第五話 選択の結果
「据え膳食わぬは……」とは、女性からそういうお誘いがあったら男としては当然応じるべきという意味です。
第五話 選択の結果
リュージュは人生最大の選択を迫られていた。動くか、動かないか。もうかれこれ10分ほど、指一つ動かすことなく突っ立っている。
「う~ん」
ため息のような声とともに寝がえりを打つ。リュージュの生唾を飲み込む音が部屋に響いた。
目の前に、阿修羅が全くの無防備かつ、何とも艶めかしい姿で眠りに落ちていた。白龍に起こしてきて欲しいと頼まれ、寝室に入ったのだが。
――これが、世にいう据え膳というものか――
少し違う。
閉じられた瞼には束になった睫毛が妖しく降り、透き通る肌に少し桃色がかった頬。規則正しい寝息は艶っぽく輝く唇から漏れている。
白い天蓋に覆われたふかふかキングサイズのベッドに、阿修羅は布団もかけずに眠っていた。長い手足はそのまま剥き出し。深く開いた襟元からのぞく、小ぶりだが形の良い胸も指で触れるだけで曝け出そうだ。そしてさきほどの寝返りで、さらに両足が無造作に開いてしまった。
「もう、限界だ!」
リュージュはそう叫んで、阿修羅のベッドに突進した。
「喝!」
「うぎゃ!」
もうあと数ミリで阿修羅の柔肌に届くところで、頭に痛みが走った。
「何をしているのかな。リュージュ」
振り向くと、そこには仏陀の姿があった。
「げっ!」
リュージュは慌ててその場に正座して頭を下げる。股間で固くなったものを手で押さえながら。
「す、すみません!」
思い切り錫杖で頭を叩かれ、耳までガンガンしている。
「んー? 何事だぁ? あ、シッダールタ!」
背中では、目を覚ました小悪魔の無邪気な声がする。
「どうしたのだ? 来てくれたのは、嬉しいが……。あれ? リュージュ、おまえそこでなにやってる?」
何やってるもどうもないよ。とリュージュは心の中で叫ぶ。泣きたい気分だ。
「白龍からお願いがきてね。リュージュに気の使い方を教えてやって欲しいと」
ひえ! マジで? 仏陀を前にして思わず全身に電気が走るリュージュ。
「気の使い方? ああ、『気』ね。そうだな。やはり末は偉い坊主になるって話だから、リュージュはそっち系なのかもな」
「ああ。まだまだ修行が足らないようだけどね」
そう言って、口元だけで笑うシッダールタ。リュージュは恐る恐るその顔を盗み見るが、師の両目に込められた怒りの形相に震えあがり、すぐに下を向いた。
リュージュは前世の人間界にいたころ、戦士として阿修羅とともに戦っていた。阿修羅の死後、仏陀が開いた教団に在籍していたのだが、仏陀より先に病死してしまったのである。
そしてこの生前はプレーボーイを鳴らしたリュージュが、なんと七百年後、仏陀の再来と呼ばれる僧に生まれ変わるという!
しかしそれまで何回も転生を繰り返さないといけないリュージュは、次の転生まで阿修羅に仕えることとなった。
「ところで、白龍がランチと言っていたよ。私もご一緒させてもらおう」
「ん。わかった。直ぐ行く。おい、リュージュ、おまえ私を起こしにきたのだろう? もう起きたから、さっさと行け」
彼はともに戦っていた頃から阿修羅に惚れている。それは今でも切ないばかりに継続中だ。
一方阿修羅は、前世ではそのことに気付いていたが、今となってはすっかり忘れてしまったようだ。逆に恋愛感情を起こさないほど、近い関係になってしまったのが原因かもしれない。
一途に仏陀だけを思う彼女にとっては、いつまでもリュージュは便利で頼りになる部下兼友人なのだった。
さらにリュージュは阿修羅に仕えるようになった時、仏陀から言い渡されていたことがあった。
「阿修羅に手を出したら、地獄に落とす」と。
今まさに、リュージュの魂は地獄行きを宣告されたに等しかった。
「ところで、見回りはどうだった。何か目新しい情報はあったか?」
白龍特製の激うまチャーハンを食べ終えて、お茶の時間だ。仏陀とリュージュは修行という事でどこかへ行ってしまった。
「一つ気になることが」
「うん」
「密厳夜叉はご存じですよね。修羅界の特1です」
特1というのは、第1級要注意人物のことだ。密厳夜叉は修羅界でも名だたる悪鬼神の一人。元々は天界の神に仕えていたが、争い好きが高じて、修羅界に堕ち、悪鬼神となった。術に長け、戦闘能力も半端なく高い。
天界から修羅界に堕ちた者は悪鬼神と呼ばれる。その数は両手では足りない。
修羅界でもその趣向は治らず、長い時間をかけて自分に服従する悪鬼を束ね、いくつかのグループを作っていた。そういう悪鬼神に追随した悪鬼を夜叉族と呼ぶ。
密厳夜叉もその悪鬼神の一人だった。
「もちろん。まさか、今回の件にはヤツが関わっているのか?」
阿修羅の声もやや緊張の色を帯びる。
「限りなく怪しいです。実は例のピカラ、密厳夜叉の手のものだとわかりました」
「へえ。あいつ、夜叉族だったのか」
「で、見回りの際に館に寄ったのですが、もぬけの殻でした」
まさかそれで、終わりじゃないだろうな? という目つきで白龍を見る。
「館に目を放ってきましたよ」
「うん。で?」
目というのは、自由に飛び回るカメラみたいなものだ。白龍の手にそれを受信するモニターがあった。
「私たちがいなくなってから、続々と夜叉共が集まってきています。何かあるようですね」
モニターを覗き込む阿修羅。指を顎に持っていき、唇のあたりをなぞっては指で挟む。そんな仕草がどことなく妖しくて色っぽい。こういうことを素でやってくれるので、周囲にいる男共は目のやり場に困るのである。
「もし……。夜叉族共が相手となると、長期戦になるな。奴らがつるんでいると厄介だ」
修羅界に散らばる悪鬼神たちのグループ。普段はお互いをけん制し合っているので、おいそれとつるむとは考えられないことなのだが。
「奴らに組織を形成することは可能でしょうか?」
「わからん。ないとは言い切れない。だが、もしそうであったとしても、大軍同士の戦いにはしたくない。そんなものは不毛極まりない」
修羅界の住人は死ぬことはない。当然、それは終わりのない文字通り不毛の戦いとなる。
――――不毛の戦い……。不思議だな。何度も口にし、耳にした言葉のように感じる。
阿修羅はふと思い至るが、白龍の言葉にかき消された。
「怪しい固まりを一つずつ潰していく。それが得策かと」
「わかっている。だがそれなら、一層急がなければ」
白龍の持つモニターを阿修羅はもう一度覗き込んだ。
「ふうん。ここに潜入してみるかな」
突然の提案に白龍は空いた口が塞がらない。
「な、何言ってるんですか!? 無理ですよ」
ちらっと視線を流して白龍を見る。
「無理? 私に無理なことなどない」
そう言うと阿修羅は立ち上がり、オーラの熱量をあげる。白い肌がくすんだ灰色になり、夜叉のそれになる。顔も残念なくらい醜くなった。
「よし、着替えを準備してくれ」
「本気ですか? 私も行きましょう」
「おまえは悪鬼に化けられないだろう。館の周りでリュージュたちと待機しておいてくれ。百人もいれば大丈夫だろう」
「でも……!」
まだ何か言おうとする白龍を制し、阿修羅はにやりと笑った。
「何も密厳夜叉と戦うと言ってない。奴らが何を企んでるか調べるだけだ」
絶対違いますよね。白龍は心の中で呟いたが、声には出さなかった。
阿修羅は夜叉族に扮して、密厳夜叉の館に来ていた。別に玄関から入る必要はない。流道を作って、忍び込めばいい。そして他の夜叉共と何食わぬ顔をして混ざる。
――――夜叉族の悪鬼どもか。この間戦った連中には夜叉族はいなかったように思う。今は下等悪鬼に戦わせているということだろうか。
阿修羅はお行儀が良いとは言えない夜叉族の顔をちらちら見ながら広間へと進む。何万ともいそうな夜叉達が一同に介してもまだ余裕がありそうな、それはアリーナ級の広さ。
天井も3階くらいの高さだろうか、不釣り合いなインドの神々の絵画で彩られている。だが、そこに主の姿はまだなかった。
――――密厳夜叉。どこに隠れているのか?
周りの夜叉族どもがざわめきだした。どうやら主のお出ましらしい。
――――よし! 鬼と出るか蛇とでるか!
阿修羅は身構えた。
「密厳夜叉大将! 密厳夜叉大将! 密厳夜叉大将!」
大騒ぎの夜叉たちのコールに続いてでてきたのは……。
「皆の者、静まれ!」
一瞬にしてコールは収まった。だが、それはすぐに落胆の声とともにざわざわが広間いっぱいに響いた。現れたのは、皆の期待した大将ではなかった。
「あれは副官のショウトラ様だ」「ショウトラ様か。密厳様はどうなさったのだろう」
夜叉共が口々に騒ぎ出した。
――――ショウトラか。名前だけは聞いたことがあるな。こいつも確かウチのブラックリストだ。
「皆には期待を裏切って悪いが仕方がない。密厳大将殿は来られないのだ。なぜなら、この館に招かれざる客が入り込んでいるからだ」
なお一層ざわめきが大きくなる。阿修羅はゆっくりと戦闘準備に入っていく。
「昼間から、この目障りな虫が飛んでいた」
白龍が放った目を右手に掴んで言う。
――――ち、バレてやがる。
阿修羅は右手で剣の柄を握る。
「修羅界のうるさいのが来ているようだ。さっさと姿を現してもらおうか!」
そう言うと、ショウトラが阿修羅に向かって目を投げた。それを見もせず、左手で掴む阿修羅。手のひらに納まるとき、それは小気味よい音がした。
周りの夜叉族どもがさっと動き、阿修羅の周りに円ができた。
「ふっ。最初からわかってたってわけか」
「流道を使ったのはまずかったね。この館の防備を馬鹿にしてもらっては困る。阿修羅王!」
「あ、阿修羅王!」
広間は一瞬のうちに、ハチの巣を突いたように騒然とした。みな一斉に武器を手にする。
「ふん! 雑魚どもが騒ぐな!」
阿修羅はオーラの熱量を急激にあげた。灰色だった髪が深い藍色に染まり、髪飾りが輝く。そして透明な陶器のような肌が現れ、光から生まれるように美しい肢体と端正な顔立ちが現れる。閉じた瞼がかっと開かれると、燃える様な赤い瞳が煌めいた。
「まとめてかかって来い!」
ヴィーナスの誕生でも見るような気分だった夜叉達も我に返る。一斉に阿修羅に飛び掛かった。剣が交わる甲高い音が広間に響く。
阿修羅は左右からの敵を蹴り倒しながら、剣で前方の夜叉ども数人まとめて薙ぎ払う。二分割された夜叉どもの体がばたばたと地に落ちた。
更には敵の肩を踏み台に飛ぶようにショウトラを目指す。だが次から次へと夜叉は襲ってくる。くるくると回転しながら、右手の剣を操り、返す長い足で蹴り飛ばす。美しい舞いを踊るかのように阿修羅は夜叉の躯の山を築いていく。
――――ったく! キリがない。数が多すぎる!
阿修羅は背中に刃が振り下ろされる風圧を感じた。咄嗟に振り向き後ろに飛ぶ。
そこには象ほどの巨体の夜叉が、今まさに阿修羅に剣を振り落とそうとしていた。
つづく
お昼寝阿修羅王
遠那若生先生から頂きたFAです!
ありがとうございました。