる銀色の双眸が、阿修羅を見つめている。
阿修羅はその男を見上げると、柔らかい視線を湛えて微笑んだ。
「何を言っている。帝釈天……」
轟音に突然ひっぱたかれて阿修羅は意識を取り戻した。『黄金の天車』はまだ揺れている。視線の先の上空で、帝釈天が彼の騎馬である黒毛の天馬に跨り、右往左往している。先ほどまで臨戦態勢だった帝釈天軍の兵士たちが今は散り散りになっていた。そこにまた轟音とともに閃光が走った。
『修羅王軍の兵士はすぐに天車の中へ入るんや! 急げ!』
カルマンの声が天車の最上階まで響いている。機関室から号令をかけているようだ。あの轟音と閃光は、『黄金の天車』から放たれた大砲だった。
「阿修羅! 大丈夫か?」
いつからそこにいたのか、仏陀が心配そうに阿修羅の顔を覗いていた。さきほどの揺れでどこかでぶつけたのか、額から血が出ていた。
「シッダールタ……」
「今は詳しい話はできないが、私は……」
「今すぐ人間界へ帰れ」
阿修羅は仏陀の言葉を遮ると起き上がった。まだ少し頭がふらつく。さっき見た夢……。それが夢でないことに、阿修羅は気づいていた。
「阿修羅、聞け! わた……!」
ゔ! という短いうめき声をあげて仏陀が体を二つに折ると膝をついた。阿修羅がみぞおちに拳を入れたのだ。
阿修羅は仏陀を人間界に返すことを決めていた。今や生身の体でここにいることは、命に関わる。帝釈天が作った流道は当てにならないが、ここで自分が作ればいい。まだ足元が揺れ、あちこちで大砲の轟音が鳴り響くなか、阿修羅は流道を作る。修羅王邸を経由すれば、無事に人間界へ行けるだろう。
――――おまえは知っていて何も言わなかったのだな。もう、二度と会えないかもしれない。なぜ……、黙っていたのだ。
仏陀の体を流道の中へ押し込むと、そっと閉じた。自然と涙が流れる。汚れた頬に一筋の跡がついた。
「阿修羅王!」
聞き覚えのある声に振り向くと、クルルに肩を預けた白龍が阿修羅の元に駆け寄って来た。
「早く天車の中へ入りましょう!」
「白龍、まだインカムを持っているか?」
「え? あ、はい。あります」
白龍からインカムを受け取ると阿修羅は階段とは逆方向に向かおうとした。
「阿修羅王! 何をされるのですか!?」
「白龍、クルルとともに機関室へ行け! 私はまだやることがある!」
「しかし!」
「心配はいらない。すぐにそちらに行くから。クルル、さっさとそいつを連れて行け!」
「あ……、うん。阿修羅王も早く戻ってきて!」
心配そうな二人に阿修羅は無理やり口角を上げて笑って見せた。
『カルマン! 聞こえるか?』
『阿修羅はん! 無事やったか!?』
『いいか、良く聞け。天車を発車させるんだ。その際、最強の防御張ることを忘れるな。誰からも見つけられないようにするのだ』
インカムを通じての指示、耳の向こうで息を飲む音が聞こえた。
『本気でっか?』
恐る恐る口にした。
『本気だ。今すぐ取りかかれ! 修羅王軍の兵士は希望するものだけ天車に乗せろ! 出発は私が合図する』
『了解や!』
阿修羅は空を見上げる。激しい天車の攻撃に、乱れに乱れた帝釈天軍の陣形も少しずつ秩序を取り戻し始めている。
「阿修羅王! 早く退避してください! カルマンから指示が出ています!」
ずっと最上階で戦っていたカルラが声をかけた。天馬に乗っているのでこのまま天車内に入るつもりなのだろう。
「カルラ、良いところに来た。おまえの馬を貸せ!」
「え!? どういうことですか?」
「説明している暇はない。さっさと降りて、おまえはすぐ中へ行け!」
有無も言わさず阿修羅はカルラの天馬に乗ると、上空へと舞い上がった。カルラの心配そうな顔はあっという間に小さくなっていく。天翔ける阿修羅の目の先には、煌びやかな甲冑を付けた帝釈天の姿があった。
いきなりの砲撃にさらされた帝釈天はすぐさま自陣に戻り指揮を執った。帝釈天は引くことを考えてはいない。陣をたてなおしたら、今度こそ一斉攻撃をしかけ、修羅王軍を壊滅させる。もちろん目的は阿修羅を手に入れることだ。
「帝釈天! おまえに渡すものは何一つない! 琴も私自身もおまえの手には渡らない!」
まだ砲撃を避けながら陣を引いていた帝釈天はその声に驚き振り向く。そして阿修羅がたった一騎で飛んできたのを見て、下卑た笑みを浮かべた。
「阿修羅……。貴様のようなものを『飛んで火にいる夏の虫』と呼ぶのだ。私はその両方を手に入れる。そのために全てを捨てたのだ」
「ふふ。哀れな奴だな。手に入らぬもののために全てを失ったか。もし、私が全てを思い出していたのならどうする?」
「なに? 思い出したのか? 阿修羅!?」
帝釈天の両の瞳が輝く。それは歓喜と欲望が混ざり合い銀色の目を一層妖しくさせた。阿修羅は全てを思い出したわけではない。だが、断片的な記憶のフラッシュバックが少しずつ形を成して来ていた。そして、最も大事なことが、はっきりと甦っていた。
阿修羅は口元を緩ませると真っ赤な明眸を見開き意識を集中した。まだ体中の傷は癒えてないが、それでも赤い炎のようなオーラが全身を包んだ。
「ノウマクサマンダ……」
阿修羅はゆっくりと両腕を胸の前に持っていき、掌を合わす。その様を見て青ざめたのは、誰あろう帝釈天だ。
「や! やめろ! 阿修羅! 今のおまえがそれを唱えては!」
真っ青だった空がいきなり黒雲に覆われ、どこからともなく台風のような風が吹き荒れだした。
つづく
阿修羅の見た夢が示す事とは?
帝釈天に勝てるのか!?