第二十八話 最大の敵
目の前では、クベーラ王が肩で息をしながら、胸の前で両手を近づけ印を結んでいる。そして『カッ』と目を開くと。真言を唱える。
阿修羅は天馬の手綱を握る手に力を入れた。眼下には両軍が戦いを繰り広げる天車が見えるが、随分高度を上げたので、もはやミニチュアサイズにしか見えない。それでも最上階にいる兵士たちは、ただならぬ空気が流れる上空を気にしていた。
「阿修羅王! 今すぐ行きます!」
トバシュに翼を縫ってもらった白龍はバサバサと羽ばたいてみた。だが、まだ飛ぶには早すぎる。
「白龍さん、もう少し待ってくれんかのう。もう少しで繋がるはずじゃ」
横でトバシュが心配そうに声をかける。口惜しそうな白龍がぶるると鼻をならした。その瞬間だった。
「ああ!」
上空でまた爆発が起こる。クベーラ王が真言を発したのだ。炎を帯びた爆風が阿修羅に向かって放たれた。
「「「阿修羅王!」」」
最上階で一斉に悲鳴にも似た声があがる。白龍はトバシュが止めるのも聞かず、上空に飛び出した。
「白龍さん!」
重そうに翼をはためかせながら、阿修羅のいた場所に向かう。しかし、白龍の目は阿修羅を捉えることができなかった。
「いない?」
放たれた炎が消え煙が立ち消えたところにも、爆風の走った先にも阿修羅の姿はなかった。
「はあははあ! 消し飛んだかあ!」
クベーラ王がこれ以上開けられないほどの大口を開けて、勝利の雄たけびを上げる。だがその時、頭上に黒い影が超高速で落ちてきていた。
阿修羅はクベーラが真言を放ったと同時に、天馬を上へと走らせた。そして、自分は天馬から飛び降りる。クベーラが作り出した爆風による上昇気流に乗り、両手両足を思い切り伸ばして文字通り飛んだのである。
そして上昇気流が去ったあと、阿修羅は空中で回転すると自らの体をクベーラ目掛ける槍のように落下させた。
「愚か者」
阿修羅は口角を上げ、にやりと笑う。そしてそのままクベーラ王の天馬に突っ込んだ。激しい衝撃と共にクベーラに体ごと突撃した阿修羅。
「な、なあに!!」
突然石のような塊が自分の体に降って来た。すぐには何が起きたのかわからないクベーラ。天馬の背にのけ反り、落ちてきたものを見て心臓が止まる。
「あ、阿修羅!?」
それは、真っ赤な宝石のような明眸で自分を見ていた。
「覚悟……」
そんな声を耳にした。そんな気がした。鞘に納めた剣を阿修羅が神速で抜く。クベーラは頬や髪にわずかな風圧を感じた。阿修羅の姿がずれていく。いや、それは自分の視界がずれていた。
悲鳴を上げる暇もなく、クベーラ王の首が落ちていく。『黄金の天車』の最上階にそれは不愉快な音を立てた。リンゴが床に落ちた時のような形あるものが崩れる音だ。刃を突き付けあっていた両軍の兵士が一斉に目を向けた。
「うわあ! 首が落ちてきた!」「クベーラの首だ!」「クベーラ王の首だ!」
『黄金の天車』は両軍入り乱れ、ハチの巣を突いたような騒ぎになった。そしてその首を追うように、青の鎧を纏った立派な体躯が落ちてきた。それで兵士達はもう、何もかもを悟った。今度は逆に静かになった。
「クベーラ王は討ち取った! クベーラ王配下の者、今すぐ膝を折れ!」
阿修羅がいつの間にか白龍に乗り、最上階のすぐ頭上にまで降りてきていた。流れるような黒髪を風に靡かせ、その背を白い陽が照らす。あまりに神々しいその姿に、クベーラ王の兵士たちは次々に武器を放り出した。同時に修羅王軍が勝利の鬨を上げる。阿修羅は満足そうに頷いた。
「白龍、大丈夫か? まだ痛むだろうに」
「大丈夫です。トバシュの道具はなかなか役に立ちますね」
空上で勝利に湧く兵達を見下ろす。白龍の言葉に阿修羅は複雑な表情をした。それでもやはり、リュージュに居て欲しい。そう思っているのだろう。ふっと溜息をついた。それは安堵のため息なのか、それとも理不尽なことに抗えない悔しさなのか。だが、その時だった。突然カルマンの声が耳に響く。
『トバシュ! 阿修羅王! すぐに天車の中に入るんや! 危ない!』
「何事だ! カルマ……」
その時、修羅王邸の真っ青な空が割れた。上空を飛んでいた阿修羅が凄まじい殺気に背後を振り向くと、強烈な光が自らに向かって走るのを目撃した。
「!」
声も出なかった。必殺の衝撃が体を走る。白龍の背から落ちる。受け身がとれない。同時に白龍が力なく落ちていくのも見えた。天車最上階の床が近づく。
二つの体がほとんど同時に肉を潰したような音とともに叩きつけられた。そして同時に、放置されていたクベーラの分断された体が一瞬にして炎に包まれた。
「ったく、どいつもこいつも役に立たんわ! 阿修羅王! クベーラを倒したくらいで有頂天になるなよ!」
勝ち誇った大声が雷鳴のごとく天空に轟いた。
強力なバリアをこじ開け姿を現したのは、荘厳な武具を纏い、黄金に煌めく金剛杵を手にした帝釈天だった。
阿修羅は最上階の床の上で両目をこれ以上ないくらい見開き見ていた。全身はがくがく震えている。怖いからではない。何とかして体を動かそうとするのだが、麻痺して全く動かない。
――――う、動けない。すぐに、すぐに反撃しないと!
『阿修羅! しっかりしろ! 今助けてやる!』
どこからか、そんな声がした。インカムはすでに先ほどの衝撃で耳から飛び出している。
――――ああ、そうか。でも、来るな。おまえには関係ないことだ。これは、私の……。私の……?
私のなんだ? 阿修羅は自分が横たわる視線の先にいる、帝釈天を見た。見事な漆黒の天馬に跨り、不敵な笑顔を浮かべている。
悠久の時の彼方、この姿を見たことがある。阿修羅は遠ざかりそうな意識を必死に留めた。
――――ノウマクサマンダボダナン……
チリチリとする脳内の隅で、意味をもたない言葉が滲む。阿修羅はその音を聞いていた。
つづく
ついに帝釈天登場。