第十一話 要求
拉致された仏陀は?!
「どうだい? ここの居心地も悪くないだろう?」
数人の見張りが立つ牢の前で、シュリーが声をかける。術が掛けられた格子状の柵の向こうには座禅を組んだまま動かない仏陀がいた。
「そうだね。地に足がついていないのはどうも苦手だったが、酔うこともないし快適だよ」
仏陀は片目を開けて、シュリーを見るとそう返した。
「気付いていると思うけど、いくら瞑想したって、ここからは意識を飛ばすこともできないよ。強力な術が掛けられてるからね。あの貧乳娘と連絡取れなくて残念だったね」
『貧乳娘』。阿修羅が聞いたら激高するだろうな。と、仏陀は他人事のように考える。怒っている阿修羅の顔が思い浮かぶと、さすがに寂しさが募った。
「まあ、意識だけ飛ばして体が残ったら、それはそれでお楽しみが増えるけどねえ」
仏陀の眉間に皺が寄る。それこそ冗談じゃない。だからおいそれと人間界を離れられなかった。この女神は本当に油断できない。黙ったまま、仏陀が想いを巡らせていると、新たな人の気配がした。クベーラ王が来たようだ。
「シュリー、まだこの坊主が気になるのか? まあ、まさかのおまえが落とせなかったんだからなあ」
クベーラがよせばいいのに、シュリーの自尊心を傷つけることを発した。彼も色々思うところがあるのだろうか。
「な、何を言ってるのよ。こんな坊主のこと、何とも思ってないわ。こいつは鉄板胸好きのロリコンなのよ!」
クベーラ王の前だと、幾分可愛らしくなるシュリー。こんなでも、夫にはそれなりの情があるのだろうか? 捨て台詞を残して、シュリーはシナを作り、その場を立ち去った。
「おまえも大変だな。同情する」
牢の中から、仏陀がクベーラに声をかけた。クベーラはシュリーの後姿から仏陀に目を移すと口を歪ませて笑う。
「ふん、シュリーの悪口は許さん。今度言ったらその舌を抜いてやる。俺にとっては最高の嫁だからな。いや、この世の男の中で最高の嫁だ」
仏陀はそれには反論しなかった。価値観の違いだろうが、美と富と幸福の神が嫁なのだから、確かにそれ以上はないだろう。
「そろそろ阿修羅王様に挨拶に行く。久しぶりにご対面させてやるよ。おまえの大事な貧乳娘に」
仏陀は再び片目を開ける。
「それはいいが。今の言葉、阿修羅の前で言うなよ。電光石火で殺されるぞ」
「さあて。どうかな」
牢の扉を開け、見張りの兵が入って来た。仏陀は後ろ手に縛られ、両腕を取られて立たされる。抵抗しても面倒なので、言われるままに歩き出した。
仏陀は辺りを見回して改めて思う。『黄金の天車』は本当に凄い技術だ。これが天界の実力なのだろうか。動力が何なのかわからないが、天車は空間を浮いていながら、意志を持って動いている。中は故郷のカピラ城と同じくらいの広さだ。幾重にも階段が続く、六階はありそうだ。
大小の部屋には、クベーラ王の部下たちが住んでいるようだ。吹き抜けには小さな庭まである。今は大地から相当離れているのか、窓の向こうは漆黒の海。瞬く星々がホタルイカのように瞬いていた。
天界は『仏陀の拉致』の報に揺れに揺れた。梵天は激高し、帝釈天に軍を上げての捜索を命じた。同時にクベーラ王以外の四天王に天界の守りを強化させた。『黄金の天車』の攻撃に備えるためだ。
一方修羅王邸では、トバシュのところから戻ったリュージュが一連の事態を聞いていた。信じがたいことが起き、驚きを隠せない。
「師が拉致された? まさか、そんなことが……」
「そのまさかが起こったのですよ。どうしました? 朝よりさらに心ここにあらずですけど」
飲み込みの遅いリュージュに白龍がイラついた。リュージュは頭を二、三度振ると、頬をパチパチと叩いた。
「いや、すまん。集中するよ。そうだ、トバシュは色々詳しい。その『黄金の天車』についても何か知ってるかもしれないぜ」
『黄金の天車』も道具の一つである。誰かの手によって造られたものだ。天界なら有名だろうし、少なくとも造らせた梵天は知っているだろう。だが、あちらも今は猫の手も借りたいほどのてんやわんやだ。白龍はクルルにトバシュを連れてくることを頼んだ。
「阿修羅王! 白龍殿、リュージュ殿、大変です! 城が、城が!」
修羅王邸の外で警備をしていたカルラが、転がるように二人のいるリビングに走って来た。阿修羅は軍議室で天界と交信中だ。
「どうしました? ええぇ!」
白龍は、カルラが指さす方、リビングのテラスを見て声を上げる。突如現れた黒い影、その上には山のように大きな宮殿の姿があった。
「こ、これが『黄金の天車』? 半端ねえ!」
隣でリュージュが叫んだ。あれだけの大きなものが上空に来たというのに、全く音がしない。二人は初めて目の当たりにする天界の底力に、一瞬体が動かなかった。
「阿修羅王を呼んでください。リュージュさん、行きましょう」
庭に出ると、静かに宮殿が下りてきている。集結していた修羅王軍の兵士たちは、あっけに取られ、皆一様に頭上を見上げ茫然と立ち尽くしていた。
「黄金の天車。あれが……」
いつの間に来たのか、二人の横に阿修羅が並んだ。天車はゆっくりと高度を下げ、二階建ての屋根あたりまでの所にきて動きを止めた。黄金に宝石が散りばめられた扉が開くと、中から人らしき影が見える。
「シッダールタ!! 白龍、変化しろ!」
人影の中ににシッダールタの姿をみとめると、阿修羅が白龍に命じた。変化した白龍に飛び乗り、開いた扉を目指して宙を駆ける。リュージュや他の隊員も後に続いた。
「阿修羅王! そこからは遠慮してもらおうか!」
仏陀の横に立つ大男が空気をびりびりと言わせて叫んだ。白龍は空中で急ブレーキをかける。大男は三叉槍の剣先を仏陀の首に突きつけていた。
「貴様、シッダールタを離せ! 私を怒らせるな……」
背中で真っ赤なオーラが滾っているのを白龍は感じた。怒りという点では、これほどに強い怒りを感じたのは初めてだ。
「慌てなさんな。どのみちおまえたちはここへは来れまい。さて、自己紹介が遅れましたが、クベーラと申します。以後お見知りおきを」
急に敬語を使い、不敵な笑みを浮かべたクベーラが軽く会釈をする。槍を突き付けられている仏陀は無表情だが、阿修羅の目をしっかりと捉えていた。仏陀本人は『落ち着け』というサインを送っているつもりなのだが、通じているかどうかはわからない。
「クベーラ、貴様、自分がやっていることがわかっているのか。私に喧嘩を売るだけならまだしも。人間界に手をだすとは……」
「そうだな。夜叉達が世話になったな。どいつもこいつも役に立たなかったが。仕方ないから、俺が直々でてきたってわけだ」
六界を揺るがす大事を起こしたというのに、クベーラは悪びれもしなかった。阿修羅は今にも飛び出していきそうだ。白龍の腹を何度も蹴るが、白龍はじっと耐えていた。仏陀の周りには少なくとも五人の屈強なクベーラの部下達が囲んでいる。目の端で、リュージュがゆっくりと移動しているのが見えた。
「阿修羅、仏陀を助けたかったら、俺の要求を受け入れろ。おまえにはそれに従うしかない」
「要求? なんだそれは」
阿修羅もリュージュの動きを捉えていた。時間を稼ぐために話に乗ったフリをする。
「おまえが最も大事にしているもの、『阿修羅琴』を持ってこい。ただし、おまえ自身が一人で持ってこい」
「あ? あしゅらきん?」
乗ったフリをしているつもりが、思いも寄らない単語が出てきて阿修羅は戸惑った。なんだ? それは? 阿修羅きん、って、いや、どこかで聞いたことあるような。なにか今、脳裏にうっすらと絵が……。阿修羅は両手で頭を押さえる。わからない。なんだろう、こいつ、何を言ってるのだ!?
「どうした?! 阿修羅、造作もなかろう! 今すぐ用意できないのならば、1日待ってやっても良いぞ? 俺は紳士だからな!」
クベーラの馬鹿にしたような言いように阿修羅は考えるのをやめた。
「馬鹿か、おまえ。そんな『きん』知るか!」
その声と同時にリュージュが跳んだ。クベーラとは反対側から飛び込む。それを見た白龍が閃光のごとく前へ出る。
「うわぁ!」
仏陀にもう少しで届くと思ったその矢先、リュージュを乗せる天馬が電撃を受け弾かれた。危うくバランスを失い、落ちそうになる。白龍も同様に強い衝撃と共に弾かれてしまった。
「馬鹿どもが! この黄金の天車は戦車だ。そう易々と敵を迎えるはずもない! 阿修羅! 一日だ。一日だけ猶予をやろう。おまえが阿修羅琴を持ってこい! さもなくば、仏陀の命はないと思え!」
行くぞ! と仲間に声をかけると、クベーラは仏陀を引き連れて天車の中に入ろうとした。
「阿修羅! 私のことは気にするな! 自分でなん……」
仏陀が阿修羅に向かって叫んだが、途中でクベーラに殴られ最後まで言えなかった。阿修羅は白龍の腹を蹴る。
「追え! 白龍!」
白龍は痺れる体を奮い立たせて天車を追う。天車は高度を上げるとその大きさをどんどんと縮め、時空の穴の中へと飲み込まれていく。追えども追えどもその姿を捉えること叶わず、ついに最後のかけらまで飲み込むと、穴は閉じ、消滅してしまった。
「シッダールタ!」
阿修羅の必死の叫びは空に溶け、答えるものはなかった。
つづく
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